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お念仏を申す生活法話

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一つ心を合わせてご一緒にお勤めさせていただきます

 2月は如月といいます。何とも響きの良い言葉です。
2月に入って愈々この時期が一番寒いということです。
 
 1月は行く2月は逃げる3月は去るというように、あっという間に時間が経っていきます。
そういうなかでこうして一日一日のお勤めをさせていただける有難さを思います。
 
 一日24時間同じ時間ですが、その過ごし方は人それぞれ違います。
それぞれの生活をしているお互いがこうして一つ心を合わせて毎日のお朝事のお勤めをさせていただけるということです。
 何か当たり前のように思われる方もいらっしゃると思いますが
そのことが一つ一つ有難く有難くいただけるなかに一日の始まりを
今日もこうしてお朝事のお勤めをさせていただくなかに思います。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.2.2)

逃げて来い、あなたを決して見捨てない護り抜くから、逃げて来い

 今朝は東南の空に三日月が出てその上方に二つ大きな星が輝いていました。
今朝の新聞に昨日の東京明け方スカイツリーの辺りに三日月と金星と木星が集まって天体ショーがあったとありました。
 三日月の上に金星ちょっと離れて木星という今朝の上空のようすです。
 
 昨日の雨で空気が澄んでさわやかな明け方の空の風景です。
大きないのちの営みのなかに生かされてあるということを有難く思いつつ
何ともやりきれない事件の報道が続きます。
 一つは茨城県の女子学生殺害事件です。ネットで知り合い初めて会った男に殺されたという事件です。
もう一つは千葉県で父親が暴力をふるう虐待で小学4年生の女の子が亡くなったという事件の続報です。
 
 一年ほど前学校でのいじめについてのアンケートで
当時小学3年生のその子が「お父さんに暴力をふるわれている。先生どうにかなりませんか」と書いたものでした。
そのアンケートが教育委員会から父親に渡ったということです。
 ちょっと想像しても末恐ろしいことで女の子の恐怖は如何ばかりだったかと思います。
女子学生の事件もそうですが、父親はいのちをものとしてしか見ていない
自分の都合でどうにでもできるとしか思っていないのではないでしょうか。
 
 自分のもの、自分の子どもだから何をしてもどうしてもいいとでも思っているのでしょうか。
自分の子どもだからこそどんな子どもであっても護り通すのが親なのではないでしょうか。
 ところが一番身近にいる親が一番危ないのです。
子どもを何か自分の都合のいい持ち物のように扱っているとしか思えません。
 自分の子どもだから親はどんなことをしてもいい
これは躾だから他人から何か言われる筋合いはないとでもいうのでしょうか。
 
 それが学校の先生に告げ口したというかたちでアンケートを見たら
父親の感情を逆なで怒り狂うということではないでしょうか。そんなことを想像します。
 そのアンケートの前段に「秘密は絶対守ります」と書かかれていました。
秘密は絶対守るから安心して本当のことを書いてくださいということなのでしょう
 
 ところがです、本当に何ともやりきれないですよね。
小学校4年生の子どもです。何を誰を信じていいのか。もう最後の最後は絶望でしかなかったと思います。
一番守ってくれると信じている親に裏切られ、先生にも裏切られ、そしてあの教育委員会の面々です。
十数人の大人が一斉に頭を下げて、卑怯ですよ。
 教育委員会という何か一つの集団になったときにそれを隠れ蓑にして誰一人として責任を取らない
頭を下げておきさえすればいいとしか思えない、何かそんなことさえ思います。残念です。悲しいです。
 
 私たちの阿弥陀さまの大悲のお心です。お正信偈さまのなかに「大悲無倦常照我」とあります。
この阿弥陀さまの南無阿弥陀仏の救いの法は無倦で、飽きることなく私たちにはたらきかけてくださってあるというのです。
常に我を照らすなりと。有難いですね。決して私を見捨てないというのです。
 どんなに背中を向けるものでも、どんなにはむかうものでも
私はあなたを護り通すぞというおはたらきが、大悲無倦常照我です。
 
 大悲です。大きな悲しみです。阿弥陀さまは悲しみのなかから立ち上がって私を護ってくださるのです。
どういうことでしょうか。
 先のお正信偈さまの前三句目に「極重悪人唯称仏」とあります。
極重悪人とは阿弥陀さまが見抜かれたこの私のことです。
どこまでも自分を中心に欲の心怒りの心愚かな心を兼ね備えて生きる私のすがたです。
 阿弥陀さまはこの私のすがたを見て悲しみのなかから必ず救うと本願を起こし南無阿弥陀仏のおはたらきとなり
光明となって煩悩の心をうちやぶり私のところに至り届いてくださって
私の口からお念仏が出てくださるのです。
 どんなことがあっても誰もがあなたを見捨てようとも私は絶対決してあなたを見捨てないからという
阿弥陀さまの大きな大きなお心おはたらきです。
 
 開かれたお寺といいますが、ただ門を開いていることが開かれたお寺ではありません。
駆け込み寺といいます。逃げて来い逃げて来い私は絶対決してあなたを見捨てないから護るから
とにかく逃げて来い、ここがあなたの居場所だよという開かれたお寺なのです。
 
 このお寺です。ここ阿弥陀さまの御前です。
阿弥陀さまの御前で今日もこうしてお朝事のお勤めをご一緒にさせていただけたことを本当に有難く思います。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.2.1)

阿弥陀さまから開かれたこの道を往きましょう

 1月31日です。早いもので今年も一か月が過ぎます。
慌ただしく過ぎ行く日々のなかで受験生にとっては大変な思いで毎日日暮ししていることと思います。
 今は幼稚園からお受験があるということですが
私たちの頃は高校入試が人生の最初の難関でした。
 15の春といいます。
ただ志望校に合格する人ばかりではなくて、思い通りにならなかった結果に失意の涙を流す人もいます。
 
 振り返り見れば私たちの人生は受験をはじめさまざまな選択の繰り返しです。
2月のことばは「回り道も えじゃないか あなたに遇えた おかげさま」です。
 自分の思い通りに我が人生を選んで行ける人は一人もいないのではないでしょうか。
人生の岐路に立ち右に行こうか左に行こうかそれともと戸惑うなかに不安をおぼえる私です。
それで結果自分の思い通りにならないことにぶち当たり
何か回り道をしているような人に後れを取っているような不安のなかに一層迷いが深まります。
 
 私が歩むこの道は一つ道です。この道で人との出会いがあります。
この道だからこそのあなたとの出会いです。ご縁としかいいようのない不思議な出遇いです。
あなたに遇えたこの道は私が独りではなくあなたと一緒に歩く道でした。
 私の人生この道は後戻りできない、やり直しはできません。
でもあなたに遇えてよかったおかでさまと見直し喜んでいける人生でありたいと思います。
 
 あみだくじです。出発点から線が次々あってゴール目指して進んでいきます。
私たちの人生もこのあみだくじのようなものだと思います。
 まっすぐ行こうと思ったら突然横棒が入って左右どちらかに行かねばなりません。
そしてまたまっすぐ行こうと思ったらまた横棒と、右に行ったり左に行ったりということです。
 
 あみだくじのあみだは阿弥陀如来のことで、室町時代からあった当時のあみだくじは放物線状のものだったそうです。
それが阿弥陀さまの後光のようだったという由来です。
 阿弥陀は無量という意味ではかりない無量の光ということです。
阿弥陀九字の南無不可思議香如来の名号のすべてのものを摂取の光明におさめとって捨てないというおはたらきです。
 無量の縁のなかに生き放っておいたらどこに行ってしまうのかわからないこの私を目当てに阿弥陀九字はあるのです。
それぞれの人生を歩む私たちですが、結局は阿弥陀如来の後光発するところに還っていけるのです。
 
 何度も何度も迷うなかにも振り返ってみれば一つの道だった
それも自分が切り開いていく道ではなくて阿弥陀さまから開かれたお念仏の道だったといただきます。
 この人生いろんなことがあったけれどもどのこと一つすべてが南無阿弥陀仏のあなたに遇わせていただくご縁でしたと
ナンマンダブツとお念仏申してお浄土参りをさせていただきます。
 
 今日も右に行こうか左に行こうか迷うなかにも阿弥陀さまがご一緒されるこの道を生きて往きましょう。
 
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.1.31)

ご法事のご縁で懐かしい皆さんと久しぶりに再会できます

 ご法事のお勤めの後でお茶をいただくなかで
お参りされた方が「久しぶりに弟の家族に会いました」というお話をされました。
 10数人の方がお参りでした。
それぞれ近いご親族の方ですが、今は親族といって日頃集まることが中々ないということです。
そういうなかにあってご法事のご縁です。
 
 ご法事は先に往かれたご先祖有縁の方を偲ぶ仏事仏さまのご縁です。
私からいうとお父さんお母さんおじいちゃんおばあちゃんのご縁です。
お父さんお母さんでいうと子ども、おじいちゃんおばあちゃんだったら孫ということで、人数が増えてきます。
 
 近くにいても皆さん一緒に集まることが難しいなかで
先に往かれた仏さまが子や孫を御仏前に一堂に会わせてくださるご縁なのです。
 今は東京や大阪など遠方に家を建て生活をしていてこちらにはお墓しかないというご縁の方も増えてきました。
ただそういう方々もこちらに帰ってみえられてご法事のお勤めをさせていただけるということです。
 
 ご縁つながりといいます。ずっとずっとつながってあるということです。
限りある人の命を生きているお互いですが、限りない南無阿弥陀仏のいのちにつながってある私たちなのです。
 親族血縁の人つながりばかりではありません。
今日お参りの皆さんです。
 お念仏一つにつながって生かされて生きてある私たちです。
「独りじゃないよ 私がいるよ 大丈夫だよ」といつでもどこでもご一緒してくださる阿弥陀さま
南無阿弥陀仏の大きな支えいのちの依りどころをいただいて
今日一日もいろんなことがあると思いますが生きぬかせていただきましょう。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.1.30)

お念仏のご縁つながりは永遠です

 お墓の後を見る人がなくなるということで墓じまいという事態になります。
お墓を見る方がいてもお墓から遠くに住んでらっしゃるということで墓じまいをして改葬されます。
お墓を新しく改め求めてお遺骨を移しご安置するということです。
 そういうご縁が二件続きました。
 
 お墓の改葬を機会に門徒を離れるということになります。
ただお寺と門徒の縁が離れても浄土真宗というお念仏のご縁はずっとつながったままです。
 付くとか離れるとかいうのは人間の了見でのことです。
円光寺の門徒つながりは離れても浄土真宗のお念仏ご縁つながりは永遠なのです。
 どんな人も平等に阿弥陀如来の救いの法南無阿弥陀仏のご縁つながりのなかに生かされてあるということですから
人間のはからいでどうこうということではないのです。
 
 先日の墓じまいのご縁で納骨堂からお遺骨を取り出し本堂にご安置してご一緒にお勤めをさせていただき
どうぞまたご縁がありましたら円光寺にお参りしてくださいとお話したことです。
 南無阿弥陀仏のご縁をいただいた私たちはこれからもずっとずっとお念仏につながっていくのです。
 
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.1.29)
円光寺
〒870-0108
大分県大分市三佐3丁目15番18号
TEL.097-527-6916
FAX.097-527-6949
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