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お念仏を申す生活法話

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火宅無常の身を生きる

 今日も雨模様ですが、最近火事のニュースが多く亡くなる方もいらっしゃって気になります。
 
 諸行無常と聞かせていただきます。
この世のことは一つとして常なるものはないという仏さまのおさとしです。
火宅無常といって、火に包まれ燃え盛る家の様に譬えて無常を説かれます。
 
 今まで大事に大事にしてきたものが瞬く間に灰になる様を目の当たりにして私たちは呆然と立ちつくします。
思い出のいっぱい詰まった我が家です。衣服もアルバムも財産もすべてです。
大切な家族を失うことにもなります。我が身かもしれません。
 
 無常とは常が無いと書きますが、日々刻々と変わり行くということです。
それは私がこの目で見ている外のことばかりではなくて、自分自身が変わり行くということなのです。
 
 生老病死の身を生きる私のことです。
生きるということは老いること病むことそして命終えていくということです。
まさに「朝には紅顔ありて夕べには白骨となれる身」なのです。
 
 確かな当てもなく明日がある明日があると迷いのなかに生きるのではなく
真実変わらない仏法を依りどころに生きてくれよと仏さまは呼びかけおはたらきです。
 
 仏さまのご縁に遇わずじまいにこの人生を空しく終えていくことほどもったいないことはありません。
火宅無常の世にあってそのまま来いと呼び通しに呼んでくださる南無阿弥陀仏のお呼び声を聞かせていただき
ナンマンダブツナンマンダブツとお念仏を申すなかに今日一日も生かされて生きてまいりましょう。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.2.9)

今日も一日が始まります

 毎朝6時の鐘をついていますと、今は暗い中を山門鐘楼の前を通る人は滅多にいませんが
昨日は自転車でちょっとこちらの方を振り向いて行かれる方がいらっしゃいました。
今日は近くの事務所に歩いて前を通られた方がいます。
 
 ほとんどのお家の灯はまだついていませんが、なかに灯のともったお家が何軒かあります。
今日一日の生活が始まるんだなと、朝の支度をしている人を想います。
 
 人それぞれの生活です。
その生活ぶりはそれぞれ違いますが、お念仏の尊いご縁に遇わせていただきますと
人それぞれの生活がそのまんま一つ処につながってお念仏の道を歩まさせていただけると有難く思います。
 
 ナンマンダブツナンマンダブツとお念仏申させていただきます。
お念仏申して今日の一日が自分の思い通りに生きることができるのではありません。
 お念仏申して自分の思い通りにならないことに遇うこともあるでしょう。
でも大丈夫、ナンマンダブツナンマンダブツと阿弥陀さまがいつでもどこでもこの私にご一緒してくださってあるのです。
 「いつも私が一緒だよ。我にまかせよ必ず救う」と南無阿弥陀仏の大きな大きなおはたらきのなかに
このいのち輝かせて今日も一日精いっぱい生かされて生きてまいりましょう。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.2.8)

久しぶりに本屋さんに行きました

 久しぶりに本屋さんに行きました。
昨日の新聞朝刊に葬儀について特集した週刊誌の広告があったので買いに行ったのです。
 店内を探し回りました。
結構広い店舗ですがお客さんは20人もいなかったと思います。雑誌のコーナーにたくさん人がいました。
 
 そのなかで樹木希林さんの『一切なりゆき』という新書本を手に取っている方を二人見かけました。
今売れ行き№1の本だそうです。男性と女性で60代70代前後の方のように見えました。
 
 仕事を終えたとか子育てを終えたとか人生の大きな節目にあって、自らの人生を見つめ直すということでしょうか。
人生の歩みをちょっと止めて、これまでの人生を振り返りこれからの人生を思って考えるということでしょう。
 そこで人生の指南書です。何かを参考に学びたい教えてほしいということです。
私たちでいったらこのご縁に仏さまの教え、仏法を聞いてくれよということですが、仏法までは中々ご縁がないようです。
そこで著名な方が人生の道すがら日々の生活のなかで感じたこと思ったことが身近な教科書になるというのでしょう。
 
 樹木さんは昨年9月に75歳で亡くなられましたが、60歳を過ぎて大病を患うなかで
テレビや雑誌を通じて私たちに含蓄のある言葉をたくさん遺してくださっています。
その身の丈に合った飾り気のない言葉の数々が本になり多くの注目を集めているということです。
 
 樹木さんは癌になったことで人生観も変わったと言われます。
「『人は死ぬ』と実感できれば、しっかり生きられる」という言葉があります。
死ということに向き合うなかで生きることが楽になったといいます。
 
 私たちは若くて元気なうちは死を考えるってことは中々しません。
死を忌むべきことと遠ざけ生きることに精いっぱいです。
 ただこの身の事実です。限られたこの命、老いること病むこと死ぬことは待ったなしの私の問題であり
この問題の解決なしにこの人生を生き切ることにはなりません。
 
 仏法聴聞させていただきましょう。
樹木さんの言葉のなかには仏さまのことばもでてきます。
 縁あって人に生まれ縁あって人と出会いそして別れを繰り返す私たちの人生です。
人それぞれの人生だけれどもあらゆるいのちのつながりのなかに生かされて生きている私たちです。
 
 今日もこうして御仏前に身を置いて南無阿弥陀仏のみ名を聞き
今日の一日を始めさせていただける有難さを思います。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.2.7)

手を合わすご縁をつくってくださった仏さまです

 昨日納骨のご縁がありました。
納骨した後でお勤めをしますが、施主の方が「このお墓の中に何か分からないお骨が二つ三つある」と言われました。
誰でしょうか?と言われても私は分かりません。
 多分以前何度かお墓にお遺骨を納めた方は分かると思うのですが
その方も今はお墓に入っているということで分からないのではと思います。
 その方曰く、ニュースでお骨のもっていき場のない方が勝手に見ず知らずのお墓に納骨すると聞いたことがあるが
そうではないのですか?と言われても私は分かりません。
 
 大事なことは納骨する際にその方のお名前を書いておくとか誰のお遺骨か誰もが分かるようにしておくことです。
私の身近な大切なお方のお遺骨です。誰のお遺骨か分からないようでは申し訳ありません。
 ただお遺骨も一つ二つ三つ四つと増えてまいります。
私のいのちの恩人のお遺骨を大事にしてあるべきところに埋葬するということですが
お遺骨がこれから段々と増えてきて納骨壇やお墓に納めきれない事態になります。
それからの行き先も考えておかねばならないことにもなってきました。
 
 納骨壇にしてもお墓にしても先に往かれた方を偲んで手を合わすところです。
今は散骨や合葬ということが言われ、手を合わすところが分からなくなるようなことにもなってきました。
 この本堂にしても皆さんのお家のお仏壇にしても手を合わすところです。
手を合わすことが中々難しい日々の生活のなかで
手を合わすご縁をつくってくださったのも先に往かれた仏さまのおはたらきと有難くいただきます。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.2.6)

永代経は永代供養のためのお経?

 永代供養ということを最近よく聞きます。永代経ということもいいます。
永代供養とは永代にわたって亡き人の供養をするということでしょうかね。
 
 「私はいつまで生きるかわからないから親の年忌の法事を全て一緒にしてください」と頼まれたお寺さんのお話です。
一周忌か三回忌、いや初七日満中陰のご縁で、七回忌十三回忌十七回忌二十五回忌三十三回忌五十回忌すべてのお勤めを
永代供養ということで永代経をあげてくださいとでもいうのでしょうか。
 
 そんなわけにはいきません。
というのは一周忌には一周忌の意味があるのです。三回忌七回忌十三回忌それぞれの意味があるということです。
それはお勤めされる方(施主)が歳をとるということの意味です。
 
 この私のことです。三回忌で思うことと三十三回忌で30年経って思うことは違ってきます。
子が親の法事を勤めるとき、法事の度に親の年齢にどんどん近づいて三十三回忌ではほぼ同じ年になるということです。
 歳を重ねて親の年齢に近づいてきて
お父さんの気持ちが少し分かってくる気づかされることがあるというのがご法事を勤める意味有難いことなのです。
 
 一方永代経は永代供養のためにあげるお経と思ってらっしゃる方があると思いますが
永代経というお経はありません。永代経にはもっと深い意味があるのです。
 そもそもお経というのはお釈迦さまの教えなのです。
お釈迦さまの教えが永代にわたって人々に伝わっていくようにとお勤めすることが永代経の意味で
永代経懇志ということで施主がご懇志を寄せて仏法流通のお手伝いをさせていただくのです。
 
 このお寺です。念仏の道場聞法の道場といわれる浄土真宗のお寺です。
お寺はご門徒皆さんがお釈迦さまの教えを聞くために建てられたものです。
お念仏のご縁の中心的な拠点がお寺なのです。
 ところがお寺も永年年月が経つと修復するところが出てまいります。
それで懇志を寄せて永代にわたってお釈迦さまの教え浄土真宗阿弥陀さまのお念仏の救いの法が
一人一人に受け伝えられていく、まさに念仏の声が世界に子や孫に伝わっていくお手伝いをさせていただくのが
永代経ということの意味なのです。
 
 一ぺんに全てのことが済むのか、済まされるのか。そんなわけにはいきません。
そんなことを言うんだったら私の命も90歳まで生きたということで今ここで命終えることができるのでしょうか。
 今こここの私をいのちが生きているのです。
今こここの私にお念仏申してくれよと阿弥陀さまがおはたらきです。
 そのこと一つそのままいただいて今日一日も生かされて生きてまいりましょう。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.2.5)
円光寺
〒870-0108
大分県大分市三佐3丁目15番18号
TEL.097-527-6916
FAX.097-527-6949
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