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お念仏を申す生活法話

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今日から学校です。三学期が始まります。

 今日は1月8日で学校が始業式ということです。三学期が始まります。
子どもたちはどんな気持ちで今日の朝を迎え学校に行くのでしょうかね。
 
 小学生の頃を思い出します。冬は嫌でした。
毎年しもやけができて、手足の指が真っ赤に腫れ上がりかゆくてかゆくてなかなか寝付けなかったです。
指を糸でしばって針で血を出すんですが、これが痛くて嫌でたまりませんでした。
 中学高校になると体育の時間が決まってマラソンでした。
これも本当に嫌でそれこそ風でも吹いて雨でも降って中止になればいいと何度も思ったものです。
 
 今日はこんな楽しみがあるとウキウキして家をでかけることもあれば
今日はこれをしなければいけないとため息を何度もついて暗い気持ちで
学校にまた職場に出かけることもあるのではないでしょうか。
 
 自分の思い通りにならないということは嫌な思い出として今も心の片隅にしっかり残っています。
ただ考えようによっては思い通りにならないことも含めて今の私があるということではないでしょうか。
 それこそ苦しみ悩み迷いのなかにある私をこの阿弥陀さまはすでに見抜かれ見捨てることなく
そのまま救う必ず救うまかせよと南無阿弥陀仏となって私のところに来てくださってあると聞かせていただきます。
 
 子どもの頃若い時分は嫌だ嫌だというばかりでしたが
こうしてお聴聞させていただくなかにあの頃も今もそしてこれからも
大きな大きな阿弥陀さまのお慈悲のなかに日々の生活をさせていただけるとまた有難く思います。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.1.8)

大河ドラマ『いだてん』の始まりです

 NHKの大河ドラマ『いだてん』が始まりました。
大河ドラマというと源平の時代、戦国時代そして明治維新を背景にした設定がこれまで殆どでしたが
今回は近代現代を舞台にしたドラマで東京オリンピックが大きなテーマになっています。
 金栗四三さん田畑政治さんという実在した人物が主役で、初めて聞く知るという方も多いと思います。
私たちが生きてきた時代に重なることで興味深くこれからの展開が楽しみです。
 
 昨日は昭和39年の東京オリンピック開催に向けて世界中のオリンピック委員にプレゼンテーションする場面で
日本の学校では教科書にオリンピックのことを載せて教えていますというスピーチがありました。
 ちょうど私が小学生の頃のことです。それを聞いて思い当たることがありました。
オリンピックの父クーベルタンが言った「オリンピックは参加することに意義がある」という言葉です。
五輪のマークの話もありました。学校でみんなで教科書を唱和したことをふと思い出しました。
 
 タイトル「いだてん」は韋駄天という仏教の守護神のひとつといわれる神さまから付けられたといいます。
この韋駄天は元々インド古来のバラモン教の神で仏法に帰依し
お釈迦さまがなくなった後お遺骨の仏舎利を悪鬼が盗んで持ち去ったのを
韋駄天が追いかけて仏舎利を取り戻したということで
足の速い神といわれ、足の速い人を韋駄天と呼ぶようになったということです。
 
 仏教に関係することも一つ心に留めてこのドラマを観るのもいいのではと思います。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.1.7)

3億3360万円のマグロ

 昨日東京の豊洲市場で新春恒例の初セリがあり青森大間のマグロが3億3360万円で競り落とされたというニュースです。
これまでの最高値の2倍以上の金額だそうです。
築地市場から豊洲市場に移って初めてのご祝儀相場ということなんでしょうが、皆さんどう思いますか。
 ちょっとやり過ぎかなって当の社長さんも困惑ぎみにコメントしていました。
やっぱりほどほどの適正価格というものがあると思うんですが、何か落ち着きません。
 
 NHKのニュースにも取り上げられ「初セリで3億余りで競り落とされました」とアナウンスされていました。
余りって何でしょうかね。3360万円ですよ。
3360万円って、年収にしたら高給取りですよ。
360万円でも、日々やりくりして生活している人がたくさんいます。
 
 格差社会といわれ経済的な格差で貧困に苦しむ実態がすぐそばにあります。
その日その日の生活に本当に困ってらっしゃる方がたくっさんいらっしゃるなかで、ちょっと考えものだと思います。
 
 私たちの日々の生活です。お金だけではありませんが、やはりそういうところに目が行きます。
この話題もニュースに取り上げられなかったらこんなとんでもない超高額にはならなかったと思います。
お店の宣伝…いってみたら人間のおごりです。
 人間の様々な思惑渦巻くなかに私たちの日々の生活があるのかなと思うと何かやりきれない気持ちにさえなります。
 
 浄土真宗のご法義に聞かせていただきます。
私たちの阿弥陀さまのご法義南無阿弥陀仏のお救いの法は誰一人取り残さないというご法義です。
どんな人も分け隔てなく必ず救うそのまま救う決して見捨てないというご法義です。
 
 私たちは日々皆さん精いっぱい頑張って頑張って頑張って生きています。
その頑張りが本当に思い通りにいけばいいんですが、思い通りになることは中々ありませんよね。
 いや頑張れば頑張るほどうまく行かなくて
一人取り残されるような独りぼっちになるようななかに生きています。
 寂しいです。辛いです。やるせないです。
 
 お念仏のみ教えに南無阿弥陀仏のお心を聞かせていただきましょう。
お念仏を申すなかに今日の一日も生かされて生きてまいりましょう。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.1.6)

老いを受け入れる

 仏教で生老病死の四苦といいます。
生きるということは老いること、生きるということは病むこと、生きるということは死ぬことといわれて
わが身の事実と受け入れることは本当に難しいことです。
一つとして私の思い通りにならないことで、そこに私たち人間の根本的な苦悩があるとお釈迦さまは教えてくださいます。
 
 齢を重ねて私たちが日々当面する苦は老苦でしょう。
気持ちは若くあっても身体は正直で至るところに老化現象があらわれてきます。
 昨日までできていたことができなくなる現実にたじろぎ不安をおぼえます。
 
 「齢をとったなあの時はよかったな」と若い時分と比べて齢はとるものではないと
今までできていたことができなくなったと今の自分を嘆き老いを拒む見方があります。
ついついそういうことを思いまた言葉にも出ます。
 
 一方で「齢をとってこれでいい。あまり頑張りすぎると若い人の出る幕がなくなる」と老いを受け入れ
普段のことができないくなるのも齢のせいと受け止めていくのが、老苦を超えていく極意というんでしょうね。
ただ極意という以上中々できないことではありません。
 
 やっぱり頑張るんですね。私が私がどこまでも頑張るんですね。
その頑張りは善い悪いということではありませんが
頑張れば頑張るほど昔の自分と比べたり周りの者と比べたりとして苦しみ悩みが一層深まるというのです。
 
 我が身心を苦しめ悩ます煩悩の一つに慢の心があります。
慢心です。一番身近な慢心は我慢自慢ということです。
 我慢することは何か善いことのように思われています。
私が我慢しているからこの家はうまくいっているとか思っているところがどこかにありませんか。
 ところがその我慢にも限界があるのです。
縁に触れれば堪忍袋の緒が切れたと爆発し周りを責め立てることにもなります。
 しんどいですね。
 
 仏法に遇って齢をとって善いこともたくさんあると聞かせていただきます。
 老いるなかに今まで若い時分に見えなかったことが見えてくる、気づかなかったことに気づかされる
聞こえなかったことが聞こえてくるといただけるのが、仏さまのご縁なのです。
 
 ナンマンダブツとお念仏申すこと一つ、若い時には中々できなかったことが今できています。
齢を重ねて仏さまのご縁をいただいてこの口からお念仏が出てくださる身にさせていただけたということを
喜ばせていただくなかに今日一日もお念仏申して生かされて生きてまいりましょう。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.1.5)

仏教の教義を信じないお坊さん?

 正月三が日も終わり平生の生活に戻りつつあります。
正月はテレビは特別番組があり、新聞も新年の特集を組んで現代社会の課題を取り上げています。
 その中で仏教関係の新聞にちょっと考えさせられる記事がありました。
 
 寺離れということが言われています。
核家族化が進み社会的な人口移動もあって、ご門徒のお家もお寺から遠く離れ移って
お寺参りも難しく月参りもできなくなって葬儀や法事のご縁だけになり
日頃のつながりが薄くなるなかでご門徒が減っていく事態にまでなってきています。
 人口動向は社会的な現象でそのこと自体を一寺院でどうこう対処することはできませんが
これまでのお寺とご門徒との関係あり方とは違うご縁つながりを考えていかないと
それこそお寺の存続の危機につながるという指摘です。
 
 仏教の教義についても現代人の思考から離れたものになってきているという指摘です。
私たちは小さい頃からずっと科学万能、科学至上主義の教育のなかで育ってきました。
 浄土真宗でいいますと、お浄土はあるとかないとか阿弥陀さまがいるとかいないとか
それを証明してくれたら信じるといった科学的なものの見方考え方が身に付いてしまっている人たちに
どう仏教の教義を教え伝えていくのかという難しさです。
 
 そして仏教教義を教え伝える僧侶に自分たちの教えを信じないお坊さんが多いという指摘です。
わが身に引き当てて受けとめていかねばならないことです。
 教義を信じないお坊さんが話す言葉はどんないいことを言っても響きません。
たとえそれが仏さまの言葉そのものであってもです。
 言葉だけを伝えるのではありません。
仏さまの教えを話し伝える僧侶、その人の生活ぶり生き方がその身にそのまま出てくるのです。
周りの人がちゃんと見ている、見られているということです。
本当に厳しいことです。
 
 教義を信じるということです。浄土真宗は信心が肝要だといいます。
今日の御文章さまのなかにも何度もでてきました他力の信心をいただくということです。
これは僧侶だけではありません。ご門徒皆さんもご門徒でない方もです。
 阿弥陀さまの方で誰だれを選ぶということではありません。
すべてのものを分け隔てなくそのまま必ず救うと南無阿弥陀仏のおはたらきです。
 
 南無阿弥陀仏のお心をそのまま聞かせていただくことが大事なのです。
阿弥陀さまの真実信心をそのまま聞かせていただけよというのです。
 仏さまのご縁に遇わせていただきましょう。
まずこの私がを仏さまのご縁に遇わせていただくことです。
そして一人でも多くの方に仏さまのご縁に遇ってほしいと
すぐ隣の方に声かけをしてまいりましょう。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.1.4)
円光寺
〒870-0108
大分県大分市三佐3丁目15番18号
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