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お念仏を申す生活法話

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仏さまと菩薩さまのおすがたの違い?

 浄土真宗の本堂のお内陣は阿弥陀さまのお浄土のすがたを表します。
お浄土には阿弥陀如来さまがましまして今現在お説法をされているとお経さま(仏説阿弥陀経)に説かれています。
阿弥陀さまのおさとりの世界です。
 本堂お内陣のまん真ん中に阿弥陀如来さまをご安置させていただきます。
浄土真宗の御本尊の仏さまです。
 
 皆さんのお家のお仏壇も同じです。
そのおすがたはお木像、ご絵像そして南無阿弥陀仏のお名号と違いますが、同じ御本尊の仏さまです。
 そしてお寺のお内陣もお家のお仏壇も向かって右側に親鸞さま左側に蓮如さまの絵のおすがたをご安置しています。
本堂のお内陣には向かって右余間に聖徳太子さま、左余間に七高僧さまの絵のおすがたもご安置しています。
 
 阿弥陀さまという仏さまとその他の聖人菩薩さまを一緒にご安置していますが
仏さまと菩薩さまとではお徳はたらきが違うのです。
 仏さまはすでにおさとりを開かれたお方です。
一方菩薩さまは菩提心というおさとりを開こうとする心を起こしてまさに仏道修行されているお方なのです。
 
 その違いがおすがたそのものに表れています。
阿弥陀さま以外のお方は皆さん僧衣をまとい念珠や払子といった法具をもっています。
一方阿弥陀さまは何ももっていません。僧衣もつけず裸同然のおすがたです。
 ここに仏さまと菩薩さまの違いがあるのです。
つまりは菩薩さまはまだおさとりを開かれていない方ではからいがあるというのです。
そのはからいが一つ形となって身につけるものになっているといいます。
 
 阿弥陀仏さまは光の仏さまです。
おすがたそのままが光輝く光の仏さまになってくださってあるのです。
 そのまま救うそのまま来いよそのまま抱き取るからと南無阿弥陀仏のおよび声になった仏さまなのです。
 
 今日も皆さんのところに至り届き皆さんの口からお念仏となって出てくださってあるのです。
そういうお心もちでお寺にお仏壇にお参りして阿弥陀仏さまにお礼をさせていただきましょう。
 
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.1.13)

信心喜べない私をこそ必ず救うと阿弥陀ほとけはおはたらきです

 今日の御文章さまのなかに「聞其名号信心歓喜」という御文をいただきました。
阿弥陀さまのご本願、第18願成就文のお言葉です。
 其の名号を聞きて信心歓喜すといへり。
その名号とは南無阿弥陀仏のことです。
南無阿弥陀仏のいわれを聞いて信心歓喜です。
 信心をいただくといいます。
そのいただく信心は私が起こす信心ではなく
南無阿弥陀仏の阿弥陀さまのご本願のお心そのままを聞かせていただくのです。
 
 歓喜とは二つの文字ともよろこぶということで
親鸞聖人は歓とは身をよろこばす喜とは心をよろこばすといただかれ
信心をいただきお念仏よろこび申す生活をさせていただきましょとお勧めですが
信心歓喜と中々いただかれない私がいます。
 
 歎異抄に「念仏していても身にも心にも喜びがわいてきません。急いで浄土に往きたいとも思いません」と
唯円房が親鸞聖人にたずねられたといいます。
 阿弥陀さまのお浄土に生まれさせていただけると聞かせていただいても
この娑婆の世界を離れて早くお浄土に生まれたいとも思わないというのです。
 そのとき親鸞聖人から「何を今まで聞いてきたのか。そんなことではお浄土に往生することもおぼつかない。
もっと聞きなさい、お念仏申しなさい」とお叱りを受けるかと思ったら
親鸞さまは「唯円坊もそうだったか、実は私もそうなんだ」と言われたといいます。
 
 身にも心にも喜べないのは煩悩のせいだと言われ、煩悩の身をかかえ苦悩の日々をおくる私だからこその
阿弥陀さまのご本願「必ず救うまかせよ」の南無阿弥陀仏のおはたらきだとお示しになられたのです。
 
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.1.12)

感謝の気持ちは現在進行形です

 昨日レスリングの吉田沙保里さんの引退会見がありました。
前々日にネットで17個のメダルの写真とともに引退表明をしていましたが
会見で17個のメダルのなかでどのメダルが一番印象に残っていますかと質問がありました。
 しばらく考えてから「どのメダルにも思い出がありますが、リオ五輪のメダルです」とこたえられました。
オリンピックと世界選手権で獲得したメダル17個のうち唯一銀メダルに終わった試合です。
そして「あのリオ五輪が私を本当に成長させてくれました」と言われました。
 
 いつも金メダルで表彰台の一番頂点に立つことばかりだったのが、リオ五輪では一段下の台に立ったのです。
「負ける者の気持ち悔しさ色んなことを思いました」と続け
「そういう一緒に戦う仲間がいたから頑張れてこれたし仲間がいたから成長することができた」と
感謝の気持ちを本当に素直に言葉にされていました。
 
 恩師のパラハラ騒動がありました。この質問もあるなと覚悟の上だったと思いますが
そのまま受け止め恩師にもまた同僚の選手にも感謝の気持ちをずっと言葉にしていました。
 
 すごいなと思います。頂点を極めた人の実に堂々とした清々しい会見でした。
感謝の言葉が本当に素直にそのまま出てくるということです。ありがとうという気持ちです。
そのありがとうは今までのことに対しての感謝だけではありません。
これからもずっと感謝、ありがとうの気持ちで今日も明日も明後日も周りの人と接していくことのすばらしさを
本当にさわやかに伝えてくださいました。
 
 リオのオリンピックは本当に心から悔しく自分が情けなかったのでしょうね。
「皆さんに申し訳ない」と何度も言いお母さんの胸に顔をうずめて「お父さんに怒られる」と
泣きじゃくった姿が忘れられません。それも素直な気持ちだったと思います。
 その悔し涙のなかに本当に人として成長していくことのすばらしさを昨日の笑顔の会見で思いました。
 
 これは吉田さん一人のことではなく私たち一人一人のことについてもあてはまることではないかなと思います。
ナンマンダブツナンマンダブツと感謝のお念仏ですよとお聞きします。
 ナンマンダブツとお念仏を申すなかに、仏さまの大きな大きな南無阿弥陀仏のお心おはたらきに抱かれ育まれて
感謝の気持ちいっぱいに今日の一日も皆さんと共に生かされて生きてまいりましょう。
 
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.1.11)

お寺にお参りすることとお宮にお参りすることの違いって何だろう?

 昨日は学校が三学期になって初めての水曜日で、すいよう学校の子ども会新春お楽しみ会をしました。
いつもの水曜学校のお友だちに加えて全部で12人の子どもが集まってくれました。
やっぱり賑やかなのがいいですね。
 
 みんなで一緒にお勤めをして新院さんがご法話をしました。
お正月は初詣でお宮にお参りする人が多いけど「お宮にお参りすることとお寺にお参りすることはどう違うのかな」と
子どもたちに尋ねました。
 子どもはいいですね。思ったことをすっと答えてくれます。
男の子が手を上げて「お寺は本堂の中に入って仏さまにお参りする、お宮は外から神さまにお参りする」と言いました。
そうですね。当たり前のように思っていることですが、あらためて言われてみると大事なことに気づかされます。
 
 お寺には御本尊の仏さまが本堂の中央にご安置されています。その御仏前に座って手を合わせお参りします。
一方お宮の神さまはこの目に見える姿としてはありません。お宮の中央奥の院に神さまがいらっしゃるといわれます。
 人間の力を超えた不思議な力をもった神さまです。
神さまのお力おはたらきで人間の願いを成就してほしいとお願いするのが神さまへのお参りです。
祈願の思いを込めて柏手をたたきます。
 
 一方仏さまのお参りは手を合わせ浄土真宗ではナンマンダブツとお念仏を申してお礼をします。
十方衆生を必ず救うと願われ本願成就された阿弥陀仏さまのお姿は
そのままこの私を救うてくださるおはたらきと聞かせていただきます。
 
 ナンマンダブツとお念仏申して南無阿弥陀仏のお心を聞かせていただきます。
お正信偈さまのお勤めも聞かせていただくということです。
 神主さんが祝詞をあげます。お参りの皆さんは神妙にして聞いています。
私たちのお勤めはお坊さんご門徒衆ご縁の皆さんご一緒に声に出してさせていただきます。
 南無阿弥陀仏と私のところに来てくださった阿弥陀仏さまのおはたらきです。
ナンマンダブツとお念仏申すそのままが南無阿弥陀仏のお心を聞かせていただくことです。
 
「我にまかせよ必ず救う、いつも私が一緒だよどんなことがあってもあなたを見捨てることがないよ」と
私に何の条件もつけずそのまま救うとおはたらきです。
「はいおまかせします、阿弥陀さま」と手を合わせお礼をさせていただける有難い南無阿弥陀仏のご法義です。
 
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.1.10)

「人身受け難し今すでに受く、仏法聞き難し今すでに聞く」

 昨日別府別院の初法座のご縁にお参りさせていただきました。
佐賀の方からご講師がみえてご法話お聴聞させていただきました。
 ご法話のご讃題は礼讃文といってどの仏教聖典にも大抵載っている御文で
「人身受け難し今すでに受く仏法聞き難し今すでに聞く」でした。
 
 人身というのは人の身この人間に生まれるということは本当に難しい中にできてこの私が今ここにあるということです。
そして人間に生まれても仏法に遇うことはこれほど難しいことはないというのです。
 お釈迦さまの譬え話に、ガンジス河という大きな川の河原の無数にある砂を手にすくい取ってお弟子さんに
「人間に生まれるというのはこの河原のすべての砂の中のこの手にしたこれぐらいなものだよ」と言って
そしてその砂を指先だけに残し払って
「人間に生まれたなかでも仏法に遇うことはこの指先の砂ほどに有難いものなんだよ」と教えられたといいます。
 
 人間に生まれて仏法に遇わせていただくことの有難さとを譬え話で
人間に生まれる確率は年末ジャンボの1等10億円の宝くじが100本100回当たるようなもので
1回当たるのも甚だ難しいなかでこれほど難しいことはないとお話されていました。
 そして人間に生まれたなかで仏法に遇わせていただくということです。
私たちは地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上の六道六つの世界を輪廻してこのたびは人間に生まれたということです。
この六道すべてが迷いの世界ですが、人間世界に生まれた意味は仏法に遇えるご縁をいただくということなのです。
 
 お釈迦さまがこの人間界に生まれ出てくださったということです。
私たちと同じ人間の身を生きおさとりを開かれて仏に成られます。
そして仏法を説かれお経さまとして私たちに伝えてくださってあるということです。
 
 お釈迦さまは迷いの人間世界に生きる私たちに
仏法に遇って今度こそは六道の迷いを超えて仏の世界に生まれて来いよと願われています。
 
 人間に生まれて仏法に遇わせていただくことの有難さを思います。
仏法に遇うために人間に生まれさせていただいたといただきます。
 
 今ここにこの私が仏法のご縁に遇うことができたことを有難く受けとめて
これからもお念仏申すなかに日々生活させていただきましょう。
 
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.1.9)
円光寺
〒870-0108
大分県大分市三佐3丁目15番18号
TEL.097-527-6916
FAX.097-527-6949
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