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お念仏を申す生活法話

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コロナ感染者の急激な増加で悩ましい問題です

2021-04-26
 新型コロナウイルスの大分県内の感染者が
ここ数日で急激に増えて連休を控えるなかで
予定していた行事をどうするのか
難しい判断を迫られる状況を
身近なこととして受け止めています。

 大きな行事になればなるほど準備が大変です。
そしてそこにたくさんの人が係ります。
 人が係ることはそれぞれ人人のものの見方考え方が違い
みんなの思いが十分に反映されない対応になることも
起こってきます。

 行事をするしないという選択から延期するとか
行事の内容を変更して行うとか
みんなで話し合い相談しても
決まらない決め切れないことがでてきます。

 誰が最終的に決断するのか
責任者の裁量が求められますが本当に悩ましい問題です。

 日本の国でいえば総理大臣です。
専門家の意見を聞いて総合的に政治的な決断です。
 ただこれまでも重大な決断の時は何度もありましたが
どう決断してもこれでよかったということではなく
後から批判非難の声が多く聞かれるようなことです。

 最近の菅首相の会見を見ても
目はうつろで言葉に力がなく本当に大変だなと思います。

 目に見えない分からないことが多いウイルスが相手です。
全く予測がつきません。
 どんどん変質しては感染状況も日に日に変わってきます。
誰がリーダーでもウイルスを抑え込むのは至難の業です。

 日々変化し予測がつかない相手には
柔らかい対応が求められます。
 柔軟性です。

 逆に言いますと私たちは固いのです。
それぞれの思いをもって生きている私たちです。
 その人その人の信念といえば何か聞こえがいいですが
そのことにとらわれるはからうことが往々にしてあります。
 そうした自己中心のものの見方考え方が
みんなが一歩前に進むことを妨げる邪魔をするのです。

 行事の日が来ます。
決断しなければなりません。
 決断します。
中止、延期、内容変更と決断の中身は様々です。

 残念なのは後からああすればよかった
ああやったこうやったと色々言われることです。
 リーダーに苦渋の決断を迫った上に
責任追及の上塗りです。

 良くも悪くも今なのです。
私たちの人生をみても
過去を振り返ってああすればよかった
何でこんなことをしたのかなどと後悔するがあります。

 同じ過ちを繰り返さないということでは
反省することは大事なことです。
 過去の検証であり学習であり
反省して次に生かすということです。

 阿弥陀さまの本願念仏のお救い
南無阿弥陀仏のそのままのお救いです。
 過去を悔いる私をそのまま引き受けて
未来へと私の背中を押してくださるおはたらきです。

 お念仏の先人はお念仏申して
阿弥陀さまに相談しなさいと言われます。

 このお寺の対応についてはやっぱり阿弥陀さまです。
阿弥陀さまに責任を擦り付けることではありません。
 あくまでもお寺の責任者は住職です。
ただ阿弥陀さまに相談させていただくのです。

 責任者は君だよといわれても
責任を全て背負いきれません。
 重い責任を背負う私を
そのまま背負ってくださる仏さまです。

 一つ行事ができなくても次のチャンスがあると
よく言われることです。
 今年はできなくても来年は二年分の思いを込めて
盛大にやりましょうとね。

 ところがそんなことは去年言っていた話です。
それじゃあまた来年再来年と
ゆったり柔軟な気持ちで対応したらと
この数日来の感染者増の急な展開の中で
わが身のこととして重ねて思うことです。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.4.26)


大分県内で聖火リレーがありました

2021-04-25
久住高原から春のくじゅう連山を望む(2021.4.25.13:10)
 昨日一昨日とオリンピックの聖火リレーが
大分県内でありました。
 ライブでスマホやパソコンで観ることができ
私も様子を少し覗きました。

 大分市が一番最後で夜8時前後でした。
辺りはすっかり暗くなる時間ですが
大分市の町中だからできた思います。

 暗闇のなかを聖火の灯ったトーチが
光り輝いてきれいだったと思います。

「無明長夜の灯炬なり 智眼くらしとかなしむな
 生死大海の船筏なり 罪障おもしとなげかざれ」
(阿弥陀仏の本願は
 無明煩悩の暗く長い闇を照らす大きな灯火である。
智慧の眼が暗く閉ざされているといって悲しむことはない。
 そのはたらきは迷いの大海を渡す乗りものである。
 罪のさわりが重いといって嘆くことはない)
というご和讃をいただきます。

 阿弥陀さまのご本願のお救いを
迷いの暗闇を照らす光明と仰ぎ
どんな人もそのまま救うおはたらきを船に喩えて
讃嘆されています。

 聖火リレーを見ていましたらいいですね。
コロナ禍で色んな制約がある中で
一般の市民ランナーでしょうね
沿道にかけつけた近所の人でしょうか身近な方から
声がかかります。

 日出町のスーパーボランティア尾畠さんは
サービス精神よろしく「元気かえ」とか応じていました。

 声がかかるというのは本当に頼もしく有難いことです。
私のことを思ってくれてる方がいるということです。

 お念仏のご法義を味わうなかで
その声こそが南無阿弥陀仏の阿弥陀さまのお喚び声であり
先に往かれた私たちのご先祖有縁の仏さまの声といただきます。
「私がいるよ、大丈夫だよ。
あなたの命精いっぱい輝かせて一緒に生きて往こう」と
いつでもどこでも私を思い励ましてくださる
頼もしいお念仏の声に励まされ
安心して生きて往けるのです。

 昨日はHMさんの一周忌のご法事のご縁でした。
もう一年経つのかと過ぎ行くときの早さを感じます。
 去年もコロナでお葬儀も大変だったと思います。
そして今年も未だにコロナは収束しないばかりか
大分県内の感染者は一気に増えて
これまでの最多になりました。

 25日は総代世話人の皆さんに
毎月の配り物をしていただきますが
来月4月の掲示伝道の言葉に
「念仏の 声になって 先に往かれた 仏さまが ご一緒です」
と書かせていただきました。

 今日も皆さん大きな声でこの口から出た
南無阿弥陀仏のお念仏の声です。
 この声は私の声ですが
大本は阿弥陀さまがこの私を喚んでくださる
「我にまかせよ必ず救う」のおはたらきです。

「いつも私が一緒だよ」と喚んでくださる
お念仏の声に励まされて
私たちはこの苦悩の人生を生き抜くことができると
聞かせていただくのが浄土真宗の救いのご法義です。

 先に往かれた方はこの目には見えません。
人の命は終えましたからね。
 懐かしい声を聞くこともできませんが
確かに確かに南無阿弥陀仏の声の仏さまとなり
大きな灯となって私たちと共にご一緒してくださる
生きてくださっていると聞かせていただきます。

「念仏の 声になって 先に往かれた 仏さまが ご一緒です」
日々の生活のなかにお念仏申して
有縁の仏さま方とご一緒に
生かされて生きてまいりましょう。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.4.25)


南無阿弥陀仏のお育てをいただきお念仏申す身にさせていただきます

2021-04-24
 お念仏が中々出ない
お念仏を申すのが難しいという話です。

 あるお寺の会で同じメンバーが何度も集まって
仏さまのご縁をいただくのですが
初めてのご縁で司会者が「合掌」と言われて
周りの人が合掌するのに合わせるように手を合わせ
周囲からナマンダブナマンダブとお念仏申す声が聞こえる
お寺のご縁では当たり前のような雰囲気に
何か違和感があってその場から逃げ出したい心境になった
と言われるのです。

 ただ2回3回と会を重ねるなかで
お念仏が出るようになったといいます。

 お念仏を申すのは私が申すということで
どうしても私のところに力が入ります。
 お念仏申すことについて私のなかに
いろんな思いが出てくるのです。

 なぜお念仏しないといけないの?
お念仏申す気持ちにならなかったらそれはそれで
周りのことを気にしないでいいのでは?
などなどです。

 仏さまからいうと
私がという思い私のはからいが
邪魔をするとでもいうのでしょうか。
 こんな時や場面ではお念仏しないといけない
どうこうということです。

 ところが回を重ねるなかで
ご縁をいただくということでしょうね。
 周囲のお念仏の声が聞こえてくるというのは
隣の人の声を通して
仏さまの声が聞こえてくると
いただいたらどうでしょう。

 お育てをいただくといいます。
お念仏のお育てをいただいて
お念仏申す身にさせていただくのです。

 阿弥陀さまの大悲のお育てをいただいて
この口からお念仏が出てくださるのです。

 肝心要なことはこの御仏前に身を置くということです。
御仏前に身を置くことでお念仏の声が聞こえてくるのです。
 お念仏の声が身につくのです。

 私たちの浄土真宗のご宗旨み教えは親鸞さまが
「本願を信じ念仏申さば仏に成る」とお示しです。
 明快ですね。
本願とは阿弥陀さまの必ず救うまかせよのお心です。
 ご本願のお心おはたらきを聞いて
念仏申させていただくのです。
 ここも私が信じ私が聞く私が念仏申すと
私がと力が入ります。

 でも心配はいりません。
御仏前に身を置くことで
私がの角が取れてお念仏申す身にさせていただけるのです。

 本願を信じ念仏申さば仏に成ると
南無阿弥陀仏のご本願のお育てをいただき
お念仏申す身にさせていただいて
往生成仏の浄土への仏道を歩ませていただきましょう。
 
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.4.24)


南無阿弥陀仏の大きないのちのつながりのなかに生かされて

2021-04-23
 昨日大分の町中でお葬儀があって
独り暮らしの方でした。
 娘さんが喪主で他家に嫁いでいることで
これからお仏壇やお墓を誰がみていくのかという
相談になってきます。

 昨日お礼参でお寺にお参りになって
これから3回忌まではお勤めしますというお話でした。
 それ以降はお勤めしないということではありませんが
お気持ちを聞かせていただいて少し安心しました。

 お仏壇やお墓の継承について
こうしたケースがお家お家それぞれ違った形で
これからたくさん起こってくると思います。

 都市部の葬儀ではお葬式で全ておしまいという
話も聞きます。
 日頃からお寺のご縁がなかったり
これを機会にお寺との縁を解消したい
ということでしょうか。

 昨日50回忌のお話をしましたが
50回忌までご法事をお勤めしないといけない
ということではありません。
 仏さまの御恩報謝のお勤めがご法事であり
仏さまのご縁といただいて
精いっぱいできることをさせていただくことが肝要です。

 血筋でいえば後を継承する人がいないということですが
その人人がこの人間界に生まれ生きるということは
子や孫だけでなく多くの方々とのご縁つながりのなかに
生かされてあるということです。

 南無阿弥陀仏の大きなおはたらきにまかせて
阿弥陀さまのお浄土に往き生まれ
悟りの仏さまに成らせていただくと聞かせていただきます。
そして迷いのこの世に還って来て自分の子孫だけではなく
すべてのものを救うおはたらきをさせていただくのです。

 南無阿弥陀仏の大きないのちのつながりのなかに
私たちはこれまでもまたこれからも
共々に生かされて生きて往くのです。

 こうしてお朝事のお勤めをご一緒にさせていただくのも
ご先祖有縁の仏さま方に感謝し御礼申し上げる
一つのしるしといただきます。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.4.23)


長寿になっても生死のいのちは変わりません

2021-04-22
 昨日50回忌のご法事のご縁をいただきました。
昭和47年にご往生されたお方です。
 今年は昭和でいいますと96年ですから
49年が経ったということです。

 お家の施主の方ご夫婦と
もう一人お参りでした。
 聞きますと92歳の娘さんだそうです。
43歳の時にお母さんにお別れになったということです。

 親の50回忌を勤めるのは
若い時分に死別して大変ご苦労した証だとよく言われます。
 ただ私も40歳代で父が往生していますし
50回忌を勤めるということは
それだけ子どもの世代が長生きになったということで
今は高齢長寿の時代の一つの象徴です。

 昨日は92歳のご門徒のお通夜のご縁もありました。
長寿になっても生死のいのちに変わりありません。
 人に生まれて亡くなるのは他人事ではなく
実はこの私の話なのです。

 私たちはどんな人も
人に生まれたからにはいつか必ず人の命を終えていきます。
 何のために人に生まれたのか
仏さまのみ教えにたずねていきます。

 それは迷いの境涯を生死する私を
必ず救うという仏さまのみ教えに
出遇ってほしいということなのです。

 この私をこそ救わずにはおかないとおはたらきくださる
南無阿弥陀仏の真実のお心を聞かせていただいて
お念仏申す身にさせていただきこの人生を生き抜いて
人の命終わって阿弥陀さまのお浄土に生まれ往くという
み教えです。

 先にお浄土に往かれたご先祖有縁の仏さま方は
南無阿弥陀仏のおはたらきで
今日もこうして私のところに還って来て
この私の口から出てくださるお念仏となって
私と共に生きてくださっているのです。

 私たちの毎日の日暮らしです。
忙しい日々です。
 私が私がとどこまでも自分を中心に
生きることで精いっぱい私のことで精いっぱいの
お互いです。

 そういう私だからこその仏さまのご縁です。
50回忌でご法事の通知は終わりますが
仏さまのご縁に終わりはありません。

 92歳の娘さんにとっては
どこまでもいつまでもお母さんです。
 お母さんの仏さまとなっていつでもどこでも
私とご一緒してくださる仏さまに成ってくださったと
お取り次ぎをさせていただきました。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.4.22)


円光寺
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