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お念仏を申す生活法話

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お仏壇のないお家が多くなりました

 お仏壇を置いてあるお部屋を仏間といいます。
床の間があるお家の一番の客間です。
 今は仏間といったお家の造りがなくなって
マンションやアパート住まいでいうと仏壇を申したいけれども置くところがないといわれます。
 
 現実問題として親のお家のお仏壇を継ぐ子どもや孫の家がそれぞれ違うということです。
今のお家は先祖伝来の家を継ぐということではなく第一番に生活に便利な家が求められます。
 仏間ということ自体最初から考えていません。
だから大きなお仏壇を子どものコンパクトな家に移すとなると置く場所がないという問題になるわけです。
 そのときに小さなお仏壇にしようと考えます。
もう一つこの際にお仏壇を始末しようと仏壇じまいということを聞くようになりました。
 
 墓じまいもよく聞きます。
ただ墓を処分してもお墓に入っているお遺骨は処分できません。
 新しくお墓を求めるということで改葬といいます。
お墓が遠方にあるから近くの納骨堂にお遺骨を移すということで田舎のお墓をしまうことはわかります。
ただ単に墓をしまって何もなくなってしまうということではないのです。
 
 何か私たちは当面のことで精いっぱいで何やら自分に都合のいい情報を聞くとすぐ飛びつきますが
私たちの先人が伝えてくださったお仏壇やお墓の心を訪ねていくことが大事ではないでしょうか。
 若いうちはそれこそ生きることで精いっぱい仕事で忙しい忙しいと精いっぱいかもしれませんが
そこにこそ先人の大きな知恵をいただくのです。
 仏縁に遇うということです。
仏さまのご縁に遇わせていただくなかに自分自身を振り返らせていただくことが
仏法を習うということだといただきます。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2020.2.16)

私を待ってくれてる人がいる

 毎月一回大分市コンパルホールで法話会をしています。5年になります。
 昨日10時開始のお約束を少し遅れて「遅れてすみません」と部屋に入っていきました。
ほぼ同時に「お寺に電話してすみませんでした」と声がかかりました。
 道中何かあったのか心配になってお電話しましたということです。
 
 有り難かったです。
待ってくれてる人がいる、待ってくれてるところがあるということです。
 法話会に小さなお仏壇にご本尊の阿弥陀さまをお供します。
昨日は会の準備をいつも手伝ってくれる人がお休みでしたが
他の方が代わっててきぱきと準備してくださいました。
 これもまた有り難かったですね。
 
 ちょっと気になっていたことですが先月お休みの方が昨日もお休みだったのです。
どうしたのかなと思いつつ会が終わってお世話してくださる方がこう言ってくださいました。
 この前その人に会って今月も用事で行けないけれども
私によろしく伝えくださいとのことでした。
 私の心配がわかっていたのかなと思います。
皆さんの心配でもあったかもしれません。
 
 いつもの人が来ていないとどうかしたのかと思います。
たまたま会って今度また会いましょうと声をかけ合います。
 いいですね。
毎月日時を決めて同じところに集まる私たちです。
 待ってくれてる人がいる、待ってくれてるところに行けるというご縁です。
仏さまのご縁です。
 
 俱会一処の世界といただきます。
お経さまにお浄土を俱会一処の世界とお釈迦さまは説いてくださっています。
 阿弥陀さまのお浄土です。
このお浄土は私が待たれている世界なのです。
 私がこれまで行ったことはありませんが
お浄土は私の懐かしいところなのです。
 そこに待ってくれてる人がいるからです。
阿弥陀さまはもちろん私たちのご先祖有縁の仏さまが待ってくださっているのです。
 
 行ったことはないけれども仏さまが待ってくださっているお浄土に帰らせていただくのです。
その仏さまは私たちのお父さんでありお母さんでありおじいちゃんおばあちゃん隣のおじちゃんおばちゃんかもしれません。 
 今は南無阿弥陀仏の仏さまとなって待ってくださっているのです。
だから私たちは安心してお浄土参りができるのです。
 
 かといって早くお浄土に参りたいと思わないのはこの娑婆の生活が名残惜しいのです。
名残惜しいですがいつかは必ずこの命を終えていかなければなりません。
 「名残惜しく思えども娑婆の縁つきて力なくして終わるときに彼の土には参るべきなり」と
歎異抄の御文をいただきます。
 阿弥陀さまの大きな大きな南無阿弥陀仏のおはたらきのなかに
今日もこうしてお朝事のご縁俱会一処のご縁をいただいたことを本当に有り難く思います。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2020.2.15)

思いを伝える

 今日はバレンタインデイでチョコレートをおくって愛の告白するといいます。
私が中学生の頃にはもうあったようなことで今や日本の歳時記になっています。
 
 人に気持ちを伝えるということですが
面と向かって相手に言えない気持ちをチョコレートという物に託して伝えるということですね。
 
 今はスマホで日常再々に用事を伝えることができますが
その昔は手紙でした。
 愛の告白はラブレターです。
必死の思いで投函し祈るように返事を待って郵便ポストを何度ものぞいたりと
何とも言えない淡い思いを伝えるというのは不安と期待が入り混じったものです。
 
 私たちの仏法も言葉によって伝えてこられました。
こうしてお朝事でお正信偈さまのお勤めをし御文章さまを拝読させていただきます。
 親鸞さまが蓮如さまが言葉をもって私たちに阿弥陀さまのお心を伝えてくださってあるということです。
どうか南無阿弥陀仏のみ教えに遇ってお念仏申す身になってほしいというお心を
お手紙にして毎朝こうして届けてくださってあるのです。
 
 南無阿弥陀仏ともうすでに私のところに届けられた阿弥陀さまの願い親鸞さま蓮如さまの思いが
この私の口に声となってナンマンダブツと出てくださるのです。
 
 バレンタインデイのご縁にお念仏を申すなかに
今日一日も大きな大きな南無阿弥陀仏のいのちにつながりあって生かされて生きることの有難さを思います。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2020.2.14)

後生の一大事の解決こそ

 今日の御文章さまに後生という言葉が何度も出てきました。
仏道を習うのは後生の一大事の解決にあるといわれます。
 親鸞聖人は生死いずべきを道を求めて仏法に帰依しました。
 
 生死の迷いといいます。
仏法を聞かせていただくと
私たちはこれまで何度も何度も生まれては死に生まれて死にと迷いの境涯を繰り返してきたというのです。
 そしてこのたびは人と生まれて今仏法に遇うことができました。
その仏法に生死いずべき道を聞かせていただくのです。
 
 生死の迷いを超えて悟りに至る仏道をたずねていくのです。
では今生で悟りの仏に成れるのかというと
この身をもっている限りは迷いの生死を生きていかねばなりません。
 
 親鸞さまはこの身を煩悩具足の凡夫と仏さまは見てくださってあるといただかれました。
欲の心怒りの心愚かな心をもちあわせた私なのだとの仏さまの仰せです。
 では私たちは仏に成れないのかというと
煩悩具足のわが身を目当てに阿弥陀さまのご本願は起こされたといわれるのです。
 阿弥陀さまの方でもうすでに南無阿弥陀仏の仏道を開いてくださってあると聞かせていただきます。
阿弥陀さまの本願他力のお念仏の道です。
 
 このお念仏の道以外に私たち凡夫が救われていく道はないといわれます。
阿弥陀さまがナンマンダブツとお念仏申して来いよと喚んでくださるのですから
南無阿弥陀仏のおはたらき一つにまかせてお念仏申して生死いずべき道をたずねていけばいいのです。
 そしてこの命いつか必ず終わりますがそのまんま阿弥陀さまのお浄土に生まれて仏にさせていただくのです。
私たちの後生は阿弥陀さまのお浄土ですが
もう今ここにお浄土から南無阿弥陀仏のおはたらきをいただいているのです。
 
 後生の一大事の解決は今生の一大事の解決です。
今生今を生きる私たちです。
 お念仏を申して今日一日もお浄土への人生を生かされて生きてまいりましょう。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2020.2.13)

「ただいたずらに明かし ただいたずらに暮らして 年月をおくるばかりなり」

 1月も今日で終わりです。
今朝の御文章さまのなかに「ただいたずらに明かし いたずらに暮らして 年月を送るばかりなり」とありましたが
まさに私たちのすがたですよね。
 そのなかにあって人間に生まれて南無阿弥陀仏のお念仏のお救いの法に遇えたということです。
そのことを有難く喜ばせていただきましょう。
 
 この無常の世にあっていずれ私たちは人の命は終わっていくけれども
必ず必ず阿弥陀如来の本願力によってお浄土に生まれ仏にさせていただけると聞かせていただきます。
 今こここの私がそのまま阿弥陀さまの光明のなかに摂め取られてあるという南無阿弥陀仏のご法義です。
 
 昨日もお話しましたがお葬儀が三日続きます。
それぞれ違う葬儀社ですが同じようなことをしていると思うのは
昨日のお通夜もお勤めを終え控室から出たところにご遺族が並んで立ってお参りにみえた方を見送っていました。
 どの葬儀社も同じようなことをしていて今はそれが当たり前になっています。
葬儀社の方が前もってこうですよと説明しているとのことで
何でそんなことをするのかという話にはならないのです。
 一つの決まった儀礼が当たり前になって逆にしないと何か失礼になるという感じさえあるのではないでしょうか。
 
 ただちょっと考えてみるとお参りの方はお悔やみに来ているのです。
もしご遺族の方が見送りに立っていたら
「私たちのことは気にしなくて亡くなった方のそばにいてあげてください」ということでいいんですね。
 
 まさに形だけの儀礼です。
葬儀の最中もご遺族は何度も何度も立ったり座ったりさせられて何度も何度もお礼を言っています。
 最後にある遺族親族の代表の挨拶で十分ではありませんか。
ご遺族の悲しみを本当に思うとそっとしてあげるのがよいと思います。
 
 他のことについても何か一つ形が決まってしまうと
本来の意味が分からなくなって形ばかりが先行し
その形に合わないものを非難批判することにもなります。
 
 それもこれも日頃です。日頃のお聴聞です。
日頃から聞いておくことの大切さです。
 
 明日から2月に入ります。
「いっしょにいこうえ〜」とお浄土への道すがらをまたこのお朝事のご縁で遇わせていただきましょう。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2020.1.31)
円光寺
〒870-0108
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