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お念仏を申す生活法話

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7回忌と3回忌のご法事のお勤めをさせていただきました

 昨日7回忌と3回忌のご法事がありました。
それぞれの年忌でご法事の趣が異なるように思います。
 
 7回忌といいますとご往生されて6年が経ちます。
6年といえば小学校に入学した子どもさんお孫さんが6年生になって卒業するという時間が経ったということです。
見るからに子どもは成長いたします。変わっていきます。
 諸行無常の世にあってあらゆるものが日々刻々と変わり行くなかで
変わらない真実まことのお念仏のみ教えを聞かせていただく有難さを思います。
 
 3回忌のご法事のご縁です。
多くの人がお参りされていましたが、これまでお会いしたことのない若い方が目立ちました。
 「この中で一番遠方の方はどなたですか」と尋ねましたら「東京です」と初めて会うような若い方でした。
後から施主の方に聞きますと妹の子どもさんで昨日のご法事の方のお孫さんだそうです。
 大分の近くに住んでいるのではなく3回忌のご法事に東京から帰ってみえたということです。
帰って来いと言われたのか自ら帰って来たのかわかりませんが
おじいちゃんとの懐かしい思い出があるんだなと思いました。
 
 3回忌の次は7回忌で4年後になります。
ご往生なさって2年間の中に何度も何度も仏さまのご縁をいただきますが7回忌までは4年あります。
 来年は4回忌で5回忌6回忌と毎年祥月のお勤めをされてもいいのですが
方々からご縁の方々が集まって昨日3回忌のおつとめができたということことの有難さ尊さを思います。
 
 ご一緒にご法事のお勤めをさせていただけるということです。
先に往かれた方が本当に喜ばれることではないかなと思います。
 私たちに仏さまのご縁をつくってくださるということです。
日頃仏法を聞くことが難しい私たちを仏さまの御仏前に座らせていただけるのです。
お念仏を申させていただけるのです。仏さまのみ教えを聞かせていただけるのです。
 
 その仏さまのみ教えは「ただ念仏一つで救われる」南無阿弥陀仏のお救いの法です。
私たちが救われていくお浄土には懐かしい方々が往ってらっしゃってまた再会できると聞かせていただきます。
 南無阿弥陀仏の大きないのちのつながりのなかに共々に生かされてあることを有難くまた頼もしく思います。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.6.24)

仏さまのご縁に遇わせていただく日曜日の朝です

 日曜日の朝です。
仕事をもたれている方は平生の日常とは違うということで、今日の朝を迎えられたのでしょうか。
 
 毎日6時に梵鐘をついています。
平日につく6時の鐘と日曜日につく6時の鐘とでは、人によって鐘の音が違って聞こえるのではないでしょうか。
 平日朝6時の円光寺の鐘が生活の中で意味あるものになっていることもあると思います。
鐘の音を合図に朝起きて身支度をして朝ご飯を食べてそして職場に学校に行くということでしょう。
 ただ日曜日の鐘ということになりますと、もうちょっと眠たいなという思いで聞いてらっしゃる方もあると思います。
 
 お寺の梵鐘は時刻を告げる鐘ではなく法要前の合図の鐘なのです。
法要が始まる一時間前に撞くのが本来の梵鐘のあり方です。
そろそろ準備をしてお寺にお参りしましょうという鐘、お誘いの鐘なのです。
 
 そして6時半に喚鐘が鳴りますが、いよいよこれからお勤めが始まることを告げる鐘です。
この喚鐘の喚は喚ぶという意味があります。
 阿弥陀さまの南無阿弥陀仏のお喚び声といただきます。
「我にまかせよ必ず救う」のお喚び声を何度も何度もガンガンガーンとこの耳に届くように響かせてくださるのです。
それこそやかましいと聞く人もあるかもしれませんがどんな人の耳にも届いてあるのです。
 
 ナンマンダブナンマンダブと何度も何度も繰り返し繰り返し巻き返し巻き返し
私のところに届いてくださる阿弥陀さまの南無阿弥陀仏のお喚び声です。
 お念仏の声に喚び目覚めさせていただいてこうして皆さん今日もお朝事のご縁にお参りをさせていただけました。
南無阿弥陀仏のお心おはたらきの有難さをまた日曜日の朝のご縁に深く味わわせていただきます。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.6.23)
 

大切な方とお別れする悲しみのご縁ですがそのまま仏さまのご縁といただきましょう

 昨日の夜電話でご門徒の方が亡くなったというご連絡でした。
遠方の方でこの後臨終勤行にお参りをしてこれからのお通夜お葬式のことをご相談いたします。
 
 4年ほど前に新しくご門徒になられた方で名簿をみましたら私と同い年です。
私たちはいつどのようなことでこの命を終えていくのかわかりません。
若い人でも健康な人でもどんな人も例外はありません。
 
 まさに無常の世にあって私たちは仏法という大きな中心依りどころをいただいています。
その仏法を聞かせていただきますと私たちは皆さん人の命を終えますが
南無阿弥陀仏のおはたらき一つでどの人も阿弥陀さまのお浄土に生まれて仏にさせていただくというのです。
 
 このこと一つ聞かせていただきます。
仏さまは仏法聴聞のご縁をいただけよとお勧めですが
自分のことで精いっぱい生きることで精いっぱいの私たちは中々仏さまのご縁に遇うことが難しいのです。
 
 大切なお方とお別れする悲しみのご縁ですが、そのまま仏さまのご縁といただきましょうとお話させていただきます。
仏さまのご縁としてこの私が仏法を聞かせていただくということです。
 仏法を聞かせていただきますと、先に往かれたお方をお浄土の仏さまとして敬い仰いでいけるのです。
この私をまさに命がけで御仏前に座らせてくださり仏法聴聞の尊いご縁をつくってくださったった仏さまです。
 死んだらお終いではなくこれからも仏さまとなって南無阿弥陀仏のおはたらきで
後にのこった私たちを見守り導いて南無阿弥陀仏のいのちのつながりのなかに共々に生かされて生きてあるということです。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.6.22)

この私を煩悩具足の凡夫と知らせてそのまま救うてくださる阿弥陀仏さまです

 阿弥陀さまはこの私のことを煩悩具足の凡夫と見てとられました。
煩悩といって何か特別な時にふっと出てくるものではありません。
具足というのはこの身も心もいつも煩悩まみれというのです。
 
 昨日まで三日間京都に行ってまいりました。
大分からソニックに乗って小倉で新幹線に乗り換えて京都に行きますが、途中でソニックが20分ほど遅れました。
「人影を見かけたので確認をしています。しばらくお待ちください」というアナウンスがありました。
何度か同じ放送があって、間もなく動くのではないかと思って20分が経ちました。
 
 小倉での乗り換え時間が18分でした。
しばらくして「小倉で次の新幹線に乗られる方はご乗車できませんので窓口でその次の新幹線に変更をお願いします」と
放送がありました。えっと思いました。
 
 本山での会議の1時間ほど前に京都に着く予定で電車に乗りました。
新幹線のぞみは1時間に2本あります。それで次ののぞみでも会議には間に合うだろうと
窓口でチケットを変更して新幹線乗場に行くと「次の新幹線は博多小倉間10分の遅れです」とアナウンスがありました。
 
 えっこれは大変、京都に何時に着くのか会議に間に合うのか、いくら思ってもどうしようもありませんが
それからは再々時計を見ながら何度となくどうしよう困ったと心配と不安でいっぱいになりました。
 そして腹が立ってきました。
私には全く非がないのに何でこんな目に合わないといけないのか、JRは何をしているのかなどと
そこらじゅうに恨みつらみをぶつける始末です。
 
 平生自分の思い通りにいっている時は至極当たり前のことと
周りに感謝する気持ちもなく涼しい顔で振る舞っている私たちです。
 ところが何か自分の思わないことがちょっとでも起こったら心の中はもうイライラが募ります。
そして怒りです。顔は冷静を装っていますが心の中はまさに周りを責めたてる鬼の様相です。
 
 いつも順調にいくのが当然でちょっとでも歯車が違うと怒りになる。
本当に見事ですね。
 私たちが持ち合わせる三毒の煩悩です。
貪欲、欲の心です。瞋恚、怒りの心です。そして愚痴、愚かな心です。
 
 京都に会議の5分前に着いて間に合いました。
結果だけでいったらよかったということですが
本山に着くまでの時間それこそ私の心は煮えたぎった鬼の心のそのまんまでした。
 
 どこまでも自分中心の思いを振り回す本当に愚かな私がいます。
もっと余裕をもって早い電車で行けばよかったということです。
 この世のことは無常の沙汰で、何が起こるか分かりません。
自分の思い通りにいっていることが偶々なことで思い通りにならないということが真実なのです。
 
 その真実に気づくことなく気づこうともせず自分を中心に生きる私を
阿弥陀仏さまは煩悩具足の愚かな凡夫と見られたのです。
 
 そんなことでは駄目ですよ、こうしなさいと私に注文をつける阿弥陀さまでしたら
私が救われていく行き場がありません。
 阿弥陀さまは愚かな凡夫と知らせてそのまま救う仏さまになってくださったのです。
愚かな凡夫と知らされてお念仏を申すなかにそのまま救われて往くんですね。
 
 欲の心怒りの心愚かな心を暇なくおこすこの私を憐れんで
そのまま抱き取ってくださるアミダさまがいてくださるから、私の居場所があるのです。
 お念仏申させていただくところ、ここです。
煩悩具足の凡夫が生まれ往くところ、阿弥陀さまがこの私のためにお浄土を用意してくださってあることを
ナンマンダブツお念仏を申すなかに聞かせていただきます。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.6.21)

地域に開かれたお寺のあり方を思います

 大阪で交番が襲われ勤務の警察官が刃物で刺されて重体、拳銃が盗まれたという事件が起こりました。
そして逃走した犯人が捕まったということです。
 
 最近交番を狙う事件が相次いでいます。
たまたまですが、今七日日のご縁をいただいている二軒のお家が警察官のご主人の奥さんのご縁です。
 昔は駐在所といっていました。三佐にも駐在所がありました。
県内各地を転々と勤務していくんですね。
一軒のお家は佐伯の方にもう一軒の方は玖珠の方にいたとお聞きます。
 
 駐在さんは地域の守りの要です。
日頃から地域の方々と交流があって、映画などで駐在さんが自転車に乗って地域を見守る姿がよく映し出され
地域の方と顔が合えば「こんにちは」「おはようございます」と声をかけ合うつながりのなかに
私たちの安心がありました。
 
 ところがこんなに交番が襲われると、24時間開かれた交番勤務を考え直さないといけないという声が出てきます。
そうなって交番が閉じてしまうと、困った人がどこに駆け込めばいいのでしょうかね。
 
 私たちのお寺です。開かれたお寺になろうとよく言われます。
でも実際は不審者対策でお寺の門も本堂も庫裡の玄関も閉まったままで
誰か訪ねてきても返事がないというお寺もあります。
 
 駆け込み寺とも言われます。
日々の生活のなかで苦しみ悩み困ってらっしゃる人がいます。
いろんな問題を抱え誰にも相談できない人です。
そうした人が唯一最後に駆け込んでいけるところ、開かれたお寺です。
 
 ただ今のご時世どんな人が来るかもわかりません。
むずかしいところがあります。
 でも今の社会の現実です。交番が襲われるという事実です。
そこに社会の歪みを思います。
 
 人それぞれに生きるこの社会で
人それぞれにこれまでの人生の軌跡があったと思います。
 こうした事件の背景には複雑な人間関係社会との関わりがあって
何度も何度も頑張って頑張って生きようとしても決して思い通りにいかなかったことが多くあったのではないでしょうか。
 
 そうした苦悩を抱えた人がその思いを打ち明け背負っている肩の荷を下ろし楽になる場が
一つ駆け込み寺というもので皆さんに開かれたお寺になっていけたらと思います。
 
 今どこの地域にも子どもたちの見守り隊が活動しています。
昔は見守り隊という組織がなくても地域ぐるみで地域の子どもを我が子のように見守っていました。
そんな昔ののどかな温かみあふれる人間関係に思いをはせ
人とのつながりが疎遠になっていく一方の現代社会にあって
地域の中のお寺のあり方役割を考えます。
 
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.6.18)
円光寺
〒870-0108
大分県大分市三佐3丁目15番18号
TEL.097-527-6916
FAX.097-527-6949
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