本文へ移動

お念仏を申す生活法話

RSS(別ウィンドウで開きます) 

お念仏の道を歩んでまいりましょう

2021-05-11
 昨夜NHKの『逆転人生』を観ました。

 今までの逆転人生の内容は事業に失敗して
何かのきっかけで人生が逆転するといった
成功体験を基にしたストーリーが多いなかで
昨日はちょっと違っていました。

 「宗教2世」とよばれ
新興宗教の信仰をもった親の価値観に適合できず
精神的に追い込まれたある作家が主人公です。

 小さい頃からお母さんが通う教会に連れて行かれ
学校生活や就職、結婚などに制約が課せられて
精神的に病んでいったといいます。

 善いか悪いか
これが神の思し召しよと母の言うことを聞いて育つ中で
母に反発することもできず苦しみ悩みを抱えて体を壊し
病院に行くわけです。

 その病院の先生の一言「中庸」という言葉が
逆転人生のきっかけになったといいます。

 「中庸」は孔子の儒教『論語』のなかの言葉で
極端に片寄らず中正な立場で
過不足なく調和がとれていることの意味です。

 善いか悪いか○か×かという二者択一の見方ではなく
白でも黒でもないグレーゾーンが大事だというのです。
 どっちつかずということではありません。
ものの見方が広がることで自分自身を見つめる
余裕がでてくるといわれます。

 いろんな人に出会い言葉にであうなかで
母の言う通りに教会に行くことは続けていたといいます。
 その教会に行く日に
自分が悩み苦しんでいた中で知り合った友だちから
飲み会に誘われたというのです。

 教会に行くか飲み会に行くか
散々悩んだあげく結局飲み会に行くんです。
 「どっちが正しいか正しくないかというのではなく
私が楽しいことを選んだ」と
初めて自分の意思で決めたと言われました。

 お母さんにとっては教会に行くことが
最大の価値あることです。
 今まで素直に自分に従ってきた娘に裏切られた心境で
お母さんは落ち込み今もうつ状態が続いているといいます。

 仏教は中道の教えといいます。
有・無や常・断などの二つの極端に対立した
世界観を超越した不偏で中正なものの見方です。

 お釈迦さまが出家してお悟りを開かれる過程で
快楽主義や苦行主義に偏らず
菩提樹のもとで瞑想に入り中道という道理を悟られます。

 中道を歩めという教えです。
一休さんです。
「この橋を渡ってはいけない」と橋を渡ることを止められ
「(両端ではなく)真ん中通って行きましょう」と
堂々と橋の真ん中を渡って行ったという逸話です。

 私たちの人生は選びの連続です。
いかに生きるかの選択です。
 どう選ぶのか、私がです。
選択肢も様々です。

 多様性ということがよく言われます。
ここに5人いたらみんな違うということです。
 それぞれのものの見方考え方
生き方があるのです。

 私が楽しいことを選ぶというのも一つのものの見方です。
これまでの人生の過程があっての楽しいことであって
何でも自分の思いのままに生きることとは
ちょっと違うと思います。

 お念仏のみ教えを聞かせていただくというのも
〇か×かでも善か悪か好きか嫌いかでもなくて
ナモアミダブツとお念仏を申すなかに
「阿弥陀さまに相談しなされや」と言われた
先人の言葉を思い出します。

 南無阿弥陀仏と阿弥陀さまに相談をして
身近なご先祖有縁の仏さまに相談して
今日の一日も一歩一歩ですが
お念仏の道を歩ませていただきたいと思います。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.5.11)


的外れの発言

2021-05-10
母の日に贈られたバラの花です
 日曜日の朝はテレビの報道番組を楽しみに観ていますが
今の話題はコロナのことに尽きます。

 緊急事態宣言が延長追加され6都府県になったことで
先週菅首相の緊急の会見がありました。
 これまでの会見も含めて
リーダーとしていかがなものかと
感染防止を国民にお願いするばかりで
頭の中はオリンピックと経済再生のことだろうか
国の感染対策やワクチン接種にも具体的なものが見えず
言葉にも表情にも力がない訴えるものがないといった
ある番組の批判的な見方です。

 毎日の情報番組でも出演者が口を揃えて言ってることで
そのなかで菅首相だけでなく他の大臣や知事の発言に
場当たり的な的外れの発言が多いと言っていました。

 要は今何が大事か課題を共有して
感染をいかに抑え収束させるのか
方策が見えてこない聞こえてこないということで
的外れの発言と言われたのでしょうが
その番組に出演したある識者が
私が以前からずっと言ってきたことだがと前置きして
そもそも日本の感染対策が予算を削られるなど疎かにされ
医療体制を含めて十分できていなかったから
こうした事態になりワクチンも未だにできていないなどと
言い出したのにはえっと思いました。

 これこそ的外れの発言です。
大事な問題ですがこれはコロナが収束した後
全般的に反省して総括する時の話です。
 今は何が大事かという今の問題です。

 仏教のお経さまに「毒矢のたとえ」という
お話があります。
 ある人が毒矢に射られたときに
周りの者が医者を呼んできてまず矢を抜こうとしたら
「この矢は誰が射たのか。名前は、男か女か、どこの人か
分かるまではこの矢を抜いてはならない。
私はまずそれを知りたい」とその人が言い張るならば
その人の命はなくなってしまうだろうというのです。
 今すべきは治療を尽くして体を直すことで
差し迫った問題に今できる最善の対処なのです。

 仏教は生死の迷いの解決がテーマです。
どんな人にも生老病死の苦しみがあり
さまざまな憂いや悩みがあります。
 それは今ここに生きるこの私の問題です。

 仏教浄土真宗のみ教えは現世今は苦しいけれども
来世浄土に生まれたら苦しみから解放されて救われるから
今は辛抱しなさいと我慢を強いる教えではありません。

 今の救いを説く教えです。
今ここに生きるこの私をこそ必ず救うと
阿弥陀さまはこの私を目あてに
お念仏申してくれよいつも私が一緒だよと
南無阿弥陀仏と喚び通しに喚ばれておはたらきです。

 何か自分一人で頑張って生きて苦しみ悩み迷う私を
阿弥陀さまは親のように心配して
私のところに来てご一緒してくださり
大きなお慈悲の中に苦悩の私をそのまま引き受けて
ご本願のお心を聞いてお念仏申す身になってくれよと
南無阿弥陀仏とおはたらきなのです。

 今ここに生きる私をこそ必ず救うと
的を外さずご一緒くださる阿弥陀さまのお心にかなった
私にできることを今日一日もさせていただきましょう。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.5.10)


カーネーションのお供えです

2021-05-09
 昨日お寺の本堂でご法事をお勤めさせていただきました。
施主のお母さんの3回忌のご縁です。

 お寺のご法事にはお花やお菓子果物など仏さまに
お供え物を持ってきてくださいとご案内しています。
 赤いカーネーションのお花を
きれいにアレンジして仏さまにお供えされました。

 今日は5月の第二日曜日で母の日です。
スマホで調べた母の日の起源に関するプチ情報です。

 1907年5月12日にアメリカの教会で
2年前に亡くなったお母さんの追悼式をしたときに
参列者に娘さんが白いカーネーションを贈ったそうです。
 
 亡くなって2年後ですから
3回忌のご法事のご縁になります。

 それがきっかけでその教会があるアメリカの州の法律で
5月の第二日曜日を母の日と決めて
白いカーネーションを贈る習慣が始まったといいます。

 子どもの頃赤いカーネーションを贈るのが一般的で
白いものは亡くなったお母さんに贈ると聞いていました。
 
 仏さまにお供えするお花は
白や黄色のものと言われますが
今はお葬式の供花でも色とりどりで鮮やかで
夏にはヒマワリがあがったり
高級な欄の花があがったりと
故人が好きだったお花と言われます。

 棘のあるバラの花とか悪臭のする花は避けるといって
別に決まりはありません。
 仏さまにあがったお花を前にして
仏さまのお心をいただくのです。
仏さまのお花はきれいな方が
私たちの方に向いていることで
お花を見てきれいだなあとほっと心和みます。
 仏さまのお慈悲のお心おはたらきです。

 昨日はお母さんの3回忌のご縁で
仏さまにお花をお供えして
お母さんの仏さまの優しいあたたかいお心を
お参りの皆さんいっぱい
いただけたのではないでしょうか。

 御仏前に有縁の方々が集いご一緒に
ご法事のお勤めをさせていただく有難さを思います。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.5.9)


ご本願を疑う心を誡めて他力の信心を勧めます

2021-05-08
 今拝読の御和讃は
「誡疑讃(疑いを誡める和讃)」といって
阿弥陀仏のご本願を疑うことは重い過失となり
真実の浄土に生まれることはできないので
信心を勧め疑いを誡める和讃を作られたのです。
 仏智疑惑和讃ともよばれます。

 智慧と慈悲の南無阿弥陀仏のおはたらきを
疑う心を誡めて他力の信心を勧めます。

 南無阿弥陀仏のご本願のお心を
正しく了解することが肝要です。

 南無は帰命ということで帰せよの命といって
阿弥陀さまにまかせよという仰せ命令です。
 弥陀招喚の勅命です。
「私にそのまままかせなさい」と招き喚ばれているのです。

 阿弥陀は摂取のお心で
「必ず救う」というおはたらきです。

 仏は如来ということで
真如の世界から来てくださった仏さまです。

 真如の世界である阿弥陀さまのお浄土から
「まかせよ救う」といつでもどこでも私に寄り添い
ご一緒くださる仏さまということで
南無阿弥陀仏の名号ことばに成った仏さまです。

 お念仏の先人は阿弥陀さまを親さまと呼ばれて
敬い親しんでこられました。
 南無阿弥陀仏は
親だからこその「まかせよ必ず救う」の親の名乗りです。

 この私をこそと喚び続けてくださるお念仏のお心を
疑惑疑う私がいます。
 私の思いはからいで「まかせよ救う」の
南無阿弥陀仏のお心を聞かせていただくと
救うというなら今のこの状況を何とかしてほしいと
病気を治してほしい金回りをよくしてほしい
若返らしてほしいなどという思いが
次から次に出てくるのが私です。

 この人の世に生まれてどんな人も
生老病死の身を生きることに変わりありません。
 老いていきます。
病むこともあります。
そして必ず命終えていかねばなりません。

 自分の思い通りに行かないのです。
自分の思いが苦しみ悩み迷いとなるのです。

 苦悩を背負い迷いの凡夫の身を生きる私を
阿弥陀さまは見て取って
南無阿弥陀仏のおはたらきでそのまま救うと
凡夫の私を丸ごと引き受けて
南無阿弥陀仏とお念仏申す身にしてくださるのです。

 どんなあなたであってもそのまま救うと
南無阿弥陀仏のおはたらきです。
 そのまままかせよと
阿弥陀さまのお救いに条件はありません。

 「お願いだから本当に疑いなく
我が国に生まれることができるとおもって
十回でも念仏申しておくれ」という
阿弥陀さまのご本願のお心が南無阿弥陀仏の声となって
私の心に至り届けられ
「おまかせします阿弥陀さま」と手が合わさり
この口からお念仏が出てくださって
お礼をさせていただきます。

 お念仏申す身にさせていただくのです。
お念仏を申して阿弥陀さまのお喚び声を聞かせていただき
今日一日も仏さまとご一緒の
日暮らしをさせていただきましょう。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.5.8)


「春に百花あり」

2021-05-07
 「春に百花あり 秋に月あり 夏に涼風あり 冬に雪あり」
という禅語に教えていただきます。

 春に百花ありと春には様々な花が咲きほこります。
月であったり風であったり雪であったり
その時節の自然の営みおはたらきです。

 私たち人間の力の及ばない自然界のはたらきですが
私たち人間はその自然の営みをも全て取り仕切って
自分たちの欲望を実現し便利な生活を手に入れようと
我がもの顔に振る舞っています。

 コロナ禍はそうした人間の力の限界無力さを明かし
人間の身勝手な傲慢さを反省させられます。

 人と人とが織りなす私たちの日々の生活の中にも
同じようなことがわが身の問題にあります。

 百花は私たちのいのちのあり方をたとえて
人それぞれものの見方考え方価値観が違う
生活ぶりが違うということを示しています。

 この社会にあって多様性です。
それぞれ人人の違いをお互いに認め合って
同じ社会を生きましょうというのです。

 ところがこれが難しい。
誰が認め合い生きようとするのかというと
この私なのです。
 もうそこにすでに私のものの見方考え方に
はからい固執している私があるのです。

 それをズバリ仏さまからいうと
私が私がと自分を中心にはからい生きることが
私たちの苦悩苦しみ悩みの原因だといわれるのです。

 理屈からいえば私がというはからいを除き
我執から解き放たれるところに
私たちの本当のしあわせがあり
仏さまのさとりの世界があるということです。

 ところがドッコイそうは行かない。
これが私たち人間の悪業煩悩が為せる迷いの世界なのです。

 迷いからさとりへの道を仏法は明かします。
迷いの私がさとりの仏に成る仏道です。

 お念仏の仏道は
阿弥陀さまが苦悩に沈む迷いの凡夫を
南無阿弥陀仏のおはたらき一つでそのまま救う仏道です。

 阿弥陀さまのそのままのお救いです。
あなたのものの考え見方を改めないと変えないと
善いことをしないと救わないよという
条件付きではありません。
 ありのままの私をそのまま認めて
引き受けてくださるのです。

 お念仏のお心を聞かせていただきますと
少しずつですが
仏さまのお心にかなう私にしてくださるのも
南無阿弥陀仏のおはたらきと味わわせていただきます。

 お念仏申して南無阿弥陀仏のおはたらきのなかに
今日一日も日暮らしをさせていただきましょう。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.5.7)
円光寺
〒870-0108
大分県大分市三佐3丁目15番18号
TEL.097-527-6916
FAX.097-527-6949
1
3
2
8
1
0
TOPへ戻る