「たしなむ心は他力なり~お念仏を主にした生き方を送る」※転載
2024-12-26
除夜の鐘に思う
今年も、あとわずかとなりました。
元旦に発生した能登地方の大地震
そして翌日の羽田空港での事故も
被災地救援に向かうときの悲しい事故でしたし
全国各地で多くの自然の猛威に直面され
寒い越年を余儀なくされている人たちの多さに
思いを馳せると心が痛みます。
自らはいろいろあったにせよ
何とかこうして年越しを迎えようとしていることに
罪悪感さえ覚えます。
またウクライナやガザのニュースを見聞きするにつけ
自らの想像力の乏しさに絶望します。
社会の様相にもっともっと眼を向けねばと
自戒しつつ越年を迎え
複雑な思いの中にもお慈悲はあると感じています。
私も、そして、お寺に除夜の鐘をつきに来てくれる
参拝者の人たちも
どのような思いで鐘をついてくれるのだろうかと
自問しています。
除夜の鐘は、百八つつくことが多いでしょう。
人間の煩悩は百八つあるという
通説から来ているようです。
私自身の実感からは
百八つくらいでは済まないような気がしますが
そんなことを言っていたら、永久に止められません。
百八という数字は
六大煩悩を基本にして細分化したものでしょうから
厳密に言うと「数」ではなく
「分類」に当たるように思います。
そもそも「鐘をつきながら
一つずつ煩悩を消していく」なんてことが
可能でしょうか。
毎年、一つずつ消していけば
二十年後には八十八に減っている。
おそらく、そうはいかないでしょう。
鐘をつくという行為そのものに
そんな力があるとは思えません。
煩悩成就のありさま
親鸞聖人は、私たちの煩悩的なありようを
「煩悩成就」という表現を
用いておられることがあります。
「煩悩成就」は、元々は、曇鸞大師の書かれた
『往生論註』にある言葉ですが
『往生論註』自体に、この言葉の説明はありません。
ただ「願力成就」については
「願によって力が生じ
力は願にかなっている」と説かれ
相互に関係しあいながら
形づくっている状態を言うようです。
この観点で「煩悩成就」を見ると
「煩」は身を煩わせ
「悩」は心を煩わせることと考えれば
「身と心が互いに影響しあいながら
負のスパイラルを形成している状態」と
考えられるかと思います。
また「功徳成就」という言葉もあります。
「功徳成就」には「功徳が仕上がっている」という
意味のようでもありますが
私たち衆生の側に「仕上がる」という状態は
考えにくいと思います。
おそらくそのため、江戸期の学僧・道隠和上は
煩悩成就のことを「川の水を刀で切るようなものだ」と
おっしゃっていたと記憶します。
川の水を刀で切れば
一瞬は切れたようでも
すぐに川の流れは繋がっていきます。
このありように例えることで
煩悩が次から次へと湧き上がってくる
動的な状態を表現しているように思います。
「不断煩悩得涅槃」
このような煩悩的存在であることに気づくことで
煩悩のたれ流しを少しでも改めたい思いが
芽生えることは
大切な意識転換と言えるでしょう。
これまで阿弥陀さまを泣かせ続けてきたことに
気づいた上には
「もっと泣かせよう」と思うはずはありません。
「これ以上、泣かせることはすまい」と
方向性が変わるものです。
「煩悩具足」や「煩悩成就」の身であることは
生涯変わることはありませんが
このような「内発的な変革」のことを
昔から「つつしみ」や「たしなみ」と言ってきました。
蓮如上人のお言葉には
「こころにまかせず、たしなむ心は他力なり」とあり
煩悩が支配するわが心にまかせず
「たしなむ」身となるのは
他力のもよおしであると示されています。
また「弥陀をたのめば
南無阿弥陀仏の主に成るなり」
とも上人はおっしゃっています。
このお言葉のように
迷い心である煩悩をわが主とするのではなく
南無阿弥陀仏のお念仏を主にした生き方を
送りたいものです。
「不断煩悩得涅槃」(私が煩悩を断つのではなく
仏力・他力が絶ってくださる)のお言葉を心に刻みながら
今年も除夜会に臨みたいと思っています。
※『みんなの法話』
(本願寺派勧学 満井秀城和上)より転載
ー本願寺新報2024年12月20日号ー
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2024.12.26)
![](/img/media/image/dummy.jpg?1664426020)
お念仏のご縁です
2024-12-25
月に一度のお念仏のご縁です。
いつもの場所でいつものメンバーとお会いします。
毎回ほぼ全員が出席です。
皆さんの顔を見てほっとします。
阿弥陀さまの御仏前です。
お念仏申して会の始まりです。
日常いつも会っているわけではありませんが
ずっといつも会っているような感じで
何か安心します。
仏さまのお話を聞いて
皆さんそれぞれに思いを話されます。
日々の生活の中で
お念仏をどう味わわれているのか
自分の思いに重なることもあってうなずくことも
こんな受けとめ方もあるんだなと
新しい発見もあったりして
楽しみです。
お念仏のご縁つながりです。
人皆それぞれに生活ぶりは違いますが
南無阿弥陀仏のおはたらきで
同じ往生浄土のお念仏の道を
共に歩ませていただくお同行です。
会の終わりに次回のご縁を確認して
お念仏申し阿弥陀さまにお礼をして別れます。
1カ月後の再会ですが
明日のことのように思えて楽しみです。
南無阿弥陀仏の大きないのちのつながりのなかに
あなたも私も皆共に生かされて生きていることを
有難く尊く味わわせていただく
お念仏のご縁です。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2024.12.25)
![](/img/media/image/dummy.jpg?1664426020)
クリスマスイブ
2024-12-24
今日12月24日はクリスマスイブで
キリスト教会ではイエス・キリストの誕生を祝う
ミサが誕生日の25日にかけて行われるといいます。
イブとはイブニングの略で「夜」の意味です。
日没から新しい一日が始まると言われ
クリスマスイブは25日の始まりになります。
先日「大逮夜とはどんな意味ですか?」と
質問されました。
逮夜とは「次の日に及ぶ夜」という意味で
仏教では命日や法要忌日の前夜をいいます。
今は故人の命日にお勤めすることが一般的ですが
以前は命日の前日の逮夜にお勤めする習わしがあって
今も地域によっては逮夜勤めの風習が残っています。
つまりは前日の逮夜から法要が始まり
次の日の命日まで丸一日お勤めをして
先に往かれた方を偲んだということです。
さて大逮夜とは
浄土真宗では宗祖親鸞聖人の御命日の前夜をいい
親鸞さまのお通夜の習いで
門徒衆一堂で
大逮夜法要のお勤めをさせていただきます。
たっぷりゆるやかな時の流れに身をまかせ
お念仏申して阿弥陀さまのお慈悲の中に
あなたも私も皆共にゆっくりゆったり過ごす
心豊かなお念仏の日暮らしを思います。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2024.12.24)
![](/img/media/image/dummy.jpg?1664426020)
生活の拠点
2024-12-23
今日は上皇さまの91歳の誕生日ということで
テレビ新聞でご近況が紹介されています。
90歳の上皇后さまとお二人暮らしです。
ご高齢になってお互いに気遣い支え合って
静かに穏やかにお暮らしとのことです。
6年前の天皇譲位については
大きな論議を醸しだしましたが
天皇という唯一特別な国家の職務にあって
その重要性と継続性を踏まえて
自らの意思を貫いたご英断でした。
上皇さまもまた一人の人間であり
限りあるこの人生を生死の迷いに苦悩して
生きていかねばなりません。
生活の拠点ということを思います。
人皆日々の日暮らしを送るなかで
その拠りどころとなる居場所であり
精神的な依りどころです。
誰とどこでどのように生きていくのか。
歳を重ねるなかで
共に暮らす家族のかたちが変わって行きます。
親子孫の三世代同居が一般的だったことが
高齢になるなかで夫婦二人や一人暮らしの方が
多くなってきました。
そのことだけにフォーカスすると
何か悲しい寂しさをおぼえますが
生活の拠点をハッキリ持つことで
社会とのつながりが明確になり
いかに生きていくのかを
自らの課題にすることで
充実した生活を送らせていただきます。
物質的な生活の糧もあり周囲の人とつながって
豊かな文化生活もできるでしょう。
お念仏申す生活をお勧めします。
お念仏のみ教えを生死の帰依処に生きて往きます。
この人生を生きる依り処であり
命終えて帰る処です。
お念仏申して南無阿弥陀仏のお心を聞かせていただき
阿弥陀さまの大きなお慈悲の中に
この人生を心豊かに生き抜いて
命終わってそのまま生まれさせていただくお浄土で
仏と成り懐かしい方々と再び会って迷いの世に還り
人々を救うおはたらきをさせていただくのです。
南無阿弥陀仏の大きないのちのつながりのなかに
あなたも私も皆共に生かされて
お念仏申す生活をさせていただきましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2024.12.23)
![](/img/media/image/dummy.jpg?1664426020)
ユルサレテキク
2024-12-22
自己中心の思いはからいで生きて
縁あれば周りの人を貶め傷つけることもあるこの私を
阿弥陀さまは煩悩具足罪悪深重の凡夫と見抜かれて
必ず救うと本願をおこし成就して
南無阿弥陀仏のおはたらきでそのまま救うと
お念仏のみ教えを聞かせていただきます。
善悪を超えてどんな人もそのまま救うといいますが
悪事悪行をそのまま許しているのでしょうか。
救いと許しは同じではありません。
親鸞さまは聴聞の聞の字のお心を
「ユルサレテキク」とお示しです。
悪事罪業をユルサレテではありません。
どんな極悪人も聞くことを許されるのです。
罪悪深重の凡夫を救うという本願のお心です。
悪人は問答無用で決して救わないのではありません。
ユルサレテというのは
聞いてくれよとの阿弥陀さまの願いです。
本願のお心に相応して聞くことを許され
ご本願のお心にかなった
私にできることをさせていただくのです。
「ユルサレテキク」とは
聞いてくれよの阿弥陀さまの
ご本願のお心だったのです。
そのお心がわが身に聞こえて来たとき
この悪人の口からお念仏が出てくださる
南無阿弥陀仏のおはたらきです。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2024.12.22)
![](/img/media/image/dummy.jpg?1664426020)