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お念仏を申す生活法話

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今が一番幸せ

2024-09-16
 今日は敬老の日の祝日です。
元々は9月15日が敬老の日でしたが
国のハッピーマンディ政策で
今年は9月16日が敬老の日ということです。

 各地で敬老会が開かれるということですが
敬老の日の始まりについて
先日のテレビ放送で知りました。

 戦後昭和22年に兵庫県のある村で
「としよりの日」が提唱されたことが
起源といわれます。
 終戦直後の社会の混乱期で
日々の生活が苦しかった時代です。
 当時は働き手の20代30代の男性が
戦死したり復員を果たせず
頼ることが多かったお年寄りの楽しみ会を催したところ
大変盛況で村の活性化にもなったことで
発案者の村長自ら他の市町村にも呼びかけて
兵庫県に「としよりの日」が生まれ
1966年に国民の祝日として
「敬老の日」が制定されたということです。

 現在65歳以上の高齢者は3625万人で
全人口の約30%を占め
100歳以上の「百寿者」は92,139人で
超高齢社会が続いていますが
高齢者の4人に1人が就労しており
元気なお年寄りが多いというニュースレポートの中で
101歳の薬剤師と自伝出版された女性二人に
「一番幸せなのは、いつですか?」とインタビューして
二人とも「今が一番幸せ有難い」「今が最高楽しい」と
答えていたのが印象的でした。

 歳を重ねるなかでそれぞれの人生いろんなことがあり
わが身のことでできないことも多くなって
悔しくて悲しい思いをするなかに
過去のことを思い出しては
「あの頃が一番よかった楽しかった」などと
愚痴をこぼすようなことがありますが
「今が一番幸せ」と
今をしっかり生きている姿に感銘します。

 過去のことに色々とらわれ
未来のことを何かと心配しては
ただ時間の過ぎ行くままに
ぼんやり生きているようなところがありませんか。

「年々に わが悲しみは 深くして
いよよはなやぐ いのちなりけり」と
岡本かの子さんの歌です。

 敬老とは老いを敬うということで
敬老の日は
「老人を敬愛し長寿を祝う日」と規定されていますが
仏法は老いを見つめるなかに
老病死のいのちの実相に
向き合うことの意義を説きます。

 私たちはいつまでも若くて健康で長生きしたいと
願って生きていますが
年々に老いて病んで必ず命終えていかねばなりません。

 仏さまは生死(しょうじ)の境界を迷い続け
このたび人間界に生まれた私たちに
今度こそさとりの世界に生まれて来いよと
仏法聴聞を勧めます。 

 お念仏のみ教えを聞いて
南無阿弥陀仏の大きないのちのおはたらきに遇って
お念仏申して老いて往きましょう
お念仏申して病むときには病んで往きましょう
そして命終わるときにお浄土に往生させていただいて
さとりの仏さまに成らせていただきましょう。

 思い通りにならない老病死のわが身に寄り添い
いつでもどこでもどんな時でもご一緒くださる
阿弥陀さまの大きなお慈悲に生かされて
今を生きる有難さ尊さを思います。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2024.9.16)

善知識って何ですか?

2024-09-15
 法話会のご縁で
「善知識(ぜんぢしき)って何ですか?」と
質問がありました。

 善知識とは仏縁に導いて
真実に目覚めさせてくださる方で
私を浄土真宗のみ教えに
遇わせていただいたお方のことをいいます。

 私にとって善知識とは
どなたのことでしょうか?
 私たち浄土真宗門徒でいえば
浄土真宗を開かれたご開山親鸞聖人であり
お念仏申す生活のあり方を示し
信心獲得を勧めてくださった蓮如上人であり
お念仏の法灯を代々受け継ぎ私に届け伝えてくださった
お念仏の先人のことでしょう。

 直接お会いした方も
お会いしていない方もいるでしょうし
誰彼というのではなく
お念仏のご縁に遇わせていただいた
多くのお念仏の方々です。

 親鸞聖人にとって善知識は
「よきひと」法然聖人でした。
 『歎異抄』第二条に
関東の門弟たちが
「往生極楽の道を問いきかんがために」
京都の親鸞さまを訪ねて来られたとき
「親鸞におきては
ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべしと
よきひとの仰せをかぶりて
信ずるほかに別の子細なきなり」と
申された「よきひと」です。

 同条には親鸞さまに本願念仏のみ教えが
至り届けられる道行きを
阿弥陀如来から始まり釈迦如来、善導大師、法然聖人
そして親鸞聖人へと示されています。

 さて私にとって善知識とは
誰のことでしょうか?
 今こここの私に
お念仏のみ教えを届けてくださった善知識です。
 
 初めてお念仏のご縁に遇った時のことを
覚えていますか?
 有縁の方のお葬儀やご法事であったかもしれません。
お寺のご縁だったかもしれません。
 御仏前に座ってお念仏の声が聞こえてきました。
誰の声かといって
お寺の住職坊守さんご門徒の方々
身近な祖父母や家族親族有縁の方だったか
わかりませんが
たくさんのお念仏の声が聞こえてきて
いつかこの口からお念仏を申す身に
させていただいたことです。

 誰からいつどこでと
善知識さがしをするのではありません。
 今この口から確かにお念仏が出てくださることを
有難く喜ばせていただきましょう。

 大本は阿弥陀さまです。
お釈迦さまがいて七高僧さまへと届けられ
親鸞さま蓮如さま有縁のお念仏のひとへと伝えられ
私のところに届けられたお念仏のみ教えです。

 南無阿弥陀仏のおはたらきです。
生きとし生けるものすべてを
分け隔てなくそのまま救うと
いつでもどこでもどんな時でも
この私にご一緒くださる
阿弥陀さま有縁の仏さま方です。

 お念仏申して
南無阿弥陀仏の大きないのちのつながりのなかに
先にお浄土に往かれた方も後に遺った私たちも共々に
これからも生かされて生きてまいりましょう。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2024.9.15)

浄土真宗のお寺

2024-09-14
 お寺って何だろう?
皆さんはお寺にどんなイメージを持たれていますか。

 お坊さんが厳しい仏道修行をするお寺であったり
京都や奈良の有名な観光寺院であったり
皆さんが暮らす地域のお寺を
思い浮かべる方もいるでしょう。

 大きな建物に住まいするお寺の人の生活ぶりは
一般のお家の生活とは大分違って
見えるのではないでしょうか。
 お寺にはいろんな法要行事があって
多くの人が出入りして大変だと思われるようですが
お寺に生まれて生活してきて歳を重ねるなかで
その大変さが有難いと思えるようになりました。

 浄土真宗のお寺はお念仏聞法の道場といわれます。
有縁の方々がお寺にお参りされて
仏法聴聞されお念仏申す身にお育ていただく道場こそが
お寺の本来の存在意義なのです。

 親鸞さまは生涯お寺をもつことなく
地域住民の皆さんと生活を共にするなかに
ご縁ご縁に所どころで
お念仏のみ教えを説かれたといいます。

 蓮如さまは地域の人びとが寄り合う講組織に
お名号のご本尊を届けて
お念仏のご縁を弘めたといわれます。

 皆さんのお家がお念仏の道場となり
より多くの人が集まれるように
お念仏の先人は
仏さまをご安置する内陣より
参詣者がお聴聞する外陣の方が広い
浄土真宗の特徴あるお寺を建立して
私たちに届けてくださったのです。

 今はお家にお仏壇があるのが当たり前のようですが
お家がお寺の始まりだったのです。

 地域の遠くからでも見れる
大きなお屋根のお寺に向かって
地域の皆さんがご縁ご縁に手を合わせ
お寺の仏さまにお礼をさせていただく
お寺は地域の皆さんの
日々の生活心の依りどころだったのです。

 現代は人口減少と都市部への集中核家族化で
ご門徒のお寺離れが進み
これからのお寺の護持が大変難しくなっています。

 お寺は何のためにあるのか?
お念仏のみ教えを届けてくださった
親鸞さま蓮如さまのお心
ご懇志をはこんでお寺を建て護持し伝えてくださった
お念仏の先人に思いをはせ
これからのお寺のあり方を共々に考え
今私にできることを
精いっぱいさせていただきましょう。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2024.9。14)

「私は決して完璧な人間ではないので……」

2024-09-13
 パワハラ疑惑等々で百条委員会の追及にあい
県議会議員全員から辞職要求が出される事態になった
兵庫県の斎藤知事が記者会見で涙を浮かべて
「私は決して完璧な人間ではないので……」と
言われました。

 涙の真相はわかりませんが
県知事選挙で応援してくれた仲間からも見放された
悔しい胸のうちが表れたのでしょうか。
 選挙で県民から4年間の負託をいただいて
自分なりに知事の務めを果たしているのに
ということでしょう。
 自らの辞職には応じず
不信任決議案が可決されれば
法規に則って次の選択肢を講じると
頑なに信念を押し通す覚悟のようにも見えます。

 先の「完璧な人間ではないので」の発言について
今周囲の批判の的になっているこれまでの言動に
一定の理解を求めるようにも聞こえますが
誰も知事に完璧な人間を求めているのではありません。

 人間誰しも間違ったことをして
周囲の人に嫌な思いをさせたり
迷惑をかけることがあります。
 自分が気づこうか気づくまいか
これまで何も迷惑をかけないで生きてきた人は
一人もいないのではないでしょうか。

 ただ知事のような公的な立場に立つ人には
世間の目は大変厳しいものがありますが
大切なのは間違ったときは
周囲の意見に素直に耳を傾け反省して
謝るべきは謝り
それを次の生きる糧にするぐらいの覚悟と
柔軟な対応が必要だと思います。

 中々「はいそうです」と言えず
自らの保身をはかろうとするのが人間の業ですが
嫌な事でも言ってくれるのが真の友人です。

 知事はじめ政治家だけではありません。
社会的立場にある「先生」と呼ばれる人たちです。
 僧侶お坊さんもその一人です。
完璧な人間ではないと言い訳するのではなく
社会生活を共に営む一員として
真摯に人ひとに向き合っていくことです。

 親鸞さまの「よき師」法然さまは
日々の生活に明け暮れ苦悩し迷う人びとに
「この世はお念仏申されるように生きなさい」と
いつも仰せだったと言われます。

 歳を重ねて様々なことに出あうなかで
お念仏申して一日一日を大切に
何事も阿弥陀さまにご相談しながら
心豊かに今私にできることをさせていただきましょう。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2024.9.13)

お浄土からのお届けもの

2024-09-12
 この時期、いつものご門徒さんから
いつもの葡萄が届きました。

 県内の葡萄の名産地にブドウ狩りに行かれて
おすそ分けを持ってきてくださるのです。

 今年はいつものご門徒さんではなく
長男のお嫁さんが持って来られました。

 いつものご門徒さんは
一か月前にご往生されたのです。
 急な悲しいお知らせでしたが
最期は自宅でご家族お友だちとも
最後のお別れができたと聞いていました。

 先年病気になって入退院を繰り返し
お寺のご縁はご遠慮されていたようですが
お家にお参りに行くと
コーヒーを煎れて
手作りのケーキや果物など盛りだくさんに
お接待してくださいました。

 「一年一度のお寺参りのご縁です」と
決まってシャインマスカットと巨峰のお供えです。

 ご家族の方も知っていたと思いますし
申し送られたことかもしれませんが
いつもの葡萄が届きました。

 お浄土からいつものお届けものです。
お念仏申して有難くいただきました。
 
 これからはいつもお浄土から
南無阿弥陀仏のお喚び声を届けてくださるのですね。
 お念仏申して有難くいただき
往生浄土の道をご一緒させていただきます。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2024.9.12)

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円光寺
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