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お念仏を申す生活法話

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お寺は何のためにあるのでしょうか?

2024-06-01
お寺は何のためにあるのでしょうか?
 新型コロナウイルスの感染症5類移行で
全国各地の催しものが復活し
人出の賑わいが
コロナ前に戻ってきているとのことですが
私たちの身近な日々の生活のなかでは
大きな変化が起こっているようです。

 年間の恒例行事は元通り
に行われるようになりましたが
行事に携わる関係者そして参加する人の変化です。
 主な顔ぶれが変わり参加人数もぐっと減りました。

 以前からやっている
前年度踏襲型の行事のあり方が見直され
役員の参加義務付けが効かなくなり
逆に「何でしないといけないの?」と
行事をする意味自体が
問われるようなことが起こっています。

 お寺の法要行事も然りです。
役員さんの参加はありますが
門徒一般の参加は明らかに少なくなりました。
 これはコロナ以前から見られていたことですが
コロナを契機にその傾向が顕著になった感じがします。

 これはある意味お寺の本来のあり方を見直す
チャンスなのかもしれません。

 「お寺は何のためにあるのか?」という
根本的な問いです。
 古くからお寺と門徒の関係は
同じ地域社会にあって人々が互いに支え合い
共に生きる生活の基盤でした。
 お念仏の先人が代々伝えてくださった
お念仏のご縁つながりです。

 昔のような家制度の実態がなくなり
今は核家族世帯が中心になって
日頃からお寺とのご縁が薄い生活環境の中で
お寺は葬儀や法事の時だけの存在になりつつありますが
お念仏のご縁をいただいた私たちです。

 どうぞお寺にお参りください。
南無阿弥陀仏のみ教えを聞かせていただきお念仏申して
この人生を心豊かに生かされて生きてまいりましょう。

 お寺は仏さまが私たちに開いてくださった
仏法聴聞お念仏の道場です。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2024.6.1)

わが身の事実

2024-05-24
 私たちは生死流転罪悪深重の身を生きていると
仏法は教えます。

 生まれては死に生まれては死にと
何度も何度も生死を繰り返し迷い続けているわが身です。
 今日も朝から食事をしましたね。
わが身を保つために他のもののいのちをいただき
殺生し続けている私です。

 殺生は仏教の戒律の中で最大の罪として
不殺生戒を第一に掲げていますが
他のいのちを奪うことなしに
この身を生きることはできません。

 迷い続け殺し続けてわが身を生きていることは
どんな人も否定できない本当の事実であると
仏法は教えます。

 その上で罪悪の身のままに生死の迷いを超えて生きる
真実さとりの道を仏法は開いてくださるのです。

 浄土真宗の仏道は
阿弥陀如来がすべてのいのちをそのまま救うと
開いてくださった本願他力のお念仏の道です。

 「必ず救うまかせよ」の南無阿弥陀仏のおはたらきに
お念仏申してそのまままかせて
阿弥陀さまの真実報土のお浄土に生まれ
真実さとりの仏にさせていただくのです。

 この世を生きる限りは
生死流転罪業深重の身は変わりませんが
如来の仰せに信順して
お念仏申す身にさせていただくのです。

 人の世に生まれて
仏さまのご縁に遇わせていただきます。
 お念仏のみ教えを聞きましょう。
お念仏申す身にさせていただきましょう。

 南無阿弥陀仏の大きないのちのつながりの中に
あらゆるいのちが生かされ支え合って
共々に阿弥陀さまのお浄土に生きて往ける
お念仏のご法義をこの身にいっぱいいただいて
今日一日もお念仏申す生活をさせていただきましょう。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2024.5.24)

袴田事件再審裁判

2024-05-23
 袴田事件の再審裁判で結審があり
検察は再度「死刑」を求刑しました。

 事件から58年の歳月を経て
2014年の再審開始決定で袴田さんは今は釈放の身ですが
死刑が確定し47年間の拘置所収容で拘禁状態が残り
意思疎通が困難な88歳の袴田さんに代わって
最大の支援者の91歳の姉が
「余命を人間らしく過ごさせてください」と
最終意見陳述をされました。

 9月26日に判決が下りますが
検察は有罪とする新たな証拠を提出することなく
事件当時の捜査官検察官から引き継いだ
証拠資料物件に基づく有罪立証を繰り返しました。

 事件が起きた事実は
そこに必ず犯人がいることを意味し
検察は犯を人を特定し裁判で処罰を課すべく
立証する重い職責を担います。

 罪を裁き処罰することで
社会の治安をまもる大きな使命があるということですが
そのために自白を強要したり無理な証拠立てをして
犯人を特定する冤罪は重大な人権侵害です。

 検察のメンツを保つために
一人の人間の生きる権利が奪われることは
決してあってはならないことです。

 お念仏のご法義です。
すべてのものを分け隔てなく必ず救うと
阿弥陀さまは本願を建てられ成就され
南無阿弥陀仏となっておはたらきです。

 罪業深重のわが身の事実を知らせ
罪を裁くのではなく
「いつも私が一緒ですよ」と
いつでもどこでも誰にでも
寄り添ってくださる
大悲の仏さまになってくださったのです。

 南無阿弥陀仏のお心おはたらきを
わが身に聞かせていただきましょう。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2024.5.23)

ピンポーンのお念仏

2024-05-07
 朝からピンポーンピンポーンと
玄関のチャイムが鳴ります。

 お寺のお世話人さんです。
各地区のご門徒皆さんから
お寺の護持のための諸会費や法要のご懇志を集めて
お寺にお持ちくださるのです。

 連休も明けて
いよいよこれから日常いつもの生活です。
 人の動きが始まります。
それぞれのお役目お仕事です。

 お念仏につながって
お寺の日々の生活です。
 住職はじめ寺族もご門徒衆も
それぞれの持ち場でお役をさせていただくなかに
お念仏が先人から私たちにそして次の世代に
伝えられていくのです。

 その大きな依り処南無阿弥陀仏の拠点が
お寺なのです。

 ピンポーンのチャイムが
南無阿弥陀仏のお念仏の声のように
有難く頼もしく聞こえてきます。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2024.5.7)

愚痴の念仏

2024-05-02
 「<どうか病気が治りますように>とか
<受験合格しますように>とかお願いして、
お念仏申してもいいのでしょうか?」と
聞かれました。

 浄土真宗のお念仏は他力の念仏で
私の願いを仏さまに祈るのではないと
お話した上での問いです。

 良いか悪いかということですが、
「良いとも悪いとも言えません」と答えました。

 「良い」と言って
自分が申すお念仏を祈願の念仏と
お墨付きをもらいたいのでしょうか。
 「悪い」と言ったら
何かお念仏の価値が無くなるのでしょうか。

 どこまでも自分中心の私の思いはからいは
どうにも止まらないということです。

 よくお寺参りしてお念仏申されるおばあさんが
お家のお仏壇に座るとブツブツ愚痴を言っていたと
お孫さんが小さい頃の思い出話です。
 家族や自分の至らなさへの不平不満だったようですが
その後「ナマンダブナマンダブ」と
何度もお念仏の声が聞こえてきたそうです。

 お念仏は「私を喚んでくださる」
阿弥陀如来さまの御声と聞かせていただきます。
 愚痴の私の口から出てくださるお念仏は
如来さまの「我にまかせよ必ず救う」のお喚び声です。

 またこの口から愚痴の念仏が出ました。
「ようこそようこそ」とそのまま聞いて
ご一緒くださる如来さまに安心します。

 愚痴の身をそのまま救うと
南無阿弥陀仏のおはたらきはお念仏の声となり
そのまま周りの人にも伝わって
お念仏申す身にお育ていただくご縁になります。

 祈願の念仏も愚痴の念仏もどのお念仏も
南無阿弥陀仏のお喚び声と聞かせていただく有難さです。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2024.5.2)

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円光寺
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