看取りの声かけ
2022-07-25
一昨日の23日に坊守の母で
戸畑の教学寺前坊守が往生されました。
私もすぐ駆け付けました。
やすらかなお顔の戸畑のお母さんでした。
通夜葬儀はどこのお寺も忙しい土曜日曜をさけて
今日のお通夜で明日のお葬式です。
昨日は日曜日で法事の予定が午前と午後にあり
その間の午後1時にお葬式が入って
お礼参のお勤めが済んだのが夕方5時半頃でした。
それから急いで平松さんに散髪を
してもらいに行きました。
バタバタと忙しい日々の生活の中で
大切な方とお別れする悲しみのご縁です。
5月末に容態が急に悪くなり入院して
意識が殆どないなかで
リモートでの一週間に一度の面会でしたが
本当に有難いなあと思うのは
お寺で生まれ育って
仏さまのご縁に遇わせていただいたことです。
住職の長男がリモートで声をかけると
その声に反応するというのです。
娘の坊守が行って声をかけると
反応するといいます。
声かけです。
いつもの日常の声かけです。
いよいよ最期の看取りです。
もう危ないということで病院から連絡があり
すぐ長男が行って声をかけたそうです。
看取りの声かけです。
「お浄土でまた会おうね」「お浄土で会おうね」と
いつもの声で何度も何度も言ったそうです。
「後から往くから迎えてくれよ」と
「教恵も往くから迎えてくれよ」と言ったそうです。
お母さんの目から
涙が流れたといいます。
平生日頃の声かけです。
日頃から声かけが出来ている出来ていたということです。
お念仏の声かけです。
お念仏の声のおはたらきの中に
私たちは共々に生かされて生きているのです。
南無阿弥陀仏の大きないのちのつながりのなかに
私たちはこの人生を生き抜いて
命終わる時にそのままお浄土に
生まれさせていただけるのです。
南無阿弥陀仏とお念仏申して
「往ってらっしゃい」と
お浄土に見送ることができるのです。
「往ってきます」と見送られるのです。
阿弥陀仏が「あなたの命そのまま引き受けた
必ず救う」と南無阿弥陀仏のおはたらきで
私たちのために用意をしてくださっているお浄土に
先に往く者も後に遺る者も
確かに確かに往生させていただくと聞かせていただきます。
俱会一処のお浄土で「また会いましょう」と
お念仏の声かけがつながります。
住職がポツンと言いました。
「お念仏に遇えてよかった」と言いました。
この人生を生きてきた中にはいろんなことがありますが
自分の都合でものさしで善いとか悪いとか言って
日暮らししている私たちお互いです。
有難いことにこの人の世に命を恵まれ
尊いご縁があって仏さまのみ教えに遇わせていただき
お念仏を申す身にさせていただきました。
いろんなことがあったけれども
「この人生本当によかった」と
お念仏申して往生浄土の人生です。
私たちもすでに歩んでいる
往生浄土のお浄土への人生ですが
これからも思い通りにならないいろんなことがあります。
どんな状況にあっても阿弥陀さまがご一緒の人生です。
「この人生本当によかった」と
人の命は終えますがそのままお浄土の仏さまとなって
南無阿弥陀仏のおはたらきをしてくださるのです。
「いつも私が一緒だよ。
どんなことがあっても
あなたを見捨てることはないから大丈夫
安心してあなたはあなたの命を精いっぱい輝かせて
一緒に往生浄土の人生を生きて往こうね」と
懐かしい戸畑のお母さんの声が聞こえてきます。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.7.25)
お念仏のおはたらきに生かされて継続は力なり(2010年アーカイブ)
2022-07-24
大相撲の横綱白鵬が45連勝で
大鵬の記録に並んだということです。
ずっと勝ち続けるということには
大変なプレッシャーがかかるといいます。
勝ち負けは裏表で勝ちがあれば負けがあるということで
いつかは負けるがそのいつかはわからない
自分の力でもって相手を制することはできても
相手があるということでままなりません。
私たちも日々生活も実はそういうことの繰り返しを
続けるということで大変なことです。
継続は力なりといいますが
続けていく過程においてどうしても私に力が入ります。
私がという力ですが
そこにいろんな不安や苦しみ悩みが起こってきます。
継続は力なりという力は
おはたらきのことです。
続けていくことによって
大きな力おはたらきに生かされてあるということです。
私たちは生きています。
実はこの生きていることも生き続けているわけですが
生き続けていることについて力が入ります。
力が入るときがあるんですが
そのとき苦しみ悩み迷いのなかにあると思ったりもします。
生かされてあったと
今朝目が覚めて本当に生きていた生かされてあったと
気づかせていただけるというのが
そこに大きなおはたらきがあるということなのです。
今日もこうして皆さんとお朝事のお勤めができました。
このお朝事も毎朝続けるということですが
続けようと力が入ると苦しみ悩みがでてきて
中々難しいことになってきます。
皆さんとご一緒にお朝事のご縁をいただいて
生かされてあったと気づかされれば
まさに継続は力なりで南無阿弥陀仏の
大きなおはたらきのなかに共々に生かされてあると思い
今日も一日生き抜かせていただけることです。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2010.7.24)
お朝事のご縁にお寺に帰る(2011年アーカイブ)
2022-07-23
お浄土はこの命終えて帰る処
私のいのちのふるさとと聞かせていただきます。
ふるさとには帰るといいます。
旅をして家に帰る外出して家に帰るといいます。
家とは自分が住んでいる私の家元居た所ですが
お浄土には私はこれまでも行ったことはないし
私の家ということではありません。
阿弥陀さまのお家です。
その阿弥陀さまのお家に帰るというのです。
外出して家に帰るということでいえば
日々お浄土に帰るということです。
お浄土は阿弥陀さまのお家です。
阿弥陀さまは今現在お浄土でお説法をされていると
お経さまに書かれてあります。
阿弥陀さまのお説法はお念仏のみ教え
私たちすべての生きとし生けるものを救い取るという
阿弥陀さまの南無阿弥陀仏のおはたらきです。
この阿弥陀さまのお浄土からのお念仏のおはたらきを
私たちは日々聞かせていただくのです。
私たちの日々の生活をちょっと振り返ってみても
毎日いろんなことがあります。
ちょっとしたことで傷ついたり振り回されたりと
苦しみ悩むことがたくさんあります。
この苦悩の中に惑い迷うこの私をみそなわして
お念仏のおはたらきで一つ処に帰らせていただく
阿弥陀さまのお救いです。
私はそれがこのお朝事のご縁といただいています。
お朝事は日々の生活今日一日の出発点です。
お念仏申しお浄土からのおはたらきをいただいて
昨日までの生活を振り返り
今日の一日を始めさせていただきます。
南無阿弥陀仏のおはたらきをいただくなかに
私たちは今日一日をまた生きていくことができると
これがお念仏のご法義の力おはたらきです。
お浄土の阿弥陀さまの智慧と慈悲のおはたらきです。
智慧の光に照らされ慈悲の心おはたらきに生かされて
阿弥陀さまがいつもご一緒してくださることで
決して独りじゃないということです。
今日もたくさんのお朝事同行がお参りです。
一人じゃありません。
先ほど「おはようございます」と
互いに声をかけあっていましたね。
この声南無阿弥陀仏のお喚び声です。
「われにまかせよ必ず救う」
「いつも私が一緒だから大丈夫だ」のお念仏の声に
支えられ励まされて
私たちは日々の生活をさせていただいていると
阿弥陀さまがいらっしゃるこのお寺の本堂に
帰らせていただくのです。
お寺は私たちの心の古里
帰るところだったのですね。
これからまた今日の一日が始まります。
皆さんはそれぞれお家に帰ります。
家に帰って今日もまたいろんなことがあると思いますが
お念仏を申しつつ共々に生かされて
また明日の朝このお寺に帰ってきてください。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2011.7.23)
子どもにも遇ってほしい仏事のご縁です
2022-07-22
昨日はお葬式のご縁で
火葬の後お遺骨をもたれてご遺族がお寺にお参りされ
ご本尊の阿弥陀さまにお礼をさせていただく
お遺骨となって還るという還骨の
お礼参のお勤めをさせていただきました。
喪主の家族縁者でそんなに多い人数ではありませんが
賑やかなお勤めになりました。
喪主のお父さんのご縁で
喪主の子や孫の四代のご縁です。
小さな子どもが3人お参りでした。
初めてのお寺参りです。
広い本堂に入ると「ここどこ?ここどこ?」と言って
さっそく走り回ります。
普通のお家ではありません。
広い広い本堂の正面にはキラキラ光っている
仏さまがいらっしゃいます。
何とも不思議な世界なのでしょう。
未体験ゾーンに来て
子どものボルテージは一気に上がります。
悲しみのご縁ですが
何か微笑ましくいいなって思いました。
最近は葬儀や法事の仏事に子どもの姿を見ることが
本当に少なくなりました。
小さな子どもがはしゃぎまわると
周りに迷惑だとの配慮でしょうが
逆に子どもの頃に仏事のご縁に遇うことは
本当に大事なことだと思うのです。
私が子どもの頃も同年輩の親戚のいとこ同士が集まると
さっそく無邪気に暴れまわったものです。
そうした子どもの姿が
悲しみのご縁を和ませることにもなり
私たちのいのちのつながりが
送り送られてきたことを思います。
今年もコロナ禍ということもあって
子ども会のサマースクールができません。
子どもたちの仏さまのご縁です。
夏休みのひと時をお寺で友だちみんなと一緒に過ごす
貴重な体験です。
個室もベットもテレビも何もない
ないない尽くしのお寺の本堂で食事を共にし一泊します。
キラキラ光るお内陣の仏さまの前に正座して
一緒にお勤めをし大きな声で「ナマンダブナマンダブ
ナマンダブ」をお念仏申したことを
後から振り返って
ただ楽しかった面白かった思い出だけではなく
その人人の人生の中でキラッと光るものであったらと
昨日のご縁にお参りした子どもさんに重ねて思います。
これから七日七日のご縁が始まりますが
子どもたちにも仏事のご縁に遇ってほしいと思います。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.7.22)
「うそも方便」?
2022-07-21
毎朝新聞のコラム欄を楽しみに読んでいます。
今朝の大分合同新聞『東西南北』欄は
「うそも方便」という言葉で始まりました。
その全文です。
「うそも方便」という。
うそは良くないが、良い結果を得るためには
時にはうそをついた方が良いこともあるということ。
方便は、仏教では衆生を救って真の道へ導くために
仮に取る便宜的な手段をいうそうだ。
後でうそが分かっても、そういう事情があったのかと
理解を得られることだろう。
▼「うそつきは泥棒の始まり」という。
悪いと思わないで平気でうそをつくような人は
平気で盗みを働くようになるということ。
悪事の感覚がまひしてしまう。
立場のある人がそんなふうだと大変だ。
発言にうそがあったことを認めなければ
うそにうそを重ねる。
プライベートではいい人でも
ほかでいい仕事をしても
うそやずるい振る舞いは信頼を失い残念。
▼英国では」、首相が辞任に追い込まれた。
新型コロナウイルスの感染拡大に伴う行動規制中の
首相官邸でのパーティー問題では虚偽答弁を疑われ
与党議員の性的スキャンダルで任命責任逃れがばれて
謝罪した。
ついには閣僚らが首相への信頼を失ったと抗議の辞任
政権運営が立ちゆかなくなった
▼組織の大小や新旧にかかわらず
そこに信頼がなくてはうまく回りはしないに違いない。
100%完璧な人間になるのは難しいが
うそをつかず、ずるをしないことは
心がけさえすれば誰にでもできる。
「他山の石をもって玉をおさむべし」だ。
以上(文面編集責任筆者)です。
コラム全編で言わんとすることはわかるのですが
「うそ」と「方便」は違います。
「うそも方便」と言うのは私たち人間のものの見方で
人間の都合の良いように言われるのが「うそも方便」です。
方便について仏教云々の解説がありましたが
誤解をまねく言い方です。
方便は巧みな方法を用いて衆生を真実の法に導くための
仮の手立てとしての仏の教えおはたらきです。
今朝の御和讃に「方便」の言葉を2度
「弥陀釈迦方便して」
(阿弥陀仏と釈尊は
すべてのものを導く巧みな手だてを施して)
「釈迦韋提方便して 浄土の機縁熟すれば」
(釈尊と韋提希が
すべてのものを導く巧みな手だてを施したことによって
浄土の教えを説き明かす機縁が熟し)
といただきました。
『観無量寿経』のお心を讃える御和讃です。
お経には「王舎城の悲劇」という大事件が説かれています。
お釈迦さまの在世にマガダ国の王舎城を舞台に
アジャセ王子が父のビンバシャラ王を幽閉し王位を奪い
母の韋提希も幽閉します。
韋提希はお釈迦さまに
「何で子からこんな苦しみを受けないといけないのか」と
苦悩なき世界を求めて教えを請います。
親鸞聖人は「釈迦韋提をして
安養をえらばしめたまえり」と
阿弥陀仏の安楽浄土を韋提希に選ばせたといただき
弥陀釈迦韋提希の方便によって
私たちは往生浄土の救いの法に遇うことができたと
いただかれたのです。
方便といって嘘ではありません。
真実に導く手だてです。
親鸞さまは韋提希もビンバシャラ王もアジャセも
「権化の仁」と示され
仏菩薩が衆生を救うためにさまざまな形を変えて
仮にこの世に現れたといただかれます。
方便は仏菩薩がこの私を真実に導く手だてであり
私たち人間の手だてではないのです。
私たちのご本尊の阿弥陀仏のお姿も
方便法身といいます。
うその仏さまではありません。
私たちを真実に導いてくださる真実方便の仏さまです。
真実といっても分からない私たちにも分かるように
この目に見えるお姿で形を現してくださったのです。
阿弥陀さまは何で立ってらっしゃるのかな
何で右手は上げて左手は下げてらっしゃるのかなと
阿弥陀さまのお心おはたらきを
目で見るなかに真実のみ教えを
聞かせていただくのです。
「嘘も方便」といいますが
嘘は嘘であり仏教の十悪の一つ「妄語」です。
嘘をつくものは閻魔様の裁判で
地獄に堕ちて塗炭の苦しみに遭うといいます。
さてこのコラム自体も人間が書いたもので
私たち人間の一般的なものの見方です。
嘘は悪いが善い嘘もあると読めますが
善いも悪いも私の都合思いはからいです。
自分の都合で善い悪いを判断して生きることは
どこまでも虚仮不実な生き方であって
そこに私たちの苦しみ悩み迷いの原因があると
仏教の真実の教えを聞いてくれよというのです。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.7.21)