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お念仏を申す生活法話

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人生の締め切り

2022-06-15
 朝起きて一番にポストに新聞を取りに行くのが
私のいつもの朝の日課です。
 新聞は毎朝3時半頃にはバイクの音と共に
配達されていますので
早く目が覚めた時など早速新聞に目を通せる
楽しみがあって本当に有難いです。

 新聞は毎日発行されます。
記事を取材して文章にして印刷して販売店に届けて
各お家に配るという多くの人が係る一連の作業です。
 それも新聞というぐらいですから
最新のニュースが新聞の命です。

 なるべくギリギリまで待ってということで
締め切りの時間との戦いが日々続きます。

 雑誌社に勤務していた方が
がん告知余命宣告を受けて出版された本に
人生の締め切りと書かれていました。

 週刊誌や月刊誌も締め切りがあって
締め切り前はてんやわんやの事態で
もう大変という話です。
 ちょっと想像しただけでも
私だったらストレスがたまってパニックになるようなことで
「そんなに慌ててバタバタしないように
早くから準備段取りしていたらいいのに」と言われますが
私のことでいうとこれが難しいのです。

 何の仕事でもいつまでにどうこうと
締め切りがあることは分かっていますが
「まだまだ時間がある」などと思っては
結局は締め切り間際になってバタバタ慌てるのです。

 それでも周囲の協力をいただいて
何とかかんとかやってきたのです。
 満足できないことがあっても
その時は「この次はこうしよう」と反省します。

 ところが人生の締め切りは待ったなしです。
反省してこの次はこうしようと思っても
この次があるかと言ったらないのです。
まさに待ったなしなのです。

 余命宣告された人は
人生の締め切りを決められたわけですが
皆さんはどうですか。
 私のことでいったら
まだ人生の締め切りは決められていませんが
その締め切りは必ずあって
それもある日突然来るということです。
 無常の命を生きているということです。
人生無常諸行無常の理です。

 まさに日々毎日が人生の締め切りなのです。
人生を仕舞うということ始末をつけるといいます。

 仏法にこの人生の始末を
聞かせていただきます。
 人間に生まれましたね。
生きてきましたね。
色んなことがありましたね。
 どこまで生きますか。
死んだらどうなりますかね。
 人生の始末がついていますか。

 私たちの阿弥陀さまは
この命をそのまんましっかり受け止めてくださる
仏さまに成ってくださったのです。
 生死の迷いの中に沈み思い悩む私を
そのまま受け止めてくださって
「大丈夫だよ」といつでもどこでも
南無阿弥陀仏と私を喚んでくださっているのです。

「どんなことがあってもあなたを捨てることはないよ
私がいるよ大丈夫だよ」と
生老病死の命を共に生きてくださり
命終わる時に「そのまま連れていくぞ」と
南無阿弥陀仏のおはたらきで
お浄土に生まれさせ仏に成らせてくださるのです。

 わが名を称えてくれよ南無阿弥陀仏を聞いてくれよと
お立ちになって私を喚んでくださっているのです。

 人生の締め切りを考える齢になりました。
人生の始末はもうできたのかといって
自分に納得のいくようなことが
できる人っていないと思います。

 ただお念仏のみ教えに遇わせてもらって思うのは
この人生いろんなことがあったけれども
これからもいろんなことがあるだろうけれども
「大丈夫」と喚んでご一緒くださる
阿弥陀さまの大悲に抱かれて
「人間に生まれて仏法に遇えて
お念仏申す身にさせてもらって本当によかった」と
命終えていけることの有難さです。

 お念仏を申すなかに日々人生の締め切りと心して
今日一日も生かされて生きてまいりましょう。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.6.15)




仏壇じまいの御礼のお勤めです

2022-06-14
 昨日は仏壇じまいと墓じまいのご縁をいただきました。
 お家を継ぐ方がいらっしゃらないということで
お仏壇もお墓も仕舞うということです。

 これからこうした事例が
多くなってくると思います。

 以前でしたら家を継ぐことが一大事でしたから
家に跡継ぎの子どもがいないと
養子を迎えるなどして家を存続してきたわけですが
今は家に子どもがいても
遠方に家を建て家庭を持って生活していて
古里の家に戻って家を継ぐことが難しく
お仏壇やお墓をそのままにしておけない事情もでてきます。

 お仏壇やお墓を仕舞うのに
「魂抜きをしてください」と
お勤めを頼まれます。

 魂を入れたり抜いたりするための
お勤めではありません。
御礼のお勤めです。

 昨日のご縁でいうと
今はそのお家には誰も住んでらっしゃいませんが
過日月参りに行きますと
おばあちゃんと長男夫婦がいらっしゃって
おばあちゃんが仏間の次の間に腰をかがめて手を合わせ
お父さんは私の後ろでご一緒にお勤めをし
お母さんは台所からお茶をお盆に持ってきてくださった
いつもの光景が思い出されます。

 お家の中心にご本尊の阿弥陀さまのお仏壇をご安置して
家族それぞれの日暮らしがあったということです。
 いろんなことがあった私たちの生活ぶりを
阿弥陀さまがいつもお立ちで見守ってくださり
家族が一堂に会して阿弥陀さまご先祖有縁の仏さま方に
御礼をさせていただいたことです。

 このたびのご縁でこのお家もお仏壇もお墓も
仕舞われるということですが
これからも仏さまに南無阿弥陀仏と御礼のお念仏を申して
日々日暮らしをさせていただきましょうと
ご法話お取り次ぎをさせていただきました。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.6.14)


どんなことがあっても大丈夫と阿弥陀さまのおはたらきです

2022-06-13
 癌で余命宣告を受けて生きて往かれた
お念仏の先人の本を読ませていただきます。

 60歳前のお寺の坊守さんのお話です。
お友だちが病院にお見舞いにみえていろんな話に花が咲き
いよいよ帰られるということで
点滴を付けたままエレベーターまで見送りに行った時に
坊守さんが「今度また会えるといいね」と言ったら
お友だちがすぐ「何を言うの。大丈夫だから
弱気になったらだめよ」と言い返したそうです。

 お二人の思いはよく分かりますね。
ただ湿っぽくなった雰囲気を察した坊守さんが
「何を言ってるの。私は大丈夫だから
あなたこそ私が退院するまで元気でいてね」と
切り返してその場が和みお別れしたという話です。

 私たちは病院にお見舞いに行くと
「私は元気だけれども、入院患者は死に直面している人」
という先入観がどこかにありませんかとの示唆です。

 私たちはこの身にいつ何が起こるかわかりません。
御文章さまの「白骨章」に
「われや先 人や先 今日とも知らず 明日とも知らず」
の仰せのとおりです。

 お念仏のみ教えに
お見舞いの人も入院患者も同じ「臨終の人」であり
阿弥陀さまの大きなお慈悲のおはたらきのなかに
共々に生かされてあると聞かせていただきます。

 人に生まれて死んでいくと
そこだけ切り取ったら何ともはかない命空しい人生です。
 人に生まれてお念仏のみ教えに遇って
私のこの命は阿弥陀さまの大きな御手の中にあり
それは私一人ではなく隣の人も隣の人も
共々に生かされて生きて往けるお浄土で
仏に成らせていただくいのちと聞かせていただきます。

 阿弥陀さまのおはたらき
南無阿弥陀仏のど真ん中を生きるのです。

 これからの人生も生死の苦悩不安は尽きませんが
どんなことがあっても大丈夫と
南無阿弥陀仏のおはたらきです。
 阿弥陀さまの大きな御手に抱かれて
今日一日も生かされて生きてまいりましょう。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.6.13)


往生浄土のいのちを生きる(仏教壮年会例会)

2022-06-12
「生死の苦海ほとりなし ひさしくしづめるわれらをば
 弥陀弘誓のふねのみぞ のせてかならずわたしける」
(苦しみに満ちた迷いの海は
 どこまでも果てしなく続いている。
 その海に長い間沈んでいるわたしたちを
 阿弥陀仏の本願の船だけが
 必ず乗せて浄土に渡してくださる)

 どなたもおはようございます。
やっと昨日梅雨入り宣言が出て昨日は一日中雨でしたが
今日は一転朝から晴れのお天気です。
 梅雨に入ったからといって
ずっと雨が続くということではありません。
 雨の日もあれば曇りの日も
晴れの日もあるということです。

 こうした天気のあり様を
私たちの人生に重ねてみることがあります。
 曇より晴れの方がいいといい
雨は嫌われます。
 雨の天気は私の思い通りにならない
人生模様をいっているようです。

 お釈迦さまは思い通りにならない人生を
苦なりと生老病死の四苦を説かれます。
 人間に生まれ生きるということは
老いて病んで死んでいくということで
いつまでも若くありたい健康でいたい長生きしたい
私たちの思いとは全く裏腹なことで
まさに生きることがままならないのです。

 ただどんな人も生老病死の四苦を
生きていかねばなりません。
 どんな人生を生きてきても
命終える時が来ます。

 死苦です。
いつどのような形でこの命終えるかわかりません。
 愛別離苦です。
愛する大切な人と別れ離れていかねばなりません。

 私の死です。
命終える時に苦しみがないままに
家族に見守られてすーっと息絶えていきたいと思いますが
私が思い描くようにはとても行きません。

 どのように死んでいくのか。
私の死に方もままなりませんし
大切な人を思い通りに見送ることもできません。

 死は予期できない緊急なことで
家で容態が急変すると病院にお世話になります。
 病院に入院すると
お医者さんの処方にまかせることになります。
 医師は患者の容態に応じて
治療を尽くしてくれます。

 そしてその時が来ます。
臨終の時に間に合わず
最後のお別れもできないままに
命終えていくことにもなります。

 親鸞さまのご往生のようすについて
『御伝鈔』という後々の方が書かれたお書物には
「終に念仏の息たえおはりぬ」とあります。
 臨終におよんで静かに口に念仏を称えていたが
念仏の息が絶えてそのままお浄土参りされたというのです。

 お念仏に生きた親鸞さまのご往生のようすが
そのまま仰がれますが
どういう亡くなり方をされたか
本当のところは分かりません。

 お念仏を喜んで生きた方が
臨終におよんで病気の苦しみの中に
意識を失い南無阿弥陀仏のお念仏のひと声も
申せないままに亡くなっていくのが
大方の私たちの臨終ではないかなと思います。

 お念仏申すことなく命終えたと
そのことを見てお浄土参りできなかったという
ご法義ではありません。

 私がお念仏を申して
その功徳利益で浄土往生が決まるのではないのです。
 お念仏は阿弥陀さまの「必ず救うまかせよ」の
南無阿弥陀仏の一方的なおはたらきです。

 阿弥陀さまのご本願のお心おはたらきを
今こここの私が聞かせていただくままに
この私の浄土往生成仏の仏道は
南無阿弥陀仏のおはたらき一つに決まっているのです。

 生死の苦海とご讃題の御和讃にいただきました。
生死の迷いの苦海に長く沈むこの私を目あてに
阿弥陀さまがご本願の船を用意されて
乗せて必ずお浄土に渡して仏に成らせると
「われにまかせよ必ず救う」とこの船に乗れと
南無阿弥陀仏と喚んでくださっているのです。

 南無阿弥陀仏のおはたらきを聞かせていただき
「おまかせします阿弥陀さま」と
そのままご本願の船に乗せていただけるのです。

 仏教で生死一如といい
生と死は表裏の関係で
生きることは死ぬことだとの教えです。

 私たちは生きることは考えても
死を忌み嫌い死は考えようとも見ようともしません。
 死はこの私のことであり本当のことであって
避けて通ることは誰しもできません。

 最近よく知っている方大変お世話になった有縁の方が
亡くなって逝かれます。
 私とそんなに年齢も変わらない方々で
いよいよわが身のこと待ったなしの問題になりました。

 お念仏のみ教えに遇わせていただく有難さです。
大切なお方とお別れする悲しみのご縁を
そのままお念仏のご縁といただきます。

 声に出してお念仏を申しましょう。
南無阿弥陀仏とお念仏申すところに
「ひとりじゃないよいつも阿弥陀さまがご一緒だよ」と
聞かせていただきます。

 南無阿弥陀仏のおはたらき一つにまかせて
そのまま阿弥陀さまのお浄土に
お参りさせていただけるのです。
 お浄土には先に往かれた懐かしい方々が
待っておられます。

 お念仏のご法義に死というのはありません。
人の命終えていきますが
死んだらお終いではなくて
そのままお浄土に往生し
仏に成らせていただけるのです。

 お浄土といういのちの古里を
阿弥陀さまがこの私のために
用意してくださっていることを
常日頃から聞かせていただきましょう。

 そしてお念仏申しましょう。
お念仏は阿弥陀さまがお浄土から私を喚んでくださる
「われにまかせよ必ず救う」のお喚び声です。

 南無阿弥陀仏のお喚び声に乗じて
私が称えるお念仏の声がそのまま
隣の人にも聞こえます。
 皆さんが南無阿弥陀仏とお念仏を喜び申す姿が
そのまま隣の人に伝わって
私も有縁の方々も同じお浄土に生まれさせていただける
お念仏のお救いのご法義です。

ご一緒に、お念仏申しましょう。
      (2022.6.12、仏教壮年会例会)


嘘が真実になるこわさ(2013年アーカイブ)

2022-06-12
裏戸中庭のお花たち(2022.6.12.16:30)
 「ホームランは野球の華」といわれますが
一昨年プロ野球界で統一ボールを導入し
反発力の少ない飛ばないボールにしたことで
ホームラン数が激減し
昨年も同じようにホームラン数が少なかったのですが
今年は一転して昨年に比べて1.5倍以上に増加して
何かと話題になっていました。

 野球観戦する側からいうと
ホームランは試合の劣勢を一挙に挽回できることで
野球の醍醐味といった面白さがあって楽しみですが
何で今年急にホームラン数が増えたのかについて
統一ボールを発注するプロ野球機構も
統一球をつくる会社も
「去年と全く変わっていない」と言っていましたし
野球解説者は「三年もすると新しいボールに慣れて
打撃技術が進歩したということでしょう」などと
言っていました。

 その統一球が実は今年から
反発力のある飛ぶボールに変わっていたということで
今朝の新聞の一面に大きく載っていました。
 えっと思いました。
やっぱりそうかとも思いました。

 飛ばないボールを使うことでホームランが減り
飛ぶボールに変えたことで
ホームラン数が増えたということです。
 わかりやすい、理解できることです。

 ここで問題なのは
統一球を変えたことを
プロ野球機構が黙っていたということで
発注会社にも口封じしていたといいます。

 開幕から二カ月も過ぎて
実際にそのボールを使い生活をかけて野球をしている
選手会からの説明に応える形で
明らかになったということです。

 「混乱しないように公表しなかった」といいますが
悪いことをしているわけではないのですし
いずれわかる真実を何で隠す必要があったのかと
疑問に思います。
 それも当事者の選手も球団も知らなかったというから
何とも滑稽です。

 こんな嘘が真実としてまかり通ることの恐さを思います。
誰かが真実を知っていながら隠ぺいし
隠ぺいすることでまた嘘をつくという
嘘の上塗りで、真実そのものが分からなくなり
嘘が真実になってしまうという恐さです。
 そうした嘘に振り回されるのが私たちです。

 こんなことの繰り返しを
これまで何度見てきたことでしょうか。
 「心配するな。大丈夫だ」と
ありもしない事実を自分に都合のいいように
言い並べていくことで
本当のことが誰も見えなくなってしまうのです。

 東日本大震災の福島第一原発事故がそうでした。
今はアベノミクスです。
 株価は急騰し今は乱降下を繰り返しています。
一般庶民に好景気の実感はなく
一日で何兆円というお金が動き
株で儲かった損をしたという声を聞きます。
 まさに嘘で固めたような世相すら思います。

 何が真実かを知らないままに
大きな落とし穴に堕ちていくのでしょうか。
 私は御免こうむります
あなただけどうぞという話ではありません。
 社会の大きな仕組みのなかにしか
生きていけない私たちなのです。
 本当のことを互いに知ることで課題を共有し
共に生きる私たちの社会になるのではないでしょうか。

 私たちの阿弥陀さまの本願念仏のご法義は
私たちに真実なるものをありのままに知らせて
そのまま救うとおはたらきです。

 どこまでも自分中心にしか生きていけない
虚仮不実の凡夫の身の事実を知らせて
救われがたい煩悩具足の身だからこそ
この私を目当てに
「われにまかせよ必ず救う」と
南無阿弥陀仏のお喚び声となってはたらき続ける
智慧と慈悲の阿弥陀仏のお救いのご法義なのです。

 人間界に生まれ共にこの社会に生きる
私たちお互いだからこそ真実を知り
私たち一人一人が「本当に人間に生まれてよかった。
あなたにあえてよかった」と
南無阿弥陀仏とお念仏申す人生を
歩ませていただきたいものです。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2013.6.12)
円光寺
〒870-0108
大分県大分市三佐3丁目15番18号
TEL.097-527-6916
FAX.097-527-6949
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