真実変わらないお念仏を申して生きる
2022-09-12
朝方西の空に満月が残っていました。
9月10日が今年の中秋の名月ということで
その前日から気をつけて夜空を眺めていましたが
南の空にくっきりと満月を三日間見ることができました。
何とも風情のある贅沢です。
月も東から昇り南の方角を移動して西に沈んでいきます。
一瞬たりとも一処にいるのではなく動いているのですが
私たちが住むこの地球もまた動いているのです。
月も満ちて満月となりこれからは欠けていきますが
月そのものが満ち欠けするのではありません。
月を見る私自身も変わって行き
諸行無常の理を思います。
イギリスのエリザベス女王が8日に亡くなりました。
大方の皆さんがびっくりされたのではないでしょうか。
その二日前には新しく誕生した首相に会って
首相任命の務めをする国家元首の元気なお姿が
世界中に発信されてばかりでした。
96歳という超ご高齢のことで
いつ何があってもおかしくないということで
死の縁無量の理です。
女王在位70年の節目の年に当たり
記念行事も多くあったようですが
気品をもって公務にいそしむお姿が偲ばれます。
私のことに重ねて思いますと
私が生まれた1952年に女王に就任されて70年です。
私も70歳の節目の年になります。
96歳というと
私の母と同い年です。
エリザベス女王に替わって
長男のチャールズ皇太子が国王に就任しました。
お寺でいったら住職の継職です。
今は天皇陛下も生前に退位されて
皇位継承ということですが
少し前までは前の方が亡くなって
後を継ぐことが通例でした。
この11月には私も住職を退任して
新院に住職継職いたします。
73歳でチャールズ国王が就任して
これからイギリスの王室も変わって行くことでしょう。
自分に都合の良いことは
いつまでもこのままずっと続けばと思っても
良いことも悪いことも変わって行くなかに
私自身が変わって行かねばならないのです。
変わる楽しみもあるでしょうが
どのように変わるか想像できないこともあって
不安と戸惑いの中に日々生きる私に寄り添ってくださる
真実変わらない南無阿弥陀仏の有難さ尊さです。
今日一日もお念仏を申して
阿弥陀さまが決めてくださった往生浄土の人生を
歩ませていただきます。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.9.12)
「手を合わせ 仏さまを拝むとき 私のツノを 知らされる」(法語カレンダー9月のことば/波北彰真)
2022-09-11
どなたもおはようございます。
今日は仏教壮年会の例会ということで
ようこそお参りいただきました。
今年になって例会の形を
少し変えてもらっています。
今日ちょっと感動したのは
皆さんでお正信偈のお勤めをしてくださったことです。
これまでは「讃仏偈」か「重誓偈」の
短いお勤めでしたが
浄土真宗門徒の日常勤行といえばお正信偈です。
円光寺は前住職の時から
何の法要行事でも
お正信偈をご門徒皆さんご一緒にお勤めし
皆さんのお家のご法事には聖典を持参しお配りして
お参りの皆さんご一緒にお正信偈をお勤めしています。
円光寺だけではありません。
浄土真宗門徒の私たちにとって
お正信偈は一番の宝物なのです。
ただお経はお坊さんがお勤めするもので
お坊さんがお勤めをするから有難いといった
一般的な見方がまだまだ多く残っています。
お正信偈はお内陣向かって左奥の
本願寺八代宗主の蓮如上人が
ご開山親鸞聖人の著書『教行信証』から抜き出され
僧侶門徒の別なくご一緒に阿弥陀さまのお徳を讃嘆し
お勤めをしましょうと始められたものです。
蓮如さまから五百年以上の時空を超えて
お正信偈のお勤めが先人から伝えられてきた有難さです。
人から人へです。
お坊さんからご門徒衆にということだけでなく
皆さんのお家お家の先人が子や孫に
口伝えしてきたことだということです。
蓮如上人当時の私たちのご先祖は
殆ど読み書きはできず
聖典を読んで覚えるのではなく
お念仏の声を聞いて覚えたんですね。
子どもが真っ先に覚えたかもしれません。
人から人へ口から口へと
お念仏の先人が声に出して伝わって
届けてくださったお念仏の生活です。
今日は仏教壮年会のご縁で会長さんが調声をされて
私も一緒にお勤めをさせていただきましたが
皆さんの家庭生活でいいますと
お家のお仏壇はお坊さんだけが座るところではなくて
お家の皆さんも座っていいところなのです。
皆さんがお正信偈のお勤めをしていいのです。
今日お勤めをしながら
私たちは本当に先人のお育てを頂いているのだなと
改めて有難く思いました。
皆さんよく声が出ますね。
大したものです。
どうぞその声がそのまま隣の人に子や孫に
伝わ届けられる阿弥陀さまのおはたらきです。
今月8月の法語カレンダー
「手を合わせ 仏さまを拝むとき 私のツノを 知らされる」
のお語です。
妙好人といいます。
お正信偈の中に
「是人名分陀利華」という言葉がありますが
分陀利華に通じる妙好人の言葉のお心です。
分陀利華は蓮の花のことです。
蓮の花は泥の中に咲きます。
大地の高原には咲きません。
泥の中に咲いても泥にまみれず
清らかな華を咲かせるという
仏さまのおはたらきです。
泥の中とはここ
この私たちが生きている五濁悪世ともいわれる
迷いの世界です。
その迷いの世界にお浄土から
阿弥陀さまの南無阿弥陀仏のおはたらきが届いて
この私の口からお念仏を申す身に
させてくださるというのです。
お念仏を喜び申す妙好人です。
今日ご紹介するのは浅原才市という妙好人です。
1850年生まれで1932年昭和7年にご往生されています。
石見の国の生まれで
石見といったら世界遺産の石見銀山が有名ですが
石州といって石州瓦でも有名です。
今の島根県です。
石見の温泉津で生まれます。
温泉地の港町で昔からお念仏の土德豊かな中に
才市さんは82年のお念仏を喜び申すご生涯を送られます。
才市さんはたくさんのお念仏の法悦の歌を作っています。
お念仏に出遇い生かされる喜びの歌です。
「かぜをひけばせきがでる
わたしゃご法義のかぜひいた お念仏のせきがでるでる」と
歌われています。
風邪をひいたらせきが出ますね。
今のコロナの時代ここでせきをしては大変と
せきをしないようにいくら努めても
せきは出る時には出るのです。
風邪をひいたからです。
ご法義のかぜひいたとは
お念仏のかぜをひいたと
そしたらナンマンダブツナンマンダブツと
お念仏のせきが出る出るというのです。
浅原才市さんについて書かれた
「鬼の寺参り」というタイトルの本があります。
晩年才市さんが有名な絵師に
自分の肖像画を描いてもらったそうです。
絵ができて絵師が絵を届けたそうです。
にこやかな柔和な顔で肩衣をつけて
手にお念珠をかけ合わせて座った姿は
本当にいいお念仏のおじいちゃんの容姿です。
周りの人は「これこそ才市さんの人柄までも
よくうかがわれる絵だ」といってほめますが
その絵を見た才市さん
「これはわしの姿じゃない」といって
その絵師に何と頭に二本のツノを描かせたといいます。
二本のツノが生えた姿はまさに鬼です。
その絵を見た時に才市さん
「これがわしの本当の姿だ」と言って喜んだそうです。
温泉津に行きますと
頭に立派な角が生えた浅原才市さんの銅像があるそうです。
以下『大乗』9月号より
転載させていただきます。
今から70年前、浅原才市さんという人がいました。
画家に二本のツノが生えている
自分の肖像画を描いてもらいました。
ツノは心の姿 むさぼり・腹立ち・おろかさ
他人のツノはよく見えるが
自分のツノには気がつかない。
手を合わせ
仏さまを拝むとき
私のツノが知らされる
この言葉のなかで
ツノを貪り・怒り・愚かさの
三毒の煩悩に例えています。
このツノの例えは
妙好人といわれた
浅原才市さんのエピソードからきています。
才市さんは、自分のこころのなかにある煩悩を鬼に例え
この鬼のすがたが自分の本当のすがたであると
お同行の方々に伝えようとしています。
そして、その鬼のすがたは
お寺にお参りしてお聴聞するなかで気づかされるのだ
と味わっておられます。
阿弥陀さまは
煩悩によって苦しんでいる私のすがたを見抜き
決して見捨ててはおけないと私を救ってくださるのです。
その「私が救われる」という
阿弥陀さまのお慈悲を聞いたとき
救われる煩悩だらけの私のすがたが見えてくるのです。
そして私のすがたがわかったからこそ
よりよい生き方がみえてくるのでしょう。
どうぞお念仏のみ教えを聞かせていただき
お念仏を喜び申す身にさせていただきましょう。
以上
今日もこうして日曜日の朝の一日の初めに
皆さんとご一緒にお念仏を申して
始めさせていただくことを
本当に有難く思います。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.9.11)
目には目を(2009年アーカイブ)
2022-09-11
今日9月11日は8年前にアメリカで
同時多発テロがおこった日です。
それ以来<テロとの戦い>が世界中で叫ばれましたが
テロといって敵が見えない戦争で確かに見えてきたのが
亡くなった方がたくさんいらっしゃるということです。
「目には目を」といいます。
目には目をで報復を繰り返して
憎しみ恨みが解決解消するかというと
解消しないばかりでなく
また憎しみを重ねることになって
憎しみの連鎖です。
最近ちょっと気になっていることですが
裁判員制度が導入されて
一般市民が裁判に関わるようになりました。
この前は山口県で介護に疲れたご主人が
奥さんを刺した殺人未遂の裁判の判決で
懲役刑でしたが執行猶予がつきました。
「これからもしっかり頑張って生きて下さい」と
裁判員の意見書が添えられたといいます。
ただ一方で
殺人暴行といった凶悪犯罪については
検察官のほぼ求刑通りの判決がでています。
これまでは大方検察官の求刑以下の判決でしたが
裁判員制度になって
殆どが検察官の意見そのままの判決になっているようです。
遺族の思いに寄り添った市民感情です。
遺族の感情としては極刑に処してほしいということです。
自分の大切な身内を殺された
犯人も同じように殺して下さい
死刑にしてほしいというのです。
遺族感情がそのまま裁判の判決になると
目には目をということになってしまいかねません。
裁判とは罪を裁き刑に処する罰を与えるということと
もう一つ教育刑といって
これからの生涯をかけて罪を償ってほしいという
更生教育の場にもなるわけです。
目には目をで
人を殺した者は殺してしまえでは
裁判は必要ないわけです。
裁くということは非常に怖いことです。
誰が裁いているのかというと
人が人を裁いているのです。
阿弥陀仏のお救いには条件がないといいます。
すべてのものを分け隔てなく救うと誓われ
南無阿弥陀仏と本願成就されたのです。
阿弥陀さまは私たちを裁きません。
こんな悪いことをしたから救わないとか
こういう善いことをしたから救うとか
その人人によって救ったり
救わなかったりするのではなくて
すべてのものを等しく救う
仏さまに成ってくださったのです。
すべてのものを無条件に救うといって
悪いことを許すのかというと
そうではありません。
悪いことをしたことに
涙を流して悲しまれるのです。
阿弥陀さまの大悲のお心大きな悲しみです。
大悲のお心が南無阿弥陀仏のおはたらきとなって
私のところに来てくださり
いつも寄り添ってくださるのです。
南無阿弥陀仏の大悲のおはたらきのなかに
お念仏申して日暮らしさせていただく私ですが
善いことをしようと思っても
結果的に悪いことをしてしまうこともあります。
縁があれば何をしでかすか分からない
人を殺す傷つけることもあるかもしれません。
そうした危ない私たちが心配で
阿弥陀さまは大悲のお心で
私を包んで支えてくださってあると
聞かせていただくなかに
私にできる精いっぱいのことをさせていただきます。
私が私がと自己中心に生きるのではなく
一人でも多くの方がお念仏のみ教えにつながって
「人間に生れて本当によかった」と
お浄土への人生を共々に歩ませていただく
お手伝いをさせていただきたいものです。
こうしなさいああしなさい
こうだよああだよと
こんなことはしてはいけないよと
他の人に言うのは簡単です。
でも生きていくのはこの私です。
この私をめあてに救わずにはおかないと
すっとお立ちになってくださった阿弥陀さまのおすがたを
今日も拝見させていただいて
また頼もしく有難く思います。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2009.9.11)
南無阿弥陀仏のおはたらきでお念仏がうつします(2009年アーカイブ)
2022-09-10
昨日は水曜学校の子ども会でしたが
子どもがいつもの半分くらいしか
出席していませんでした。
聞きますと
三佐小学校で新型インフルエンザが発生して
5年生の一クラスが学級閉鎖になったとのことでした。
いよいよ新型インフルエンザが三佐に来て
身近なことになったなと思いました。
新型インフルエンザの全国的な大流行で
店に行ってもマスクがないと大騒ぎになり
今は大分落ち着いていましたが
実はこれからが一番危ないということです。
身近なところに新型インフルエンザが流行ってきて
昨日月参りのご縁でご門徒さんとそんな話をしたら
「ご院家さん気を付けてください」と言われました。
そうですね。
お家お家をお参りして回るわけですから
そのお家の方にインフルエンザの菌があるならば
感染するご縁もたくさんあるわけです。
逆に私が菌をもっていたら
お家の方にうつすようなことになるわけです。
私たちのお念仏です。
お念仏のみ教えです
こうして今お朝事のご縁に
この私が御仏前に座って
お念仏を申させていただいたことについて
たくさん多くの方々のご縁つながりを思います。
お念仏をうつしてもらったのです。
お念仏の流行です。
どうぞ皆さんもお念仏を隣の人
有縁の方にうつしてください。
自らお念仏を申させていただくことです。
南無阿弥陀仏のおはたらき一つで
お念仏を申す身にさせていただいて
そのまま子や孫に次の世代の人までも
広くお念仏の声がうつって
お念仏のみ教えが伝わっていくように願いながら
今日もお勤めをさせていただいたことです。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2009.9.10)
月の光の有難さ(2014年アーカイブ)
2022-09-09
今日は本当に寒いなあと思います。
部屋の温度でいいますと
昨日と比べて3度低かったです。
いよいよ秋になったなという感じがしますが
日中はまだまだ暑いです。
昨日の中秋の名月は
雲一つなくくっきりとあでやかに見えました。
今は月の光の有難さを思うことは中々ありませんが
昔の先人の日暮らしを思い浮かべます。
まだ電気のない時代です。
暗い夜の時間に
煌々と輝く月の光のもとで
人々が集まってお茶でも飲みながら
話をしていたのでしょうかね。
夜は真っ暗な中に疲れた体を横たえて
もう眠るしかない夜の営みだったと思います。
今は夜と昼と朝がごっちゃ混ぜになってしまって
自分の都合に合わせた生活ができるようになりました。
ただ体というのは正直で
夜になると眠たくなり
朝陽が上がると目が覚める
これが私たち生身の人間の体のサイクル
自然の生活です。
自然の大きな仕組みのなかに
私たちは生かされているのです。
親鸞聖人が晩年に示された
自然法爾のお心を思います。
阿弥陀如来のお救いは
自力のはからいを捨てて如来の本願にまかせる
南無阿弥陀仏の他力のご法義です。
私たちに救いの条件をつけて
頑張れ頑張れ頑張れというご法義ではありません。
頑張って頑張っても何一つ成果が上がらない
思い通りにならないなかに悶々と迷う私に
そのまま来いとお念仏の声で喚んでくださり
そのまま摂め取って捨てないおはたらきを
自然法爾といただかれたのです。
ふっと夜空を見上げると
十五夜の真ん丸お月さまが冴えていました。
大自然のおはたらきの有難さを思います。
先人も同じようにこの月を見て何を思ったのでしょうか。
そんな思いをめぐらせながら
今こここの私を
お念仏を申して今日一日も生き抜かせていただきます。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2014.9.9)