私に関係ないことは一つもない、みんなつながっているのです
2022-09-07
静岡のこども園で3歳の園児が
通園バスに取り残されて
熱中症で亡くなった事件です。
マスコミ報道によると
幾つものチェックポイントがあったにもかかわらず
園児の所在が確認されないままだったといいます。
本当に悲しいことです。
去年福岡で同じような事件が起こって
全国的に注意喚起していたはずなのに
残念で悔やまれます。
子どもの命を守る務めの大人たち
多くの関係者がいたにもかかわらずです。
誰かがその子のことを少しでも思い気づけば
防げたことだと思います。
誰もが積極的に関わろうとしなかった
不作為の行為がもたらされたものです。
『歎異抄』の有名な
「さるべき業縁のもよほさばいかなるふるまひもすべし」
親鸞さまの仰せを思い起こします。
人を殺そうなどと思う人はいなくても
条件が整えばどのようなことでも
人を千人殺すこともできる私です
という心の叫びです。
その逆で自分の責任範囲の事しかしないという
不作為の行為の結果が重なって起こった事件です。
自分の責任以外の事には関りたくない風潮が
今の私たちの社会にみなぎっているようで
傍で困っている人がいても見て見ぬふりをする
声をかけたり助けようとしない
関係ないを決め込む私です。
私たち人間の織りなすこの社会は
すべてがつながっているというのが
仏教の縁起の道理です。
私の思いに関係なく
好む好まざるにかかわらず
自分の都合に良いことも悪いことも
すべてがつながっているのですが
自分の利害責任の範囲内でしかつながろうとしない
この目で見えることも私には関係ないのです。
「あの人がしてくれると思っていた」
「あの人が業務をしっかり果たしていたら」といって
3歳の幼い子が暑い車の中に閉じ込められて
空になった水筒を残して死んでいったという事実です。
通園バスには子どもたちが喜ぶような絵が
車全体に書かれていました。
外から内の様子を伺うことは
容易ではないように思います。
「私には関係ない」と決め込む私が
逆の立場に立ったらどうでしょう。
それも自分でどうすることもできない子どもです。
ただただ悲しいですね。
お念仏のみ教えを聞く者として
その場に居合わせたら
何ができるでしょうか。
私にできることをさせていただいて
その行為が逆に波紋を広げて
私に火の粉がとびかかることになろうとも
後から後悔するようなことではなく
お念仏を申して仏さまの仰せを聞いて
今私にできることを
精いっぱいさせていただきたいものです。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.9.7)
お念仏のご縁につながるお葬儀のお勤めです(2013年アーカイブ)
2022-09-06
昨日お葬式がありました。
このお寺円光寺の古くからの習わしで
火葬場から直ぐお寺にお遺骨を持たれて
お礼参のお参りをしていただきます。
還骨といいます。
お遺骨をなって還るということですが
懐かしいお家に帰る前に
お寺の阿弥陀さまのもとに
還られてお勤めをさせていただきます。
円光寺の場合ですが
お遺骨をご本尊の阿弥陀如来の御尊像の
近くにご安置しお勤めをし
お参りされた方にお焼香をしていただきます。
お勤めの後で「ようこそお勤めでした」
「ありがとうございました」ということで
一連のお葬儀のお勤めが終わるのです。
臨終からお通夜お葬式そして還骨と
何度も何度もお勤めのご縁をいただきます。
それぞれお勤めの意味がありますが
すべてのお勤めが阿弥陀如来のご本尊を中心に
執り行われることが肝心要で
お念仏のご縁につながる安心感があるのです。
人の命終わって
大切な人とお別れする悲しみのご縁ですが
そのままご本尊の阿弥陀如来さまの
ご縁をいただきます。
お葬儀の仏事は一応終了しますが
これからも仏さまのご縁は続きます。
死んだらお終いではありません。
南無阿弥陀仏のおはたらきで
先にお浄土に往かれたお方は仏さまとなって
後に遺った私たちに
お念仏のご縁をつくってくださるのです。
四十九日間の中陰に七日七日のご縁、満中陰があり
百日日、初盆、一周忌とお念仏のご縁が続きます。
すべての仏事をご本尊の阿弥陀さまを中心に
お勤めさせていただきます。
日々の生活の中に大切な人がいなくなり
後に遺ったご遺族有縁の方々には
いろんな思いが残っているかと思います。
故人の生前を振り返って
ああすればよかったこうすればよかった
ああもしたかったこうもしたかったという
後悔の思いもあって
時間が止まっているようなこともあるでしょう。
そうしたさまざまな思いを抱えて
お念仏のご縁をお勤めさせていただきます。
悲しいご縁ですが
この身そのまま引き受けてくださる
仏さまがいらっしゃることを聞かせていただきます。
「まかせよ救う」の阿弥陀如来さまです。
「まかせよ救う」の南無阿弥陀仏のおはたらきです。
お葬儀のご縁にお念仏のみ教えを聞かせていただき
お念仏のおはたらき一つにまかせて
大切なお方の仏さまと出遇っていけるご縁です。
今は葬儀も簡単に済ませて
後のお勤めもしないお家が増えてきましたが
先に往かれた方も後に遺った私たちも
同じ阿弥陀さまのお浄土に生まれさせていただける
南無阿弥陀仏のご法義につながって
共々に生かされて生きるご縁になるのです。
「ようこそお勤めなさいました」
「ありがとうございました」と声をかけ合うなかに
悲しいご縁ですがそのまま仏さまのご縁といただける
有難さをまた心強く思います。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2013.9.6)
納骨の仏さまのご縁です
2022-09-05
昨日満中陰のご縁で納骨に参りました。
ちょっと遠方の墓地で車で行きましたが
お家を出て直ぐ大雨になりました。
傘を持ってなくて納骨はどうなるのかと心配しましたが
その内に雨が止んで納骨の時には逆に陽が差して
暑いぐらいになりました。
施主のお父さんのご縁で
10数年前に亡くなったお母さんのお遺骨が
お墓の中にご安置されているのですが
施主の息子さんで孫の方が
お遺骨をお墓に納めました。
施主の方が「母ちゃんの右側に置けよ」と言います。
すると息子さんが戸惑って
「母ちゃんの右って向かって右かそのままの右か」と
言い返します。
なるほど見方によっては
正反対で違いますね。
結局は施主の方が確認して
「それでいい」となりました。
お父さんがお墓を建てて30年ほどになります。
そして初めて入ったのがお母さんです。
お母さんの納骨の時に
お父さんが「母ちゃんの右に置いておくれ」と
子どもたちに言ったんでしょうね。
皆さん「父ちゃんの遺言通りにできてよかった」と
安心したようでした。
最近墓じまいをするお家が多くあります。
それぞれのお家のご事情があることです。
そして新しくお墓を建立するお家が少なくなり
納骨堂を求める傾向にあります。
お家のお墓ではなく合葬墓に納骨される
形態も増えてきました。
散骨ということも行われています。
お墓って何だろうと思います。
この命終えて火葬され遺骨となって納められる所ですが
後に遺った有縁の人にとっては
先に往かれた大切なお方を偲んで
手を合わせる所なのです。
お墓にお参りすると手が合いますよね。
大切な方が手を合わさせてくださっているのです。
お墓の中のお遺骨ですが
お父さんお母さんの仏さまのお姿です。
死んだらお終いではなくて
仏さまに成ってくださって
これまでもそしてこれからもずっと
この私を護り救うとおはたらきくださっていると
聞かせていただくなかに
手が合わさって南無阿弥陀仏とお念仏が
私の口から出てくださるのです。
先に往かれた仏さまの南無阿弥陀仏のおはたらきです。
今日もこうしてお朝事のご縁に
阿弥陀さまの御仏前に座らせてくださり
お念仏申す身にお育ていただいたことです。
納骨のご縁での何気ないご家族の会話に
ほっとさせられました。
ご家族皆さんがお元気だった頃の
お家の雰囲気が伺えるようで
よかったです。
人の命終えて大切なお方とお別れする
悲しみのご縁ですが
死んだらお終いではなく
ずっとずっとこれからも
南無阿弥陀仏の大きないのちのつながりのなかに
共々に生かされて生きて往く
仏さまのご縁の有難さ尊さを思います。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.9.5)
仏さまのチルドレン(2009年アーカイブ)
2022-09-04
先日の総選挙で民主党が一挙に衆議院議員を308人とし
政権交代を成し遂げました。
308人の中には新人議員が多く
前回の小泉さんの郵政選挙の時もそうでしたが
比例区で名簿記載され
国政にこれまで全く携わったことのない方まで
当選したことが昨日のテレビで紹介されていました。
それこそ私たちと同じ一般人が
突然国会議員として重い職責を担うことになるのです。
4年前の郵政選挙で当選した自民党の候補者が
今回軒並み落選しました。
この前は小泉チルドレンで
今回は小沢チルドレンと言われます。
チルドレンとは子どもたちということで
小泉さんの息がかかった
そして小沢さんの息がかかった人とでも
いうのでしょうか。
私たちは仏さまのチルドレン
仏の子どもたちです。
どこが決定的に違うのかというと
小泉さんであっても小沢さんであっても
議員在任中は親と子どもの関係で
私がいるから安心して何でも相談に来なさい
とでもいうのでしょうか。
私たちの世間の人間関係は付いたり離れたりで
選挙のことでいうと
それこそ落選してしまえば
もう関係ないよと言えるのが
世間のことのようです。
自分の都合で付いたり離れたりの世間に生きて
苦悩し迷う私たちに
仏さまは「あなたは私の子どもだから
いつも私が一緒だから安心しなさい大丈夫」と
ずーっと私に寄り添ってくださるのです。
仏さまと私の親子の関係は
生きている間も命終えてもずっと一緒なのです。
南無阿弥陀仏の大きないのちのつながりのなかに
私たちは共々に日々今日の一日も安心して
生き抜かせていただくことができるのです。
仏の子どもです。
お念仏のおはたらきで仏の子どもに
成らせていただきました。
親さまがいつでもどこでもご一緒です。
南無阿弥陀仏の親さまです。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2009.9.4)
年賀はがきののぼり(2009年アーカイブ)
2022-09-03
昨日大分の町中のお参りをしていましたら
大分中央郵便局の前に<年賀はがき>と書いた
のぼりが何本も立っていました。
えっまだ9月なのに
何で今年賀はがきかと思いました。
何か先へ先へと急かされる
慌ただしさ忙しなさを思います。
何ででしょうかね。
確かに9月になって
今年もあと4カ月になりました。
あっという間に新年を迎えます。
日々の移ろいです。
まさにあっという間ですが
ゆっくり時間を楽しむ過ごさせていただくことが
本当に難しくなりました。
先から先へとセールスを仕掛ける
お商売といえばお商売なんですけれども
その中で私たちは今を生きています。
明日を生きているわけではありません。
明日という日があるかどうか
これ自体おぼつかないし分かりません。
この命いつか必ず終えていきますが
一番確かなことは今を生きているということです。
阿弥陀さまのお念仏の救いの法に聞かせていただくと
南無阿弥陀仏のおはたらきで
命終わるその時そのまま阿弥陀仏のお浄土に
往生させていただけるというのです。
私たちの生まれ往くところは
阿弥陀さまが「必ず救うまかせよ」と決めてくださった
お浄土なのだと聞かせていただきます。
帰る家がある安心です。
人の命終えて生まれ往くお浄土があることに安心して
私たちはお念仏申しつつ
今日一日を生き抜かせていただけるのです。
明日がある明日があるといって
明日を生きるわけではありません。
今度はお正月だよ
今度はひな祭りだよ
今度はお節句だよと
何か急かされるように日々が過ぎ行きますが
今日一日を本当に人間に生れてよかった
私は私でよかったと生き抜かせていただける
お念仏のみ教えに遇わせていただいた
有難さを思います。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2009.9.3)