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お念仏を申す生活法話

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南無阿弥陀仏の声の仏さまとなってご一緒です(2013年アーカイブ)

2022-10-15
 昨日まで三連休で
今日からまた普段の生活に戻るということです。

 今朝は新聞がありませんでした。
月に一度新聞の休刊日がありますが
新聞がないと何かいつもと違った感じがします。

 日々の生活のなかで
私たちが当たり前と思っていることが
実は有難いことだと気づくことが中々ありません。

 特に大切な方とお別れをするなかで
今まで当り前のように声をかけ合い一緒に食事をし
当り前に生活をしていた連れ合いがいなくなると
日々いよいよ悲しみが増してくるといいます。

 お葬式が済んで49日間の中陰の間に
七日七日のご縁があって
親族の方が参って来られおもてなしの心配もあって
色んな話をすることで気がまぎれると言われます。

 四十九日が終わり満中陰のご縁で納骨し
いよいよ日常の元の生活に戻るということですが
大切な人がいなくなったという現実です。

 言葉をかけ合う人がいない
一緒に食事をする人がいない
日々の生活をするなかに
ぽっかり大きな穴が開いたような
焦燥感に襲われるといいます。

 悲しみのご縁ですが
そのまま仏さまのご縁といただける有難さです。

 仏さまのご縁をいただいて
この目には見えなくなったけれども
お浄土の仏さまと成って南無阿弥陀仏のおはたらきで
私のところに還って来て
私と共に生きてくださってあると
聞かせていただきます。

 日々の生活で当たり前のようにできていたことが
できなくなったことを実感するとき
涙にくれることもあるでしょうが
ナモアミダブツと声に出してお念仏申しましょう。

 南無阿弥陀仏の声の仏さまとなって
いつでもどんなときでも
先に往かれた大切なお方が
ご一緒してくださっていると
聞かせていただきます。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2013.10.15)


一番短いお勤めは?

2022-10-14
 お経はお釈迦さまが説かれた教えで
私たちが目にする経典は
中国の言葉に漢訳されたものです。

 お経にはご利益があると
お坊さんに読経してもらい
短いお経より長いお経の方がご利益があると
何となく思っている人がいませんか。

 読経するお坊さんとご一緒して
心を整え正座してお坊さんのお経を聞くのですが
お経が長いと足が段々としびれて我慢も限界になり
早く終わらないかなと思うようなことでは
もったいないことです。

 そんな時間があったら
読経は専門のお坊さんにまかせて
自分は他の用事をしたいという私の魂胆が
どこかに見え隠れして
ご利益云々の話ではなくなります。

 私たち浄土真宗門徒の日常勤行は
「正信念仏偈」です。
 正信偈は浄土真宗のご開山親鸞聖人が書かれたもので
厳密にいうとお釈迦さまが説かれたお経ではありません。

  親鸞さまが南無阿弥陀仏のお心を
お釈迦さまのお説法からいただかれて
阿弥陀仏の本願念仏のお救いの法が
インドから中国日本に七人の高僧方によって
伝えられてきた歴史までも簡略にまとめてくださった
お念仏に生きる喜びのうたです。

 お正信偈はお釈迦さまのお経さま以上に
私たちにとって身近なお勤めで
本願寺八代目の蓮如さまが
朝夕の勤行にと制定されたものなのです。

 お正信偈は840字でそんなに長くないお勤めですが
長いと感じる方もいらっしゃるようで
「他に短いお勤めはありませんか?」と尋ねられます。

 一般的に皆さんが読まれるお経といえば
「般若心経」ですね。
 宗派を問わず地域の仏さまのご縁
弘法大師のおせったいの仏事にも
般若心経をあげる話はよく聞きます。

 般若心経は文字数が262字で
お正信偈の1/3未満です。
 短くて仏教のお心が全て集約されていると言われ
読みやすいのでしょう。

 ご門徒さんのお家のお仏壇にも
「般若心経」のお経本を置いているところがあります。

 昨日お参りしたお家の方も
「亡くなった親父はご院家とは正信偈をあげていたが
いつもは毎日般若心経をあげていた」と明かします。

 般若心経をあげて悪いということではありません。
少しでも仏教にお仏壇にご縁ができればと思いますが
せっかくお勤めするのでしたら
お正信偈をお勧めしましょうとお勧めします。

 迷いの凡夫の私がそのまま
阿弥陀さまのお浄土に往き生まれる手立てが
南無阿弥陀仏一つに仕上げられていると
聞かせていただきます。

 お経のお勤めが長い短いなどと話していたら
お家の施主がひょこっと
「南無阿弥陀仏が一番短いお勤めでしょう」と言われて
そうでした。

 南無阿弥陀仏のおはたらき一つで救われるという
私たちの浄土真宗のご法義です。
 南無阿弥陀仏のお念仏一つでいいのです。
いつでもどこでもどんな人も称えることができる
南無阿弥陀仏のお名号となって
阿弥陀さまがいつも私たちとご一緒なのです。

 ただお念仏のご縁は
南無阿弥陀仏のお心を聞かせていただくことが肝要です。

 親鸞さまはそのお心を
お正信偈の840文字に込められて
私たちに届けてくださっているのです。

 昨日のお話の続きになります。
このお朝事のお勤めは朝風呂に入るという譬えです。
何とも贅沢なお念仏のご縁です。

 お風呂に入るのに烏の行水といって
忙しい方はお湯にちょこっと浸かって
風呂に入ったというのですが
何かもったいないと思いませんか。

 せっかくお風呂に入るんだったら
少し時間をかけてゆっくりゆったりお湯に身をまかせて
「極楽極楽」としばし世間のことを忘れて
身も心も楽しむように
お朝事のご縁にお正信偈さまのお勤めを
ご一緒させていただいて
今日の一日も始めさせていただきましょう。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.10.14)


今日もお寺の朝風呂から始めましょう

2022-10-13
 昨日はお休みをいただいて
久住高原にドライブに行きました。

 よく行くコースですが
帰りに久しぶりに長湯温泉のお風呂に入りました。

 大きな温泉施設で大きなお風呂があります。
一人の方が入っておられてふと見ると
その人もこっちを見ていて
知り合いの人でした。

 久しぶりですねということで
「黙浴」の注意書きを気にしつつ
ついつい近況をお話したことです。

 竹田の方で30分ほど車を運転して
たまに来られるそうです。
 80歳を超えたご高齢で
40年来の旧知の大変お世話になった
お寺の総代も務めている方です。

 「こんな所で会うなんてご縁がありますね」
とのお互いの心境です。
 こんな所って
風呂場です。

 最近読んだ本願寺新報(令和4年10月10日号)の
ご法話を思い出しました。

<以下、抜粋転載です>
 親鸞聖人は「極楽」とは阿弥陀さまの安楽浄土
苦しみの混じらない世界とお示しくださいました。
 その意味で極楽のイメージは
銭湯に入浴することと
似ているところがあるのではないでしょうか。
 まとうものを脱ぎ、持ち合わせるものは何もなく
濁世から離れるつかの間の時間
日常の汚れを落として感じるぬくもりという部分で
共通するようにも私は思いました。
                 <以上、金澤 豊 師『極楽を味わう』>

 銭湯は皆さんのお家のお風呂もそうですが
裸一つ手ぶらで入ります。

 裸一つで何も身につけないでと
入浴料は要りますが
世間の地位や名誉財産の有無そうしたものは
一切必要ない世界です。

 銭湯温泉は入浴する人を選びません。
だからどんな人が入っているか分からないし
知っている人も入っているということです。

 体を洗って汚れを落とします。
世間の苦しみ悩みを除く除いてくださるという
お浄土のおはたらきに通じます。

 すっきり体を洗って
湯船につかり温かいぬくもりのなかに
「極楽極楽」とつい口から出そうです。

 いい湯加減の温泉にゆっくり身を沈め
極楽の世界阿弥陀さまのお浄土を思います。
 一切の苦を除いてくれて旧知の人と会える世界です。
どんな人も受け入れてくれる
どんな人も入っていいのです。

 阿弥陀さまのお浄土は人を選びません。
選ばない以上にすべてのものを必ず救うと
南無阿弥陀仏のおはたらきでお浄土に
「ようこそ引き受けた」と迎え取ってくださるのです。

 ただこの世の事は
いつまでもお湯に浸かってばかりにはいきません。
 現実のお風呂に入る時間は限られています。
それ以外の時間普段の生活は
楽しいことばかりではありません。
 苦しみ煩いよろづの楽しみが常ならない
世界に生きる私たちです。

 温泉から出たら
また世間の生活に戻ります。
 ああやこうやと色んなことが
私のこの身に駆け巡ってまいります。

 お寺参りはお浄土参りの習いです。
今日もこうしてお寺の朝風呂に入りに来られましたね。
 いい湯加減のお寺の朝風呂にご一緒して
極楽極楽ナマンダブナマンダブと
お念仏が出てくださいました。

 ままならない生活をしている私たちを見抜かれて
阿弥陀さまが必ず救うと用意してくださっている
お寺の南無阿弥陀仏のご縁です。

 お念仏を申す生活を
お寺の朝風呂から今日も始めさせていただきましょう。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.10.13)


小さな独裁者

2022-10-12
 ロシアウクライナ情勢が
また緊迫してきました。

 クリミア橋爆破に端を発して
ロシアのプーチン大統領がウクライナの全土攻撃を命令し
ミサイル攻撃がなされて多くの死傷者がでたといいます。

 今この時間同じ地球上で起こっている
人と人とが公然と殺し合う残酷な戦争です。
 8カ月も経とうとしているなかで
解決の糸口さえ見えず
何かどうにもできないやりきれなさに焦燥します。

 独裁者プーチンの戦争と言われます。
独裁者と聞いて
世界の喜劇王チャールズチャプリンが
監督主演した同名の映画『独裁者』を思い出します。

 当時第二次世界大戦の最中
ドイツの独裁者ヒトラーに重ねて痛烈に非難した
戦争批判の内容です。

 独裁者とは独り自分の意のまま為すがままに
政治経済全般を自らの手中におさめ
一国を統治し戦争もすべてのことを
自分の思い通りにする者です。

 欧米の首脳はロシアのウクライナ侵攻を
独裁者プーチンの戦争と言ってはばかりません。

 独裁者は一夜にして
独裁者になったのではありません。
 日頃です。
日頃の積み重ねといいますか
独裁者になるべく色んな権力を
一つ一つ手に入れて行ったのです。

 独裁者は周りの意見を一切聞きませんし
周りの者は独裁者の顔色を伺いながら
何も言わずに従うだけです。

 独裁者に歯向かうことは
自らの身の破滅を意味します。

 今回のウクライナ侵攻は
プーチン大統領の当初の思惑から大きく外れ
思い通りに進まない展開に
周りの目が日増しに厳しくなっていると言われます。

 内部の強硬な意見にプーチンさんが追い込まれて
核兵器の使用も現実味をおびてきたとの観測もあり
予断を許しません。

 ウクライナの反転攻勢で戦争が終わると
世界中から非難の嵐で
プーチンさんの命そのものが
危ないということかも知れません。

 しんどいですね。
本当にしんどいことです。
 自分の思いで始めたことが
思いとはどんどん違うところに追い込まれて
身動きできなくなるということです。

 独裁者といって
すべてが自分の思いのままになることなんて
到底考えられないことであり
逆に追い込まれて
二進も三進も行かなくなるということです。

 仏さまの教えに
私たちも一人一人が
小さな独裁者だと聞かせていただきます。

 自分の思いはからいで
自分の思い通りになれば良かったと喜び
少しでも思い通りにならなければ
周りを妬み羨み憎む私です。

 大きな権力をもっている人もいますが
殆どは小さな権力しか持ち得ず
大きな権力に振り回されては
愚痴をこぼしつつ生きている私です。

 そういう私を阿弥陀さまは見て取って
「必ず救う」と本願を建てられ
南無阿弥陀仏の名号になって
「我にまかせよ」とおはたらきです。

 阿弥陀仏の本願念仏のお救いは
念仏を申して自分の意のまま思い通りになる
自分の思ったようなご利益があるという
教えではありません。

 お念仏を申しても
この身は「欲は多く、怒り・うらやみ・ねたむ心も
やむことなく湧いて
いのちの終わるときまで、とどまらず・消えず・たえぬ」
煩悩具足の凡夫の身に変わりません。

 阿弥陀さまは無量光明土のお浄土から
南無阿弥陀仏のおはたらきで私のところに来てくださり
智慧の光明のはたらきで凡夫の身と知らされ
そのまま慈悲の光明の中に摂め取られるのです。

 お念仏を申して偉くなるのではありません。
善いことをして救われるのではありません。

 南無阿弥陀仏のおはたらきで凡夫の身と知らされ
この人生を生き抜かせていただくなかに
今私にできる精いっぱいのことをさせていただける道が
お浄土から開かれているのです。

 お念仏のみ教えを愈々わが身のことと聞かせていただき
今日一日もお念仏申して共々に
生かされて生きてまいりましょう。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.10.12)


「やり直すことができない人生も見直すことはできる」

2022-10-11
 「やり直すことができない人生も
見直すことはできる」という言葉があります。

 確かに過去のことはやり直すことはできません。
人の世に生まれて生きてきて
いろんなことがあって今の私です。

 「見直すことはできる」って
どういうことでしょうか。
 私が見直すというように聞こえますが
私の見方で見直す私の人生は
どこまでもやり直すことができない
過去に返ってしまいます。

 何であの時あんなことを言ったのかしたのか
あんなことがなかったら今の私じゃなかったのになどと
自己中心のものの見方で見ては
悔んで泣いて悩み苦しんで
堂々巡りの迷いの繰り返しです。

 見直すとは仏さまのものの見方で
見直させていただくことだといただきます。

 仏さまの見方と私の見方は
正反対と言っていいほど違います。

 私の見方はどこまでも自分を中心にした見方で
自分の都合に合わせて物事を見ては
自分の都合に合ったら善いことで
自分の都合に合わなかったら悪いことなのです。
 そういう善悪の見方で見ていくと
私の人生は最終的に悪い人生で終わります。

 では仏さまの見方はというと
善悪を超えた真実ありのままの見方です。
 自分の都合にとらわれない
善悪に執着しないものの見方です。

 仏さまの真実まことのものの見方で
善いことも悪いこともあったけれども
この人生本当によかったと
見直させていただけるのです。

 ただ縁にふれてどこまでも
過去にとらわれる私がいます。
 私の思いはからいで生きてる
今の私です。
 これからやり直そうと思っても
自信がなく呆然と立ち尽くす私です。

 そんな私を見て取って
阿弥陀さまは今の私をそのまま引き受けた大丈夫と
「まかせよ救う」の南無阿弥陀仏のおはたらきで
いつでもどこでもご一緒くださっているのです。

 そのままの救いです。
お念仏申して南無阿弥陀仏のおはたらきにまかせて
今日の一日もご一緒させていただきましょう。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.10.11)


円光寺
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