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お念仏を申す生活法話

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南無阿弥陀仏のおはたらきでお念仏がうつします(2009年アーカイブ)

2022-09-10
 昨日は水曜学校の子ども会でしたが
子どもがいつもの半分くらいしか
出席していませんでした。

 聞きますと
三佐小学校で新型インフルエンザが発生して
5年生の一クラスが学級閉鎖になったとのことでした。

 いよいよ新型インフルエンザが三佐に来て
身近なことになったなと思いました。

 新型インフルエンザの全国的な大流行で
店に行ってもマスクがないと大騒ぎになり
今は大分落ち着いていましたが
実はこれからが一番危ないということです。

 身近なところに新型インフルエンザが流行ってきて
昨日月参りのご縁でご門徒さんとそんな話をしたら
「ご院家さん気を付けてください」と言われました。

 そうですね。
お家お家をお参りして回るわけですから
そのお家の方にインフルエンザの菌があるならば
感染するご縁もたくさんあるわけです。
 逆に私が菌をもっていたら
お家の方にうつすようなことになるわけです。

 私たちのお念仏です。
お念仏のみ教えです

 こうして今お朝事のご縁に
この私が御仏前に座って
お念仏を申させていただいたことについて
たくさん多くの方々のご縁つながりを思います。

 お念仏をうつしてもらったのです。
お念仏の流行です。

 どうぞ皆さんもお念仏を隣の人
有縁の方にうつしてください。

 自らお念仏を申させていただくことです。
南無阿弥陀仏のおはたらき一つで
お念仏を申す身にさせていただいて
そのまま子や孫に次の世代の人までも
広くお念仏の声がうつって
お念仏のみ教えが伝わっていくように願いながら
今日もお勤めをさせていただいたことです。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2009.9.10)


月の光の有難さ(2014年アーカイブ)

2022-09-09
 今日は本当に寒いなあと思います。
部屋の温度でいいますと
昨日と比べて3度低かったです。
 いよいよ秋になったなという感じがしますが
日中はまだまだ暑いです。

 昨日の中秋の名月は
雲一つなくくっきりとあでやかに見えました。

 今は月の光の有難さを思うことは中々ありませんが
昔の先人の日暮らしを思い浮かべます。
 まだ電気のない時代です。
暗い夜の時間に
煌々と輝く月の光のもとで
人々が集まってお茶でも飲みながら
話をしていたのでしょうかね。

 夜は真っ暗な中に疲れた体を横たえて
もう眠るしかない夜の営みだったと思います。

 今は夜と昼と朝がごっちゃ混ぜになってしまって
自分の都合に合わせた生活ができるようになりました。

 ただ体というのは正直で
夜になると眠たくなり
朝陽が上がると目が覚める
これが私たち生身の人間の体のサイクル
自然の生活です。

 自然の大きな仕組みのなかに
私たちは生かされているのです。

 親鸞聖人が晩年に示された
自然法爾のお心を思います。

 阿弥陀如来のお救いは
自力のはからいを捨てて如来の本願にまかせる
南無阿弥陀仏の他力のご法義です。

 私たちに救いの条件をつけて
頑張れ頑張れ頑張れというご法義ではありません。
 頑張って頑張っても何一つ成果が上がらない
思い通りにならないなかに悶々と迷う私に
そのまま来いとお念仏の声で喚んでくださり
そのまま摂め取って捨てないおはたらきを
自然法爾といただかれたのです。

 ふっと夜空を見上げると
十五夜の真ん丸お月さまが冴えていました。
 大自然のおはたらきの有難さを思います。
先人も同じようにこの月を見て何を思ったのでしょうか。

 そんな思いをめぐらせながら
今こここの私を
お念仏を申して今日一日も生き抜かせていただきます。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2014.9.9)

データ初期化で思うこと

2022-09-08
 朝が大分涼しくなりました。
空には秋の雲がたなびいています。
 秋の訪れの気配ですが
日中はまだまだ暑いですね。

 お朝事のお話を毎回録音し文字化して
ホームページに上げていますが
昨日録音機の調子がおかしくなって
あちこちいじっていたら初期化してしまって
今までのデータが全て消去されてしまいました。

 日々のお朝事のお話はその都度文字化していますが
お寺の法要のご法話などもこの中に入れており
何年も前のものも全てなくなってしまったのです。

 いつか文字化しようと思って
データをそのままにしていたものですが
大変ショックなことだと思いきや
割とすんなり現実を受け入れることができました。

 データをただ取っておくことで
文字化する大変な作業を先送りにして
私自身が安心していただけのことでした。

 昔の色んな資料を大事に持って置くことが
私にはたくさんいっぱいあります。
 周りの者から見るとまさにゴミです。
いつか整理しようといつも思うのですが
整理しないまま今になってしまい
このまま命終わっていくことにもなります。

 後に遺った人には大変迷惑な話であり
ちゃんと生前に整理しておいてほしい
まさにゴミです。

 お内陣の向かって右余間に
お遺骨を置いています。
 墓じまいをされた方で
壺に入った二つのお遺骨は納骨堂に納めます。
 他のさらしに包んだお遺骨は
合同墓に納めさせていただきます。

 このお遺骨も傍から見ればゴミですが
そのお家のご縁の方にとっては
大事な大事なお遺骨です。

 私たちもいずれ命終えて遺骨になりますが
遺骨になって何が残るかということです。
 命終えていくときに
何を持っていくかということです。

 この世間の営みの中で大事にしてきた
家族ですか財産ですか名誉ですか。
 命終えてあれもこれも持っていきたいと思っても
この世のものは全て持っていくことはできず
この世に置いていかねばなりません。

 お念仏のご法義を聞かせていただくと
南無阿弥陀仏一つもって往けるというのです。
 南無阿弥陀仏のおはたらきで
私たちをこの身このまま
お浄土に持って往ってくださるのです。

 今日お遺骨の関係者がお参りされて
お勤めをさせていただきます。
 残りますね。
南無阿弥陀仏ですよ。
 私の口から出てくださる南無阿弥陀仏を
私たちに遺してくださるのです。
 これからもずっとです。

 南無阿弥陀仏のおはたらき一つの
お念仏のお救いのご法義です。
 南無阿弥陀仏一つでいいのですが
私の思いはからいはあれもこれもと
次から次に湧き出てきます。

 煩悩具足といわれる
重い重い私の思いはからいです。
 煩悩いっぱいの私をそのまま引き受けてくださる
阿弥陀さまの本願念仏のご法義です。

 南無阿弥陀仏とお念仏を申して
今日の一日も生かされて生きてまいりましょう。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.9.8)


私に関係ないことは一つもない、みんなつながっているのです

2022-09-07
 静岡のこども園で3歳の園児が
通園バスに取り残されて
熱中症で亡くなった事件です。

 マスコミ報道によると
幾つものチェックポイントがあったにもかかわらず
園児の所在が確認されないままだったといいます。

 本当に悲しいことです。
去年福岡で同じような事件が起こって
全国的に注意喚起していたはずなのに
残念で悔やまれます。

 子どもの命を守る務めの大人たち
多くの関係者がいたにもかかわらずです。
 誰かがその子のことを少しでも思い気づけば
防げたことだと思います。

 誰もが積極的に関わろうとしなかった
不作為の行為がもたらされたものです。
 
 『歎異抄』の有名な
「さるべき業縁のもよほさばいかなるふるまひもすべし」
親鸞さまの仰せを思い起こします。

 人を殺そうなどと思う人はいなくても
条件が整えばどのようなことでも
人を千人殺すこともできる私です
という心の叫びです。

 その逆で自分の責任範囲の事しかしないという
不作為の行為の結果が重なって起こった事件です。

 自分の責任以外の事には関りたくない風潮が
今の私たちの社会にみなぎっているようで
傍で困っている人がいても見て見ぬふりをする
声をかけたり助けようとしない
関係ないを決め込む私です。

 私たち人間の織りなすこの社会は
すべてがつながっているというのが
仏教の縁起の道理です。

 私の思いに関係なく
好む好まざるにかかわらず
自分の都合に良いことも悪いことも
すべてがつながっているのですが
自分の利害責任の範囲内でしかつながろうとしない
この目で見えることも私には関係ないのです。

 「あの人がしてくれると思っていた」
「あの人が業務をしっかり果たしていたら」といって
3歳の幼い子が暑い車の中に閉じ込められて
空になった水筒を残して死んでいったという事実です。

 通園バスには子どもたちが喜ぶような絵が
車全体に書かれていました。
 外から内の様子を伺うことは
容易ではないように思います。

 「私には関係ない」と決め込む私が
逆の立場に立ったらどうでしょう。
 それも自分でどうすることもできない子どもです。
ただただ悲しいですね。

 お念仏のみ教えを聞く者として
その場に居合わせたら
何ができるでしょうか。

 私にできることをさせていただいて
その行為が逆に波紋を広げて
私に火の粉がとびかかることになろうとも
後から後悔するようなことではなく
お念仏を申して仏さまの仰せを聞いて
今私にできることを
精いっぱいさせていただきたいものです。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.9.7)


お念仏のご縁につながるお葬儀のお勤めです(2013年アーカイブ)

2022-09-06
 昨日お葬式がありました。
このお寺円光寺の古くからの習わしで
火葬場から直ぐお寺にお遺骨を持たれて
お礼参のお参りをしていただきます。

 還骨といいます。
お遺骨をなって還るということですが
懐かしいお家に帰る前に
お寺の阿弥陀さまのもとに
還られてお勤めをさせていただきます。

 円光寺の場合ですが
お遺骨をご本尊の阿弥陀如来の御尊像の
近くにご安置しお勤めをし
お参りされた方にお焼香をしていただきます。

 お勤めの後で「ようこそお勤めでした」
「ありがとうございました」ということで
一連のお葬儀のお勤めが終わるのです。

 臨終からお通夜お葬式そして還骨と
何度も何度もお勤めのご縁をいただきます。
 それぞれお勤めの意味がありますが
すべてのお勤めが阿弥陀如来のご本尊を中心に
執り行われることが肝心要で
お念仏のご縁につながる安心感があるのです。

 人の命終わって
大切な人とお別れする悲しみのご縁ですが
そのままご本尊の阿弥陀如来さまの
ご縁をいただきます。

 お葬儀の仏事は一応終了しますが
これからも仏さまのご縁は続きます。

 死んだらお終いではありません。
南無阿弥陀仏のおはたらきで
先にお浄土に往かれたお方は仏さまとなって
後に遺った私たちに
お念仏のご縁をつくってくださるのです。

 四十九日間の中陰に七日七日のご縁、満中陰があり
百日日、初盆、一周忌とお念仏のご縁が続きます。

 すべての仏事をご本尊の阿弥陀さまを中心に
お勤めさせていただきます。

 日々の生活の中に大切な人がいなくなり
後に遺ったご遺族有縁の方々には
いろんな思いが残っているかと思います。

 故人の生前を振り返って
ああすればよかったこうすればよかった
ああもしたかったこうもしたかったという
後悔の思いもあって
時間が止まっているようなこともあるでしょう。

 そうしたさまざまな思いを抱えて
お念仏のご縁をお勤めさせていただきます。
 悲しいご縁ですが
この身そのまま引き受けてくださる
仏さまがいらっしゃることを聞かせていただきます。

 「まかせよ救う」の阿弥陀如来さまです。
「まかせよ救う」の南無阿弥陀仏のおはたらきです。
 お葬儀のご縁にお念仏のみ教えを聞かせていただき
お念仏のおはたらき一つにまかせて
大切なお方の仏さまと出遇っていけるご縁です。

 今は葬儀も簡単に済ませて
後のお勤めもしないお家が増えてきましたが
先に往かれた方も後に遺った私たちも
同じ阿弥陀さまのお浄土に生まれさせていただける
南無阿弥陀仏のご法義につながって
共々に生かされて生きるご縁になるのです。

 「ようこそお勤めなさいました」
「ありがとうございました」と声をかけ合うなかに
悲しいご縁ですがそのまま仏さまのご縁といただける
有難さをまた心強く思います。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2013.9.6)


円光寺
〒870-0108
大分県大分市三佐3丁目15番18号
TEL.097-527-6916
FAX.097-527-6949
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