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お念仏を申す生活法話

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「なんてこった!」

2024-09-20
 大リーグの大谷翔平選手が
51本塁打51盗塁の51‐51達成です。

 前日まで48‐49でした。
あと10試合を残して
大方の人は大リーグ史上初の50‐50は
確実に大丈夫と思っていたでしょうが
今朝実況の試合で
何と6打数6安打10打点2盗塁3打席連続本塁打の
本人が一番びっくりしていると言う大車輪の活躍で
一気に前人未踏の目標に到達しました。

 それも自身初めての
ポストシーズン進出を決める試合で
舞台は去年ワールドベースボールクラシックの決勝戦で
大谷投手が最後三振を奪って
アメリカに勝利した球場ということで
まるで漫画のような驚きの展開です。

 これまでも40‐40の大きな節目は
最終回逆転満塁サヨナラホームランで決めるなど
どんな表現を使っても
人間業とは思えない驚きの連続に
「なんてこった!」とあきれるばかりです。

 英語で「オーマイゴッド!」
(私の神様……とても信じられない)と言われますが
不思議な出来事のようであって
今現実に私たちが目撃している事実です。

 どんなことが起ころうとも
この世の中の事象ものごとは
さまざまな因縁によって生起すると
仏教は縁起の法を説かれます。

 ただ誰もがみんな同じことができるのではなく
その人人の持って生まれた才能もあるでしょうし
目標に向かってたゆまぬ努力を続けた結果であって
ただただ称賛するばかりです。

 大谷選手は
自分一人の力ではなく多くの方々のおかげで
今の自分があるといつもの謙虚なコメントです。

 本当に人間味豊かな誰からも愛される
スーパースターだなといつも感じ入ります。

 「オーマイブッダ!」と置き換えて
仏さまの大きなお慈悲のなかに
私たちはどんな人も共々に
生かされて生きていると
仏法に聞かせていただきます。

 私たちは人それぞれに生活ぶりは違いますが
同じ時代社会に共に生きる者同士です。
 南無阿弥陀仏の大きないのちのつながりのなかに
お念仏申して互いのいのちを尊び敬い支え合って
これからも共々に生かされて生きてまいりましょう。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2024.9.21)

ユルサレテキクシンジテキク

2024-09-19
 先日地元新聞のコラムに「傾聴」について記述があり
興味深く読ませていただきました。

 相手の話にひたすら耳を傾けて聴くということで
自分の思いはからいを極力排除する姿勢が求められ
傾聴に臨む心構えが記されていました。

 自分の世界観とは別の
「相手の世界」に入らせていただくことで
謙虚さを携えて臨むことが必須だとありました。

 「この方はなぜ、今、このお話を
私にしてくれているのだろうか」という自問が
話の聴き方を大きく変えてきたといいます。

 そして傾聴で求めるのは、必ずしも解決だけではなく
その場から逃げ出さず、共に寄り添い共苦してくれる
お互いの存在であることに気づかれたといわれます。

 「聴す」の読み方が「ゆるす」であることを知って
相手に話すことでしばし問題を自分から「放し」
相手がそれを聴くことで
それを「ゆるす」のであるとしたら
人と人との間には、何と豊かな相互回復の働きが
与えられていることだろうかと思う
と結ばれていました。

 「浄土真宗は聴聞に極まる」と言われるように
お念仏の先人は仏法聴聞を大切にし伝えてきました。

 浄土真宗のお寺の特徴に
仏さまをご安置する内陣より外陣の方が広くありますが
より多くの方々にお寺にお参りいただいて
仏法聴聞してほしいとの願いからです。

 ではお聴聞といって何を聞くのでしょうか。
親鸞さまは
「仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし
これを聞といふなり」と示されました。
 阿弥陀さまのご本願のいわれを疑いなく聞き
信心いただいてお念仏申す身にさせていただきます。

 親鸞さまは聴聞という言葉に
「聴」に「ユルサレテキク」
「聞」に「シンジテキク」とご左訓されています。

 そして親鸞さまご在世の頃の辞書には
「聴は往く聞は来る」とあるそうです。

 「聴」はこちらから往って聴くということで
「聞」はこちらに聞こえて来るということです。

 さて「聴」の字を「ユルサレテキク」と
いただかれたお心を
先のコラムに重ねて思います。

 私からお念仏の世界に往って聴くことで
「阿弥陀さまは、なぜご本願を起こされたのか」と
私のことと聴かせていただき
阿弥陀さまが苦悩の衆生の私を救うために
本願をたてられ成就して阿弥陀仏と成られ
いつでもどこでもどんな時でもご一緒くださる
南無阿弥陀仏のおはたらきとなって
私に聞こえて来てお念仏の世界が広がるのです。

 南無阿弥陀仏とお念仏申し
そのまま聞かせていただきましょう。
 お念仏のお心が私の心に届いて信心いただき
この口からお念仏が出てくださいます。
 お念仏申して往生浄土の道を歩ませていただく身に
お育ていただくのです。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2024.9.19)

中秋の名月

2024-09-18
 昨夜は旧暦の8月15日の十五夜中秋の名月で
空高く丸いお月さまが煌々と輝いていました。

 7月から9月が旧暦の秋で8月が中秋だそうですが
今は新暦の9月に入っても各地で猛暑日を記録するなど
日中はまだまだ真夏の様相です。

 夜の時間が長くなって
少し暑さが和らぐなかに
月を愛でて秋の風情を楽しみました。

 太陽は眩しくて直接見ることはできませんが
月の光はいつの時代のどこにいる人にも
等しくやさしく照らしてくださいます。

 平安時代の貴族は戦国時代の武将は
江戸時代の庶民は
どんな思いで月を愛でたのでしょうか。

 親鸞さまが比叡の山で仏道修行されていた頃の心境を
「定水を凝らすといへども識浪しきりに動き
 心月を観ずといへども妄雲なほ覆ふ」
           (存覚上人『嘆徳文』)
(心を一点に集中し安定させるといっても
 ちょうど水面がすぐ波立ってしまうように
 いろいろな想いが浮かんでしまう。
 清浄なる心を観るといっても
 月がすぐに雲に覆われてしまうように
 妄想や妄念に覆われて隠れてしまう)
と伝えられています。

 厳しい学問修行によって自らの心をみがき
仏のさとりを目指された親鸞さまでしたが
励めば励むほど、煩悩がなくなるどころか
見えてきたのは自分の心の醜さであり
悩み苦しまれたといいます。

 比叡の山上から見える静かな琵琶湖の水面や
清明な十五夜の満月に心を寄せて
親鸞さまのご心境を想いはかります。

 今年は今夜が満月だそうです。
自然の大いなる営みのなかに
お念仏申して共々に生かされて生きてまいりましょう。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2024.9.18)

供養ということ

2024-09-17
 年忌法要などのご法事を
亡き人のための追善供養とお勤めされる方が
多いのではありませんか。

 お坊さんにお経を読誦してもらい
その善根を回向することで
先祖の霊を慰め平安を祈るということです。

 法要の期日について
「命日より早くしないといけないのですか?」と
問い合わせがあります。
 遅くなると忘れているのではないかと
霊が不審に思って禍を及ぼし悪いことがあるなどと
周囲から言われるといいます。

 科学的なものの見方が一般的になった現代は
目に見えない霊魂があって云々などという
非科学的なことは信じるに値せずということでしょうか
法要を勤めること自体をスルーするところが
多くなったようにも思います。

 親鸞さまは『歎異抄』第五条で
「親鸞は父母の孝養のためとて
一返にても念仏申したることいまだ候はず」
(親鸞は亡くなられた父母への追善供養のためと思って
お念仏を申したことは一度もありません)
と述べられています。

 お葬儀にはじまるご法事のご縁は
大切な人とお別れする悲しみのご縁ですが
そのまま仏さまのご縁と
浄土真宗のみ教えに聞かせていただきましょう。

 阿弥陀如来の本願念仏のお救いのご法義です。
「まかせよそのまま救う」と
南無阿弥陀仏のおはたらき一つで
大切なお方は人の命終えて
そのまま阿弥陀さまのお浄土に往生し
お念仏の声の仏さまとなって
すぐさまこの世に還って来て
後に遺った有縁の人たちを護り救うという
おはたらきをしてくださってあると
聞かせていただきます。

 先に往かれた仏さまはご法事のご縁で
有縁の皆さんを阿弥陀さまの御仏前に座らせ
お念仏を申し仏法聴聞する身にしてくださるのです。

 ご法事のご縁だけではありません。
いつでもどこでも何があろうとも
阿弥陀さまの大きなお慈悲のなかに
往生浄土の道行きをご一緒してくださるのです。

 今日一日もお念仏申して共々に
生かされて生きてまいりましょう。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2024.9.17)
 




 

今が一番幸せ

2024-09-16
 今日は敬老の日の祝日です。
元々は9月15日が敬老の日でしたが
国のハッピーマンディ政策で
今年は9月16日が敬老の日ということです。

 各地で敬老会が開かれるということですが
敬老の日の始まりについて
先日のテレビ放送で知りました。

 戦後昭和22年に兵庫県のある村で
「としよりの日」が提唱されたことが
起源といわれます。
 終戦直後の社会の混乱期で
日々の生活が苦しかった時代です。
 当時は働き手の20代30代の男性が
戦死したり復員を果たせず
頼ることが多かったお年寄りの楽しみ会を催したところ
大変盛況で村の活性化にもなったことで
発案者の村長自ら他の市町村にも呼びかけて
兵庫県に「としよりの日」が生まれ
1966年に国民の祝日として
「敬老の日」が制定されたということです。

 現在65歳以上の高齢者は3625万人で
全人口の約30%を占め
100歳以上の「百寿者」は95,119人(女性88%)で
超高齢社会が続いていますが
高齢者の4人に1人が就労しており
元気なお年寄りが多いというニュースレポートの中で
101歳の薬剤師と自伝出版された女性二人に
「一番幸せなのは、いつですか?」とインタビューして
二人とも「今が一番幸せ有難い」「今が最高楽しい」と
答えていたのが印象的でした。

 歳を重ねるなかでそれぞれの人生いろんなことがあり
わが身のことでできないことも多くなって
悔しくて悲しい思いをするなかに
過去のことを思い出しては
「あの頃が一番よかった楽しかった」などと
愚痴をこぼすようなことがありますが
「今が一番幸せ」と
今をしっかり生きている姿に感銘します。

 過去のことに色々とらわれ
未来のことを何かと心配しては
ただ時間の過ぎ行くままに
ぼんやり生きているようなところがありませんか。

「年々に わが悲しみは 深くして
いよよはなやぐ いのちなりけり」と
岡本かの子さんの歌です。

 敬老とは老いを敬うということで
敬老の日は
「老人を敬愛し長寿を祝う日」と規定されていますが
仏法は老いを見つめるなかに
老病死のいのちの実相に
向き合うことの意義を説きます。

 私たちはいつまでも若くて健康で長生きしたいと
願って生きていますが
年々に老いて病んで必ず命終えていかねばなりません。

 仏さまは生死(しょうじ)の境界を迷い続け
このたび人間界に生まれた私たちに
今度こそさとりの世界に生まれて来いよと
仏法聴聞を勧めます。 

 お念仏のみ教えを聞いて
南無阿弥陀仏の大きないのちのおはたらきに遇って
お念仏申して老いて往きましょう
お念仏申して病むときには病んで往きましょう
そして命終わるときにお浄土に往生させていただいて
さとりの仏さまに成らせていただきましょう。

 思い通りにならない老病死のわが身に寄り添い
いつでもどこでもどんな時でもご一緒くださる
阿弥陀さまの大きなお慈悲に生かされて
今を生きる有難さ尊さを思います。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2024.9.16)

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円光寺
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