世界で一番恐い動物とは
2022-11-09
今朝梵鐘を撞き終わって西の空を見ると
満月が低くあって煌々と一際輝いていました。
昨夜は全国的にお天気に恵まれて
皆既月食の天体ショーを眺め楽しんだ人が
多かったのではないでしょうか。
皆既月食は太陽の光を地球がさえぎることで
月食と月を食うというように
月が欠けていく現象です。
今は科学の時代で
こうした自然現象を私たちは知っていますが
私たちの先人が生きた
親鸞さまの鎌倉時代や
蓮如さまの室町時代の人たちは
こうした現象をどのように見ていたのでしょうか。
月食はともかく日食です。
昼間太陽が月に隠れて欠けていき
日中なのに急に暗くなるのです。
何か悪いことが起こるのではないかと
不吉な思いを抱き不安で迷う人が
多かったのではないでしょうか。
実際に悪いことが起こったとして
それらの現象と因果関係があるわけではないのですが
当時の人は不吉な悪いことを回避するために
神仏に祈ったりしたのでしょう。
では科学が進歩した今の時代
今までわからなかったことが
科学で解明できるようになって
迷う人がいなくなったかというと
ますます迷っているのです。
科学で解明できないことがまだまだ多い中で
一番解明できないことは何かというと
この私なのです。
アメリカの動物園に
「世界で一番恐い動物」と書かれた檻があるそうです。
その檻を覗くと鏡があって
鏡に映った自分の顔が見えたというお話です。
世界で一番恐い動物こそ
この私と教えてくれるエピソードです。
親鸞さまはわが身を煩悩具足の凡夫といわれましたが
他人事ではないこの私のことです。
縁があれば何をしでかすか分からない
この私です。
私は大丈夫
そんなことは絶対しませんよと言いたいけれども
縁が整えば盗みをしたり人を殺すこともできる
この私だと仏法は教えてくれます。
科学では解明できません。
それもこの私だけのことではなく
人人それぞれがあって
この社会を構成しているのですから
迷いますよね。
阿弥陀さまは南無阿弥陀仏のおはたらきで
迷う私をそのまま救う
仏さまに成ってくださったのです。
「この道を来い」と阿弥陀さまが喚んでくださり
「この道を往け」とお釈迦さまが勧めてくださる
往生浄土の道を
お念仏を申してご一緒させていただきましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.11.9)
「お寺のご縁がはじまるよ」と梵鐘が聞こえます
2022-11-08
さっきお正信偈のお勤めの和讃の段になって
今日の御和讃を書き変えていないことに気づきました。
いつも夕食の後で本堂の戸締りをして
黒板に次の日の御和讃を書くのですが
昨日は夜のいつもの順番が違ってたんでしょうね
すっかり忘れてしまいました。
皆さんも日々の生活のなかで
こんなことってありませんか。
昨日は「目が覚めたら生きていた」という
お話をしましたが
今朝梵鐘を撞きながら
円光寺の6時の鐘で目が覚める人っているのかなと
思ったことです。
今は携帯で目覚ましをセットできるなど
便利なものが身近にあって困りません。
ただそろそろ起きる時間だなと
生活のなかに時間が身についている人も
いるのではないでしょうか。
円光寺の6時の鐘を聞いて
「そろそろお寺のご縁がはじまるな」と思う人
皆さんは身支度をしてお寺参りに今日もお出かけです。
お寺の鐘は時刻を告げる鐘ではありません。
お寺のご縁を周囲に知らせる重要な役割があるのです。
「お寺のご縁が勤まるよ」
「そろそろお参りしようか」と
互いに声をかけ合いお参りして
お寺に用意されている私の席に座って
手が合わさるお念仏が出てくださるのです。
私が忘れる間違うようなことがあっても
阿弥陀さまはそのまま救う必ず浄土に連れて往くぞと
南無阿弥陀仏と喚んでくださっているのです。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.11.8)
「なぜ、お前は目覚めたのか?」
2022-11-07
土曜日曜日とお天気に恵まれ
コロナ下の行動規制もなくなって
行楽地が久しぶりに大変賑わったということです。
スポーツも盛り沢山です。
野球は公式戦は終わりましたが
日本代表の試合が続きます。
ラグビー、駅伝と冬のスポーツの到来です。
サッカーはいよいよワールドカップ開幕が迫り
今季Jリーグは横浜マリノスの優勝で終了しました。
その監督さんのコメントにはっとしました。
毎朝「なぜお前は目覚めたのか」と自らに問いかけて
「その答えが、目的になる」というのです。
皆さん私も今日目が覚めましたね。
「なぜ目覚めたのか」とは
「なぜ生きるのか」というわが命の根本的な問いであり
具体的に今日まさに何のためにどう生きるのか
ということです。
東井義雄さんというお念仏に生きた先人の
「目が覚めたら生きていた」という詩があります。
「目が覚めたら生きていた」そうですね。
目覚めたということは生きてるということで
眠っている間はどう生きようかと思ったか
生きようという努力をしたかというと
どうでしょう。
私がどうこうではなく
私の意思を超えて
心臓が動いていた細胞が生きていたのです。
生きよう生きようと命が生き続けて
朝目覚めて今日の一日が始まるということです。
東井義雄さんの詩は最後に
「目が覚めたら生きていた いや生かされていた」
と結んでいます。
仏法に遇ってお念仏のみ教えを聞かせていただくと
私が生きているという見方だけでなく
大きないのちに生かされて生きているというのです。
私が生きていると
自己中心のものの見方にとらわれるところに
私たちの苦悩の原因があるというのが
阿弥陀さまの見立てです。
私が私がではなかった
私もあなたもみんな共々に生かされて生きてきた
生かされて生きているという
本当のいのちのあり方に目覚めなさいというのです。
お正信偈の初めに
「帰命無量寿如来 南無不可思議光」と
共々にご唱和させていただきます。
南無阿弥陀仏の大きないのちのつながりおはたらきに
生かされて今日一日も生きて往こうと
ご一緒にお念仏申させていただける有難さです。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.11.7)
「ご院家(いんげ)さん」と呼ばれたい(2009年アーカイブ)
2022-11-06
お寺の研修会でご門徒さんから
「和尚(おしょう)さん」と呼ばれました。
すぐ他のご門徒さんから
「和尚さんと言わんのぞ。ご院家さんと言うんぞ」と
言われて
「そうでしたか。知りませんでした」
というお話です。
一般的に僧侶はお坊さんと言われますが
お寺のお坊さんは仏教の宗派宗派によって
その呼び方が異なります。
お隣の尋声寺さんの浄土宗では
「方丈(ほうじょう)さん」といいますし
「和尚さん」は一般的な言い方のようですが
海潮寺さんや安養寺さんの禅宗では
「和尚さん」といいます。
とんち話で有名な一休さんは
臨済宗のお坊さんで「一休禅師」と呼ばれます。
私たちの浄土真宗では「ご院家さん」といいますが
これも地方地方で「ご院さん」と言ったり
呼び方がそれぞれあるようです。
一般的には公文書には住職と書き
葬儀では「○○寺ご住職」と紹介されます。
円光寺の住職であり
住職は公称です。
「ご院家さん」「方丈さん」「和尚さん」は
昔からの愛称です。
皆さんも「何々ちゃん」と呼ばれたり
愛称ってありませんか。
愛称で呼ばれると
何か人と人との距離が縮まって
親しくなるような気がします。
これからもご門徒皆さんから
「ご院家さん」と親しく呼ばれるような
住職になっていきたいと思います。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2009.11.6)
親子で共に育つ(2012年アーカイブ)
2022-11-05
待機児童の問題です。
保育園に入りたくても受け入れる保育園がないことで
待機する児童が全国的に多くなっているといいます。
今の保育園事情は
私たちの子どもの頃と違って
核家族で夫婦共働きの家庭が多くなり
ゼロ歳児から保育園にお世話になることも
特別なことではなくなってきました。
それで保育園の収容人数を超えて
待機児童が増えたということです。
祖父母が同居していたり近所にいるお家もあったりと
家庭環境もそれぞれ違うと思いますが
祖父母に子どもを預けたくないという
理由もあると聞きます。
そもそも子育てについての考え方が
親世代と祖父母世代で変わってきた
ということではないでしょうか。
子どもが4歳ぐらいまでの幼年期は
「三つ子の魂百まで」という格言があるように
一生一度のこの時期こそ
親が子どもと一緒に居て
精いっぱい子育てに励むというのが
祖父母世代の考え方で
一方今の20代30代の親世代は
子育ても大事だが
自分の時間も大事にしたいという考え方が基本にあって
仕事も子育ても両立していこうということです。
親と子の関係です。
子どもが生まれて親になるわけで
親と子は同い年といいます。
そうした親子の関係つながりのなかに
私たちの先人は
忙しい生活のなかにもあたたかい眼差しで
子どもの成長を見守って
親子が共に育てられてきたということです。
とりわけ幼年期の子どもは
親や周囲の人たちの援助がなかったら
子ども自身に生きる力はありません。
そもそも私たちは誰一人として
自分独りで生きてきた人はいません。
周囲の人たちに育てられて生きてきたのです。
子どもだけではありません。
みんな互いに支えあって生かされて生きてきて
今の私があるということです。
私たちのお念仏の先人は
生活の中心に阿弥陀さまのお念仏のみ教えを
いただいて生きてきました。
阿弥陀さまのお慈悲の光に照らされて
あなたも私もみんな育てられてきたのです。
照育です。
お家のまん真ん中にお仏壇
お仏壇のまん真ん中に阿弥陀如来さまを
ご安置させていただいて
今まさに生きているのです。
南無阿弥陀仏の大きないのちのつながりのなかに
共々に生かされて親も子も共に育てられていく世界です。
子は親の姿を見てまねて育つといいます。
日々の生活のなかで
仏さまのご縁をいただいて
お念仏申す身にさせていただきましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2012.11.5)