お浄土から阿弥陀さまの道案内です
2022-10-24
一昨日の土曜日ご法事で南大分の方にお参りしました。
初めて行く所で大きな団地の中にあるお家です。
お家の方から地図をもらっていましたが
分かりにくく不安でしたので
これまでも何回か利用した
スマホで道案内をしてもらいました。
スマホで「何町の何丁目何番地何号」と検索すると
ばっちりその家の前まで道案内してくれる
大変便利な優れものです。
ただ問題はその道中です。
山を切り開いて造成した団地です。
先方からもらった地図には
通常一般に利用する幹線道路から
団地の入り口までの道案内が記されていましたが
スマホが案内してくれたのは
人家のない急な坂を右へ左へと
上って行く最短距離の道だったのです。
途中大変不安になりましたが
戻るわけにもいかずスマホの案内通りに行って
目的地の団地のお家に着くことができました。
スマホ機能の凄さを再確認しましたが
帰路は家の人から教えてもらった
日頃使っている道を帰りました。
高台から左右同じような人家がいっぱいの
曲がりくねった道を下りて行きましたが
一筋道を間違えたら他の団地に入り込んで
迷ってしまうようなことでした。
私たちが命終えて往くお浄土のことを思います。
お浄土へどのように往くのかということです。
南無阿弥陀仏のおはたらき一つで
お浄土から阿弥陀さまが道案内です。
迷う私を見抜かれて
阿弥陀さまが「まかせよ救う」と喚んでくださり
私をそのままお浄土に連れて行ってくださるのです。
往生浄土のお念仏の道は
「最勝の直道」といって
どんな人もお念仏申してすっと往ける
お浄土に一直線の最短距離の道なのです。
お念仏の先人は
「私が居る次の間がお浄土」と
味わわれています。
道案内の話に戻しますと
ナビよりもっと確実な道案内がいます。
そのお家の人が来てくれて連れて行ってもらったら
眠っていても目的地に案内してくれて一番安心です。
阿弥陀さまが「念仏申して来いよ」と
南無阿弥陀仏の道をご一緒くださるのです。
先にお浄土に往かれた先人も
私たちにお念仏を勧めてくださっています。
今日もお朝事のご縁で
親鸞さま蓮如さまのお手紙をいただき
南無阿弥陀仏のお心を聞かせていただいて
往生浄土の道すがらをご一緒させていただきましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.10.24)
私一人のこだわり楽しみ(2010年アーカイブ)
2022-10-22
昨日いつもの所に水汲みに行きました。
そこで地元の小学3年生の先生から
「子どもたちのインタビューに答えて下さい」と
言われました。
「どこから来ましたか」「月に何回ぐらい来ますか」
という簡単な質問でしたが
「何回来ますか」という質問にちょっと考え込みました。
月に何回もいつも来ているわけではありません。
それこそ思い出す程度です。
二か月三か月に一度くらいということでしょうか。
ところが傍で同じように聞かれている方を見ると
沢山のケースいっぱいのペットボトルに
水を汲んでいるのです。
この方は二週間に一回いや一週間に1回ぐらいは
来ているのかなと思ったりしました。
水は私たちが生きて行く上で
なくてなならない大切なものです。
私たちの身体も殆ど水でできていますし
まさにいのちの水であり
この地球も水の惑星といわれます。
水はそれほど大切なもので
水道の蛇口をひねったら
水はあふれんはかりに出てきて
日本では飲み水にできるのに
何でわざわざ遠方まで
水を汲みに行くのかということです。
ここの水じゃないとコーヒーが美味しくない
ご飯が美味しくないと
一つのこだわりをもって
水を汲みに来るのでしょう。
これは水に対するこだわりですけれども
皆さんは日々の生活のなかに
何かこだわりをもっていることってありませんか。
こだわりということと
とらわれということは違います。
これがとらわれてしまうと大変です。
ここの水じゃないといけないといって
この水以外は絶対飲まなかったら死んでしまいます。
何か物事にとらわれてしまう恐さを思います。
こだわりとは私一人の楽しみ
ということではないでしょうか。
人がどうこうではなくって私はこうだという
信念みたいなものです。
別に頑固に他の人にもこうしないと
勧めることではありません。
私一人のこだわり楽しみです。
皆さんは日々どんなこだわり楽しみをもって
生活されていますか。
このお朝事のお寺参りのご縁も
私一人のこだわり楽しみの一つになったら
本当にいいなあと思います。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2010.10.23)
私のすべてを見て取ってそのまま救う南無阿弥陀仏のおはたらきです(2009年アーカイブ)
2022-10-22
昨日水曜学校があって
子どもたちにゲームを考えてもらい
宝探しというゲームをしました。
本堂の中に一人が隠した宝を
みんなで探すゲームです。
そこに積んでいる聖典の一番下に
宝物の紙切れを隠しました。
ヒントを出してその辺りをみんなで探し
聖典も上から順番に繰って探すんですが
一番下に置いているのに
途中までいってやめるのです。
そういうことって
私たちの日常の中にもよくありませんか。
大事な物がなくなったと
騒ぎ立てて探すんですが
実はすぐ近くに直し込んでいることがあります。
その辺りをちょこっと見て
ここにはないと早合点して次の所を探すといった具合です。
ちょっと見るだけで
ちゃんと見ているかというと
見ていないことが多いんです。
私たちは人と人とのつながり
関係の中で生きていますが
その人人をちゃんと見ているでしょうか。
中々見ていないというか
外見だけでちょっとした情報でちょっと話しただけで
嫌な人だと思ったりすることってないでしょうか。
嫌な人だ会いたくないと思ったら
近くにいても顔を合わせることも
中々難しいのです。
私たちの阿弥陀さまは
言うことを聞く人だったら救うというのではなく
言うことを聞かないこの私だからこそ
この私が聞いてくれるまで
阿弥陀さまはずっと喚びかけ続けるのです。
私の方を向いてくれよお念仏を申してくれよと
南無阿弥陀仏のおはたらきで
ずーっと願い通しなのです。
ずーっと喚び通しなのです。
そしてやっとこうして
阿弥陀さまの御仏前に座らせていただいて
阿弥陀さまに向き合うことができたのです。
迷いの世界に苦悩する私のすべてを見て取って
「そのまま救う阿弥陀はここにいるぞ」と
立ち上がり喚んでくださる
南無阿弥陀仏のお慈悲の中に安心して
共々に生かされて生きて往けます。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2009.10.22)
この場所で生きて、あなたに会えて本当によかった!
2022-10-21
昨日プロ野球のドラフト会議という
一年一度の恒例行事がありました。
行事といって
対象になる選手は気が気ではありません。
小さい頃からプロ野球選手になる夢をもって
野球を続け意中の球団に入りたいという夢もあります。
ただ選手本人が希望球団を選択できるのではなく
球団から選択されるのです。
だから思い通りに行かなくて
指名されてもすんなり入団ということにはならず
指名を拒否して浪人するケースもありました。
悲喜こもごもの色んなドラマがありましたが
江川の空白の一日とか
清原桑田をめぐる物語です。
ドラフトでその選手の野球人生が
決まるということではありません。
周囲の大きな期待で意中の球団に入っても
ずっと二軍暮らしで結局一軍出場がかなわず
志半ばでプロ野球界を離れる選手もたくさんいます。
ドラフトはゴールではなくスタートです。
そこからが新たな出発で
厳しい練習がまっているのです。
スタートとは
その人人にその場所が与えられるということです。
私たちの人生に置き換えると
その人人の生きる場所です。
具体的にいうと仕事です。
その人の人生を通じて
どういう仕事に就くのかということです。
選択肢はいっぱいありますが
一つ選ぶのはこの私です。
私の仕事はこれだと選んでも
思い通りに行かないこともあります。
逆に「あなたはこの仕事に就きなさい」と
他者から言われたら私はちょっと背中を向けそうです。
仏さまのご縁という言い方をします。
ご縁があってこの私です。
ご縁があってこのお寺に生まれて
ご縁があってこうして今日もお朝事のお勤めを
皆さんとご一緒させていただけると
仏さまからいただいたご縁です。
この人生を振り返って
良いことも悪いこともあったと
自分の思い通りになるようなことも
思い通りにならないこともたくさんあったと
でもね
人間に生まれて本当に良かった
仏さまのご縁に遇ったことを有難く思います。
あなたに会えて本当に良い人生だったと
今日も一日お念仏申して
生かされて生きてまいりましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.10.21)
宗教と政治
2022-10-20
テレビの国会中継を観ています。
世界平和統一家庭連合(旧統一教会)関連の質疑が
野党を中心に多くの時間を割いて行われています。
新聞テレビ等マスコミも連日
この問題を取り上げています。
名称からして分かりにくいですが
宗教法人格をもった宗教団体です。
霊感商法で多くの被害相談があり
多額の献金問題では信者家族の被害告発で
宗教法人に解散命令を出す事態になってきました。
私たちのお寺も宗教法人です。
国が定める宗教法人法という法律の下で
宗教法人としての活動を行っています。
宗教と政治の関係です。
宗教的理念を政治に反映することについて
僧侶も個人の思想信条の自由から
政治活動を制限されるものではありません。
ただ個々の政治参加が団体組織になると
曲者なのです。
組織を構成するのは人間です。
そこには人間の思いはからいが入ってきます。
それも組織を構成する人が増えれば増えるほど
それぞれの思惑が混雑してややっこしくなります。
民主主義の多数決の原理は
組織としての方向性を
より多くの構成員の意見を反映したものにすることですが
大きな組織になると一部の権力者の思いのままになって
本来の目的宗教でいったら教えが
どっかに飛んでしまうような事態になりかねません。
そして組織の危機に直面する時
自分たちを護ろうとするのが人間がつくる組織なのです。
人間なのです。
自分を守るということです。
組織がややっこしいのは
それぞれの思惑が違う人が沢山同居していることです。
宗教団体はみんな同じ信仰をもった人の集まりで
教祖を中心に組織は一つと言いたいですが
それぞれがみんな違う生活をしているということで
色んな思いが出てくるのです。
今回の旧統一教会のことでいうと
教会側は今回のことを教義の上から
これはサタン悪魔の仕業で
今は耐え忍ぶしかないといいます。
今回の発端は安倍元首相の銃撃暗殺事件です。
元統一教会の問題は
霊感商法や合同結婚式で話題になっていた頃から
被害救済を求めて信者の家族二世信者といわれる方
そして弁護士支援者が
ずっと取り上げ続けてきたことですが
これまで公に出てこなかったのです。
元統一教会と政治との関係です。
政治家は選挙のために宗教団体を利用し
宗教団体はその見返りを得るという構図です。
有力政治家の旧統一教会関連団体への関与が
教団を擁護し被害を増長し続けてきたということです。
今実際に何が起こっていて
何が一体問題なのか。
宗教は人それぞれの内心の自由に関わることで
政治権力が宗教法人に解散命令を出すことについては
よほど慎重にあるべきです。
日本が戦争の時代
宗教団体は政治権力に弾圧されるか
蜜月の関係を結んで生き延びてきました。
その時どきの政治社会の体勢で
宗教団体組織のあり方が揺れ動く歴史に学び
移り変わる社会の情勢に惑わされることなく
日頃から仏法聴聞に心がけて
お念仏を申す生活につとめていきたいものです。
わが身の愚かさ傲慢さをそのまま映してくださる
鏡のようなお念仏の教えに謙虚に向き合って
私にできる精いっぱいのことをさせていただきましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.10.20)