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お念仏を申す生活法話

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村上選手55号本塁打!

2022-09-14
 プロ野球ヤクルトの村上宗隆選手が
昨日の巨人戦で54号55号のホームランを打って
王貞治さんに並んだというニュースです。

 村上選手の55番の背番号は
松井秀喜選手のような選手になってほしいという思いで
王選手の55本のホームラン記録ということです。

 日本選手としてのタイ記録で
ヤクルトの先輩バレンティン選手の60本の日本記録更新も
現実味をおびてきました。

 プロ野球に入って5年目の22歳です。
これからホームランをどれだけ量産するのか
ファンの期待も大きくなります。

 昨日の試合終了後に
ヤクルトファンの親子がインタビューに応じて
試合はヤクルトが負けたのですが
「試合は負けたけれども
村上選手の54本55本のホームランを見れて良かった」
と言っていました。
 負けても良かったです。

 私の子どもの頃は巨人のON砲王長嶋の全盛期で
巨人が勝つか負けるか試合の大勢はわかっていても
王長嶋の打席が終わるまでは
観客は球場から帰らなかったというエピソードです。

 大抵はゲームセットで帰るのですが
王長嶋の打席が終わったらぞろぞろと家路を急ぐ
観客の姿があったと言われました。

 王長嶋そして今は村上選手を見に来るのです。
会いに来るんですね。
 テレビでゆっくり十分観れるけれども
臨場感というかその場に一緒に居合わせることの
喜び楽しみです。

 蓮如上人の時代吉崎の御坊に連日人が押し寄せるように
大勢の方がお参りされたことが
御文章さまの中にも何度も述べられています。

 阿弥陀仏のお救いの教えお念仏のご法義を聞きたいと
蓮如さまに会って直接お話が聞きたいと
吉崎の御坊にお参りされたのではないでしょうか。

 我も人もみんな連れ添って
それこそ何の行列か分からないけれども
並んでしまうということでしょうか。

 エリザベス女王の国葬が近づいています。
昨日はエディンバラの王室に馴染みの深い大聖堂で
一般市民の弔問を受けたということです。
 凄い数の人が昼夜並んで
10時間も並んだという人の話もあります。

 人に会いに行くのです。
私たちの日々の生活です。
 人と人とが織りなす社会にあって
人との出会いと別れを繰り返す日々の営みです。

 会いたい人も会いたくない人も会ったことがない人も
すべてが南無阿弥陀仏の大きないのちにつながって
共々に生かされて生きていると
お聞かせいただくお念仏のご法義です。

 今日もこうして円光寺の本堂に決まった時間に
皆さんが心を寄せて体をはこんでくださって
ご一緒にお念仏を申して
今日の一日を始めさせていただける有難さを思います。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.9.14)


わが人生最高の習い事

2022-09-13
 皆さんは何か習い事をしていますか。
お坊さんの素養ということでしょうが
子どもの頃私は毛筆習字を習っていました。

 今の子どもたちの習い事は多種多様で
一部では
学校以外の時間を全て注入するように
友だちと遊ぶ暇もないほどにやっている
やらされているような印象さえ受けます。

 ピアノに英会話に
スポーツも水泳野球サッカーとありますが
一番の習い事は学習塾でしょう。

 お仕事を退職した高齢者の習い事も盛んで
若くて忙しい時にはできなかった
お花やお茶踊り楽器とこれも多種多様ですが
習い事といったら自分の趣味の世界のことで
自分から進んでする楽しい時間です。

 ただ学習塾というのはどうでしょうかね。
趣味ではありませんね。
 期間限定のその時だけのことで
楽しんで長く続けるということではありません。

 国語算数理科社会といったお勉強は
本来学校で先生から習うことですが
学校で習う以上の進学のために学習塾で習うのです。
 逆に学習塾の勉強が本来の勉強の場になってしまって
逆転現象のような感じさえ受けます。

 本末転倒というようなことが
今の時代多いと思うのは
昔の固定観念に基づいた頑ななものの見方でしょうかね。

 お仕事でいったら本業と副業があって
副業は自分が好きで始めた趣味が高じてということですが
副業が本業になってしまうのです。

 本業といって就職活動で自ら就いた仕事ですが
その仕事に馴染めず転職を考える人が多く
当たり前のようになっているような風潮です。

 本来従事する仕事はその時どきで変わるものではなく
熟練を要することもあって
その人人にとって限られた職種になります。

 人生の大半をその仕事に従事することで
人間に生まれてきたのは
どんな仕事をするためだったのかという
人生の大きな課題ともなります。

 自分本来の仕事に務めに出あうことこそが
その人の人生一番の最高の楽しみであり
目的でもあることではないでしょうか。

 このお朝事のおつとめです。
仕事でしょうか
副業でしょうか
趣味でしょうか
習い事でしょうか。

 おつとめをする中に
今日の一日を始めさせていただきます。
 お朝事の30分の時間は
一日24時間の中で48分の1の時間ですが
仏さまのみ教えを聞かせていただきますと
この30分という時間ではなくて
南無阿弥陀仏とお念仏を申すそのことが
この一日だけのことではなく
昨日一昨日もそうだったし明日も明後日もずっと
この私のいのちを貫いてくださる
南無阿弥陀仏のおはたらきといただけるのです。

 南無阿弥陀仏とお念仏をお申すなかに
日々のお仕事をさせていただきましょう。
 趣味もいいです。
いろんな楽しいことをしましょう。

 お念仏の先人に習ってお浄土への道行きを
今日もお念仏申して歩ませていただける
浄土真宗のご法義の有難さを思います。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.9.13)


真実変わらないお念仏を申して生きる

2022-09-12
 朝方西の空に満月が残っていました。
9月10日が今年の中秋の名月ということで
その前日から気をつけて夜空を眺めていましたが
南の空にくっきりと満月を三日間見ることができました。
 何とも風情のある贅沢です。

 月も東から昇り南の方角を移動して西に沈んでいきます。
一瞬たりとも一処にいるのではなく動いているのですが
私たちが住むこの地球もまた動いているのです。
 月も満ちて満月となりこれからは欠けていきますが
月そのものが満ち欠けするのではありません。
 月を見る私自身も変わって行き
諸行無常の理を思います。

 イギリスのエリザベス女王が8日に亡くなりました。
大方の皆さんがびっくりされたのではないでしょうか。
その二日前には新しく誕生した首相に会って
首相任命の務めをする国家元首の元気なお姿が
世界中に発信されてばかりでした。

 96歳という超ご高齢のことで
いつ何があってもおかしくないということで
死の縁無量の理です。

 女王在位70年の節目の年に当たり
記念行事も多くあったようですが
気品をもって公務にいそしむお姿が偲ばれます。

 私のことに重ねて思いますと
私が生まれた1952年に女王に就任されて70年です。
私も70歳の節目の年になります。

 96歳というと
私の母と同い年です。

 エリザベス女王に替わって
長男のチャールズ皇太子が国王に就任しました。

 お寺でいったら住職の継職です。
今は天皇陛下も生前に退位されて
皇位継承ということですが
少し前までは前の方が亡くなって
後を継ぐことが通例でした。

 この11月には私も住職を退任して
新院に住職継職いたします。

 73歳でチャールズ国王が就任して
これからイギリスの王室も変わって行くことでしょう。

 自分に都合の良いことは
いつまでもこのままずっと続けばと思っても
良いことも悪いことも変わって行くなかに
私自身が変わって行かねばならないのです。

 変わる楽しみもあるでしょうが
どのように変わるか想像できないこともあって
不安と戸惑いの中に日々生きる私に寄り添ってくださる
真実変わらない南無阿弥陀仏の有難さ尊さです。

 今日一日もお念仏を申して
阿弥陀さまが決めてくださった往生浄土の人生を
歩ませていただきます。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.9.12)


「手を合わせ 仏さまを拝むとき 私のツノを 知らされる」(法語カレンダー9月のことば/波北彰真)

2022-09-11
 どなたもおはようございます。
今日は仏教壮年会の例会ということで
ようこそお参りいただきました。

 今年になって例会の形を
少し変えてもらっています。

 今日ちょっと感動したのは
皆さんでお正信偈のお勤めをしてくださったことです。

 これまでは「讃仏偈」か「重誓偈」の
短いお勤めでしたが
浄土真宗門徒の日常勤行といえばお正信偈です。

 円光寺は前住職の時から
何の法要行事でも
お正信偈をご門徒皆さんご一緒にお勤めし
皆さんのお家のご法事には聖典を持参しお配りして
お参りの皆さんご一緒にお正信偈をお勤めしています。

 円光寺だけではありません。
浄土真宗門徒の私たちにとって
お正信偈は一番の宝物なのです。

 ただお経はお坊さんがお勤めするもので
お坊さんがお勤めをするから有難いといった
一般的な見方がまだまだ多く残っています。

 お正信偈はお内陣向かって左奥の
本願寺八代宗主の蓮如上人が
ご開山親鸞聖人の著書『教行信証』から抜き出され
僧侶門徒の別なくご一緒に阿弥陀さまのお徳を讃嘆し
お勤めをしましょうと始められたものです。

 蓮如さまから五百年以上の時空を超えて
お正信偈のお勤めが先人から伝えられてきた有難さです。

 人から人へです。
お坊さんからご門徒衆にということだけでなく
皆さんのお家お家の先人が子や孫に
口伝えしてきたことだということです。

 蓮如上人当時の私たちのご先祖は
殆ど読み書きはできず
聖典を読んで覚えるのではなく
お念仏の声を聞いて覚えたんですね。

 子どもが真っ先に覚えたかもしれません。
人から人へ口から口へと
お念仏の先人が声に出して伝わって
届けてくださったお念仏の生活です。

 今日は仏教壮年会のご縁で会長さんが調声をされて
私も一緒にお勤めをさせていただきましたが
皆さんの家庭生活でいいますと
お家のお仏壇はお坊さんだけが座るところではなくて
お家の皆さんも座っていいところなのです。

 皆さんがお正信偈のお勤めをしていいのです。
今日お勤めをしながら
私たちは本当に先人のお育てを頂いているのだなと
改めて有難く思いました。

 皆さんよく声が出ますね。
大したものです。
 どうぞその声がそのまま隣の人に子や孫に
伝わ届けられる阿弥陀さまのおはたらきです。

 今月8月の法語カレンダー
「手を合わせ 仏さまを拝むとき 私のツノを 知らされる」
のお語です。

 妙好人といいます。
お正信偈の中に
「是人名分陀利華」という言葉がありますが
分陀利華に通じる妙好人の言葉のお心です。

 分陀利華は蓮の花のことです。
蓮の花は泥の中に咲きます。
大地の高原には咲きません。

 泥の中に咲いても泥にまみれず
清らかな華を咲かせるという
仏さまのおはたらきです。

 泥の中とはここ
この私たちが生きている五濁悪世ともいわれる
迷いの世界です。
 その迷いの世界にお浄土から
阿弥陀さまの南無阿弥陀仏のおはたらきが届いて
この私の口からお念仏を申す身に
させてくださるというのです。
 お念仏を喜び申す妙好人です。

 今日ご紹介するのは浅原才市という妙好人です。
1850年生まれで1932年昭和7年にご往生されています。
 石見の国の生まれで
石見といったら世界遺産の石見銀山が有名ですが
石州といって石州瓦でも有名です。

 今の島根県です。
石見の温泉津で生まれます。
温泉地の港町で昔からお念仏の土德豊かな中に
才市さんは82年のお念仏を喜び申すご生涯を送られます。

 才市さんはたくさんのお念仏の法悦の歌を作っています。
お念仏に出遇い生かされる喜びの歌です。
 「かぜをひけばせきがでる
わたしゃご法義のかぜひいた お念仏のせきがでるでる」と
歌われています。

 風邪をひいたらせきが出ますね。
今のコロナの時代ここでせきをしては大変と
せきをしないようにいくら努めても
せきは出る時には出るのです。
 風邪をひいたからです。

 ご法義のかぜひいたとは
お念仏のかぜをひいたと
そしたらナンマンダブツナンマンダブツと
お念仏のせきが出る出るというのです。

 浅原才市さんについて書かれた
「鬼の寺参り」というタイトルの本があります。

 晩年才市さんが有名な絵師に
自分の肖像画を描いてもらったそうです。

 絵ができて絵師が絵を届けたそうです。
にこやかな柔和な顔で肩衣をつけて
手にお念珠をかけ合わせて座った姿は
本当にいいお念仏のおじいちゃんの容姿です。

 周りの人は「これこそ才市さんの人柄までも
よくうかがわれる絵だ」といってほめますが
その絵を見た才市さん
「これはわしの姿じゃない」といって
その絵師に何と頭に二本のツノを描かせたといいます。

 二本のツノが生えた姿はまさに鬼です。
その絵を見た時に才市さん
「これがわしの本当の姿だ」と言って喜んだそうです。

 温泉津に行きますと
頭に立派な角が生えた浅原才市さんの銅像があるそうです。

 以下『大乗』9月号より
転載させていただきます。

 今から70年前、浅原才市さんという人がいました。
画家に二本のツノが生えている
自分の肖像画を描いてもらいました。

 ツノは心の姿 むさぼり・腹立ち・おろかさ

 他人のツノはよく見えるが
自分のツノには気がつかない。

 手を合わせ
 仏さまを拝むとき
 私のツノが知らされる

 この言葉のなかで
ツノを貪り・怒り・愚かさの
三毒の煩悩に例えています。

 このツノの例えは
妙好人といわれた
浅原才市さんのエピソードからきています。

 才市さんは、自分のこころのなかにある煩悩を鬼に例え
この鬼のすがたが自分の本当のすがたであると
お同行の方々に伝えようとしています。

 そして、その鬼のすがたは
お寺にお参りしてお聴聞するなかで気づかされるのだ
と味わっておられます。

 阿弥陀さまは
煩悩によって苦しんでいる私のすがたを見抜き
決して見捨ててはおけないと私を救ってくださるのです。

 その「私が救われる」という
阿弥陀さまのお慈悲を聞いたとき
救われる煩悩だらけの私のすがたが見えてくるのです。

 そして私のすがたがわかったからこそ
よりよい生き方がみえてくるのでしょう。

 どうぞお念仏のみ教えを聞かせていただき
お念仏を喜び申す身にさせていただきましょう。
                      以上

 今日もこうして日曜日の朝の一日の初めに
皆さんとご一緒にお念仏を申して
始めさせていただくことを
本当に有難く思います。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.9.11)

目には目を(2009年アーカイブ)

2022-09-11
 今日9月11日は8年前にアメリカで
同時多発テロがおこった日です。

 それ以来<テロとの戦い>が世界中で叫ばれましたが
テロといって敵が見えない戦争で確かに見えてきたのが
亡くなった方がたくさんいらっしゃるということです。

 「目には目を」といいます。
目には目をで報復を繰り返して
憎しみ恨みが解決解消するかというと
解消しないばかりでなく
また憎しみを重ねることになって
憎しみの連鎖です。

 最近ちょっと気になっていることですが
裁判員制度が導入されて
一般市民が裁判に関わるようになりました。

 この前は山口県で介護に疲れたご主人が
奥さんを刺した殺人未遂の裁判の判決で
懲役刑でしたが執行猶予がつきました。
「これからもしっかり頑張って生きて下さい」と
裁判員の意見書が添えられたといいます。

 ただ一方で
殺人暴行といった凶悪犯罪については
検察官のほぼ求刑通りの判決がでています。

 これまでは大方検察官の求刑以下の判決でしたが
裁判員制度になって
殆どが検察官の意見そのままの判決になっているようです。

 遺族の思いに寄り添った市民感情です。
遺族の感情としては極刑に処してほしいということです。
 自分の大切な身内を殺された
犯人も同じように殺して下さい
死刑にしてほしいというのです。

 遺族感情がそのまま裁判の判決になると
目には目をということになってしまいかねません。

 裁判とは罪を裁き刑に処する罰を与えるということと
もう一つ教育刑といって
これからの生涯をかけて罪を償ってほしいという
更生教育の場にもなるわけです。

 目には目をで
人を殺した者は殺してしまえでは
裁判は必要ないわけです。

 裁くということは非常に怖いことです。
誰が裁いているのかというと
人が人を裁いているのです。

 阿弥陀仏のお救いには条件がないといいます。
すべてのものを分け隔てなく救うと誓われ
南無阿弥陀仏と本願成就されたのです。

 阿弥陀さまは私たちを裁きません。
こんな悪いことをしたから救わないとか
こういう善いことをしたから救うとか
その人人によって救ったり
救わなかったりするのではなくて
すべてのものを等しく救う
仏さまに成ってくださったのです。

 すべてのものを無条件に救うといって
悪いことを許すのかというと
そうではありません。

 悪いことをしたことに
涙を流して悲しまれるのです。
 阿弥陀さまの大悲のお心大きな悲しみです。
大悲のお心が南無阿弥陀仏のおはたらきとなって
私のところに来てくださり
いつも寄り添ってくださるのです。

 南無阿弥陀仏の大悲のおはたらきのなかに
お念仏申して日暮らしさせていただく私ですが
善いことをしようと思っても
結果的に悪いことをしてしまうこともあります。
 縁があれば何をしでかすか分からない
人を殺す傷つけることもあるかもしれません。

 そうした危ない私たちが心配で
阿弥陀さまは大悲のお心で
私を包んで支えてくださってあると
聞かせていただくなかに
私にできる精いっぱいのことをさせていただきます。

 私が私がと自己中心に生きるのではなく
一人でも多くの方がお念仏のみ教えにつながって
「人間に生れて本当によかった」と
お浄土への人生を共々に歩ませていただく
お手伝いをさせていただきたいものです。

 こうしなさいああしなさい
こうだよああだよと
こんなことはしてはいけないよと
他の人に言うのは簡単です。

 でも生きていくのはこの私です。
この私をめあてに救わずにはおかないと
すっとお立ちになってくださった阿弥陀さまのおすがたを
今日も拝見させていただいて
また頼もしく有難く思います。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2009.9.11)


円光寺
〒870-0108
大分県大分市三佐3丁目15番18号
TEL.097-527-6916
FAX.097-527-6949
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