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お念仏を申す生活法話

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安倍元首相の国葬

2022-09-28
 安倍元首相の国葬が終わりました。
7月8日の衝撃的な暗殺事件から81日
国論を二分分断する事態になるなかでのことです。

 最愛の夫を突然亡くされた昭恵夫人をはじめ
ご遺族有縁の方々の心情を察します。

 一般献花台に花束をもって弔問しようと
長い列に並ぶ多くの人がいる一方で
「国葬反対」と大きく叫びデモをする方もいました。

 故人に「安らかにお休みください」と弔意を表すなかで
安倍さんはこの状況をどのように見ているのでしょうか。

 国葬という葬儀のあり方への疑問です。
国をあげての葬儀ということで
経費一切は国の予算で賄うものの
「国民に弔意は強制しません」とわざわざ言ったり
公共の機関の弔意もそれぞれにまかせるといった具合です。

 国葬の内容は無宗教で宗教色は一切ありません。
遺影と遺骨を中心に
故人を偲ぶ弔辞と参列者の献花が主です。

 葬儀委員長の岸田首相の弔辞は
国を代表して元首相の功績を讃えるものでした。
 友人代表で官房長官として安倍首相と二人三脚で
安倍政権を推進してきた菅前首相の弔辞は
まさに逝く友を追って悼む内容でした。

 今回の国葬には私自身違和感があり
無理があると思います。

 岸田さんが国葬にするかどうか迷っていた時に
自民党の有力者から「理屈じゃない」と言われて
舵を切ったという話があるそうです。

 本来葬儀は葬送といって亡き人を送ることです。
人と人との出会いがあり別れがある
この人間社会の営みの中で
自分にとって都合の良いことも悪いこともあったけれども
長年付き合いがあってお世話になった方に
最期は感謝し御礼をして送るという
極めて個人的なことです。

 そうした自然の心情に添うものでいえば
葬儀は理屈云々ではありません。
 ただ国葬となると意味は違います。
国のあり方自体が法治国家という理屈の上にあり
今回の国葬についての混乱は
その理屈を無視したものに映ったのではないでしょうか。

 菅さんの弔辞はそういう意味では
国葬に相応しくない
安倍さんとの個人的なエピソードを語られ
会場から葬儀に相応しくない拍手が沸いたのでしょう。
 まさに人人の心情の吐露するところで
昭恵夫人も涙を流し自然でよかったです。

 人と人とが織りなす社会
私の一回きりの人生で
多くの人と出会いと別れを繰り返すなかに
家族や友人といったご縁の深い大切な特別な方がいます。

 今は家族葬が一般的になって
最期のお別れをすることが難しくなりましたが
葬儀はその人と共に生きた人生を振り返るご縁になります。

 今は無宗教の葬儀が増えているといいます。
家族葬に重なる事情ですが
家族だけで火葬して送るという葬儀です。

 仏教の葬儀には導師のお役目のお坊さんがいます。
お釈迦さまが開かれた仏教を伝え仏の世界に導く師です。

 浄土真宗のお寺と門徒の関係でいえば
お手次ぎ寺の住職です。
 お念仏のみ教えをお手次ぎして
南無阿弥陀仏のおはたらきで人の命終えるそのままに
阿弥陀さまのお浄土に生まれて仏に成らせていただくと
共々に聞かせていただきます。

 「ゆっくりお休みください」と言われても
名のある方はゆっくり休めそうにもありません。

 大河ドラマは今鎌倉幕府の物語ですが
付いては離れ殺しては殺されるといった愛憎劇の展開で
あの人は善いとか悪いとか
自分勝手に面白く観ている私がいます。

 善悪愛憎を超えて
阿弥陀仏はどんな人も等しく救われて
俱に一処に会えるお浄土を建立してくださいました。

 南無阿弥陀仏とお念仏申してこの人生を生き抜き
命終えてからも
南無阿弥陀仏のおはたらきで
後に遺った有縁の方のお念仏の声となって
ご一緒させていただける
ご法義に遇えたことを有難く思います。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.9.28)


墓じまいのご相談

2022-09-27
 最近墓じまいの相談を受けることが多くなりました。
個々に相談するのですが
お家お家の事情が全くといっていいほど違います。

 お墓の継承者がいるかいないかで
相談の内容が大きく異なります。

 継承者がいないお墓とは
当該のお墓に今後納骨される方がいないお墓です。
 一方継承者はいるけれども
遠方に持ち家があって住いされていて
将来もこちらに帰ってくることがない方です。

 そしてこれからのお墓の維持管理を考えて
墓地のお墓をしまって納骨堂を求める方が多くなりました。

 墓じまいを含めた終活ということが
マスコミで広く報道されている影響が多いのですが
円光寺で何より相談が多くなったのは
円光寺墓地に合同墓を建てたことに理由があります。

 お家のお墓にはご先祖のお遺骨が
たくさんご安置されているということで
墓じまいをした後にそれらのお遺骨をどうするのか
お遺骨の行く先の問題があります。

 今はいろんな霊園や公共の墓地でも
そうした対応をしているのですが
円光寺でいったら
今までお寺にご縁があったご門徒皆さんですから
お寺の合同墓にご一緒しましょうという提案です。

 円光寺通信やお寺からのご案内を
よく読んでくださっていることでのご相談です。
 日頃は中々お寺参りのご縁がない方も多いのですが
お寺と門徒の関係でご縁がつながっていることの
有難さを思います。

 昨日も墓じまいのご相談に
ご門徒さんがお寺にお参りされました。
 本堂の阿弥陀さまの御仏前でお話をします。
最初に「阿弥陀さまにお礼をしましょう」と
ご一緒に合掌お念仏申させていただきます。

 仏事のご相談も何もかも
南無阿弥陀仏のおはたらきにつながる
お念仏のご縁と尊くいただきます。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.9.27)


何のために生かされているのか?

2022-09-26
 運転する車中で聴くラジオからの言葉に
聞き入ることがあります。

 あるアナウンサー氏が
「生きるということを
私は生かされていると受けとめて
何のために生かされているのかを考えながら
生きています」と言った言葉です。

 私たちは今ここに生きていますが
何のために生きているのか
見方を変えれば
何のために生かされているのかということです。

 若い時分は私が生きることで精いっぱいでしたが
歳を重ねていく中で
自分一人で生きているのではなく
多くの人たち多くのいのちに生かされていると
思うようになり
何のために多くのいのちに生かされているのかと
考えるようになったということでしょう。

 同じ日のテレビ番組で
仕事をリタイアしたご夫妻が
妻の生まれ故郷の今は無人島になった所に移住して
一から生活を始め直し
島の活性化のために事業を進めているという話題です。

 周りからはゆっくり生活を楽しむ程度でいいのに
何でそこまで力を入れて
大変なことに取り組むのかということですが
「これは私がこの島に生まれ育ったことへの恩返しで
人間に生まれた私の使命だと受け入れています」
と言われていました。

 私が今ここに生きているのは
決して自分一人の力ではなく
目に見えることも見えないことも全て
多くの人たち多くのいのちのおかげで
生かされて生きているということです。

 今ここに生かされている事実に立って
何のために生かされているのか
何か恩返しのようなことが
どのようにできるのでしょうか。

 人間には人それぞれに
個性があり才能があるといわれます。
 ただどんな才能があるのかといって
初めからわかることではありません。

 人生の道行きの中多くの人に出会うなかで
その才能が見つけられ個性を生かす仕事に恵まれたら
本当にいいですね。

 絵を描いたり音楽に勤しんだりと
指導者について専門的に何かに取り組むといって
限られた時間です。
 あれもこれもできる私ではないことも確かです。

 まさに人間に生まれたご縁であり
さまざまなご縁に遇うことで
私の人生の道行きが彩られます。

 私でいったら
このお寺の長男に生まれたというご縁です。
 気がついたらお寺の長男で
この私でした。

 お念仏のご縁をいただいて
今こうしてお寺の住職をつとめさせていただいています。

 お念仏のご縁に遇って
お念仏申す人人のつながりのなかに
共々に生かされてあると聞かせていただき
阿弥陀さまが私のために用意してくださった
南無阿弥陀仏の大きなお慈悲の中に
これからも生きて往こうと思います。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.9.26)


弥陀釈迦二尊一致のお話(2010年アーカイブ)

2022-09-25
 昨日は本願寺別府別院の彼岸会法要のご縁に
お参りさせていただきました。

 ご法話で弥陀釈迦二尊一致のお話がありました。

 浄土真宗の本堂のお内陣そしてお家のお仏壇には
正面真ん中にご本尊の阿弥陀如来のご尊像をご安置して
釈迦如来のご尊像をご安置していません。

 仏教を開かれたお釈迦さまを蔑ろにして
浄土真宗は仏教ではないと
極端なことを言う人がいますが
実は阿弥陀さまとお釈迦さまは一致
一つであるといただくのです。

 二河白道の譬えを引いて
ご法話お取り次ぎがありました。

 ある人が西に向かって旅をしていると
前方に火の河と水の河が立ちふさがったといいます。
 行く手を阻まれて後ろを振り返ると
盗賊や毒蛇悪獣が迫って来たというのです。

 もう後ろにも戻れない前にも行けない状況で
前を見ると幅4、5寸の白道が開かれていたといいます。
 火の河に焼かれるか水の河に溺れるか
危険をおかしてその道を行くかどうか迷った時に
後方の東の方から
「汝、一心にこの道を行け」という声がして
前方の西の方から
「汝、正念にしてこの道を来い」と
喚ぶ声があったというのです。

 火の河は怒りの心
水の河は貪りの心という
私たちの煩悩をいいます。

 東からの声はお釈迦さまの声で
「汝、この道を行け」と
西の方から聞こえてきた声は阿弥陀さまの声で
「汝、この道を来い。我よく汝を護らん」と
弥陀釈迦二尊の声に支えられて
その旅人は狭い狭い白道を行って
西の岸に至り着いたというお話です。

 この西の岸こそが
阿弥陀さまのお浄土であるというのです。

 お釈迦さまの「この道を行け」のお勧めと
阿弥陀さまの「こっちに来い」の招喚のお呼び声です。
 これこそが南無阿弥陀仏のお心おはたらきと
聞かせていただくのです。

 私たちの浄土真宗のご本尊は阿弥陀如来であり
南無阿弥陀仏の仏さまです。
 南無阿弥陀仏のおはたらき一つで
煩悩具足の迷いの私がそのまま救われる
阿弥陀仏の本願念仏のご法義なのです。

 南無阿弥陀仏一つということに
阿弥陀さまのお姿を通してお釈迦さまのお姿を
偲ばせていただきます。

 弥陀釈迦二尊にいつも護られて
「汝、正念にしてこの道を来い」と喚んでくださる
お喚び声に「おまかせします」とお念仏申して
お浄土への道を今日も一日ご一緒させていただきましょう。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2010.9.25)


人それぞれの思い出(2009年アーカイブ)

2022-09-24
 昨日はお彼岸のお中日で
お墓参りに行かれた方も多いようです。
 先週の土曜日からシルバーウィークという連休で
各地の行楽地が大変賑わっていたようです。

 行楽地に行くといって
皆さん行く所は大体決まって同じですから
道路が混む中を行楽地に行くまでが大変
行ってからが大変そして帰るのが大変と
それこそ運転するお父さんは
疲れ果ててしまうということでしょうか。

 行楽地に行くとか非日常の営みの中に
思い出をつくるといいますが
その思い出はその人人で違って
同じ家族で同じ場所に居ても
それぞれ違った思い出が残るものです。
 そのことをいつまでも思い出す人もあれば
すぐ忘れてしまう人もいます。

 特別な思い出だけではなくて
日々の生活の中にふっと思い出されることがあります。
 今日一日の日暮しの中にも
そうしたことがあるかもしれません。

 私たちの生活日々の営みというのは
一人で生きてるわけではありません。
 いろんな方々とのつながりの中で生かされてあり
私たちは南無阿弥陀仏の中心をいただいて
お念仏申す生活をさせていただいています。

 今日明日といつもの年と少し遅れましたが
お彼岸のお勤めをさせていただきます。
 それぞれ生活ぶりが違う私たちお互いが
今日明日と円光寺の本堂阿弥陀さまの御仏前に
座らせていただけることです。

 それは単なる思い出ではなく
南無阿弥陀仏の大きないのちのつながりのなかに
生かされてある私たちお互いであると
気付かせていただくご法縁になってほしいと思います。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2009.9.24)


円光寺
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