「ブッドバイ南無阿弥陀仏」
2022-11-13
どなたもおはようございます。
今日は雨になりました。
仏壮の例会が雨になるのは珍しいことですが
雨の中もこうして仏さまのご縁をいただける有難さです。
11月28日で住職を退任いたします。
住職として仏教壮年会のご縁はこれが最後になります。
お寺には仏教婦人会、壮年会、青年会、子ども会の
対象別の教化団体の組織があります。
ご門徒衆の中で自ら手を挙げてくださった
お寺に思いをもった会員で構成され
お念仏のご法義繁盛のお手伝いをしてくださる
住職からいいますと大変心強い方々です。
日頃からお寺のご縁に進んでお参りされ
お聴聞される皆さんです。
日頃からのご縁があってということで
今日もこうして月に一度日を決めて
会員の皆さんが集まってお念仏の交流をはかります。
今日のお話です。
本願寺出版の月刊誌『大乗』からのお話で
ご門徒皆さんにもお配りしている
<法語カレンダー>の11月のことば
「たとえ一人になろうとも仏はあなたと共にある」
を味わうご法話です。
雪山隆弘さんの著書
『ブッドバイ』の中のことばです。
住職退任という人生の大きな節目にあって
これまでのことをちょっと振り返ります。
32歳から12年間本願寺別府別院で
大分教区内約290ヶ寺のお寺の教化活動に関する
お仕事をお手伝いさせていただきました。
仏教婦人会や壮年会などを担当して
今振り返って本当に有難かったのは
教化団体の活動行事に関して
事務的なことが主な仕事でしたが
総会や研修会で必ずご法話の時間があり
この先生のお話が聞きたいということで
ご講師の選定をさせていただいたことです。
全国的に活躍されている先生で
お寺や組では中々ご縁をいただけない
ご講師のご法話を聞かせていただける役得です。
その中のお一人が雪山隆弘先生でした。
富山のお寺の方で夕方飛行機でみえました。
大分空港までお迎えに行って
別府の別院近くのホテルにご案内しました。
7時か8時頃になっていて
私の仕事はこれで終わりで失礼しますということですが
「ちょっと話をしましょう」と呼び止められて
ホテルのロビーでコーヒーを飲みながら話をしました。
初めてお会いする先生ですが
とても人なつっこく話も軽妙で面白く
殆ど聞き入っていました。
雪山先生はちょっと変わった経歴のお坊さんで
私自身大変興味がありました。
新聞社に長くお勤めで交友関係も広く
ラジオのパーソナリティなどのご縁で
アナウンサーの玲子さんと知り合い結婚したそうですが
玲子さんがお寺の娘さんだったことで
雪山先生が入寺した形になったわけです。
お寺関係ではない一般の交友関係が多くあり
大変アイデアが豊富な方です。
40年前も今もお坊さんが愚痴をこぼすように
「お寺に人が集まらない」と言いますが
雪山先生は「お寺に人が集まることをしよう」と
落語会や永六輔さん浜美枝さんの講演会を企画して
日頃は人がまばらな本堂がいっぱいになったといいます。
何か笑顔がいっぱいのお寺の光景が
思い浮かんで楽しいですね。
そして子どもや若い方にお寺のご縁をと
立ち上げたのが「雪ん子劇団」です。
発声練習から基本的な所作など定期的に何回も
練習を重ねる本格的な劇団活動で
その成果がすばらしい舞台となって
その地域だけではなく
富山県や北陸そして本山にも評判が広がりました。
これからのお寺のあり方を構築する上で
貴重な人材として期待される中で
ガンになったのです。
発見が遅く余命宣告を受ける状況で
雪山さんは「命のある限り仏さまの教えを伝えたい」と
全国各地を精力的に飛び回ってお取り次ぎをされました。
大阪の生まれたお寺が行信教校という
若いお坊さんが教学を学ぶ伝統ある有名な学舎で
小さい時からお念仏の中に
育てられたものがあったのですね。
雪山さんの中では
若い時分は自分がやりたいことをして
歳を重ねるなかでお寺のこと布教に出たりとかいう
思いがあったかどうかはわかりませんが
人生残された時間がないということで
また雪山さんの話が聞きたいという
声がいっぱいかかりました。
玲子さんが日程調整していたのだと思いますが
ガンを抱えて心配ですよね。
いつどんな形で急変するかもしれないなかで
雪山さんの思いが一番分かっているからこそ
そうしたご縁で大分に来ていただきました。
「一緒に話しましょう」と
これからのお寺のことを次々に話されました。
話したかったのですね。
時間があったら一人でも多くの人に
仏さまのお話をしたかったのですね。
その時お話されたなかに
今月のことばの話がありました。
ブッドバイの話です。
私たちは人と別れるなかで「さよなら」と言い
「グッドバイ」と言うこともあります。
このグッドバイという言葉は
グッドは神さまを意味するゴッドから来ており
バイはそばにという意味です。
英語圏の神さまはキリスト教の神です。
グッドバイは単なるお別れの時の慣用語ではなく
「いつも神さまがそばにいますように」と
お互いが言いかけ合う祝福の言葉なのです。
私はあなたと今日はここでお別れしますが
また会う時まで
「神さまが共にご一緒してくださるように」と
シーユーアゲイン「また再び会いましょう」と
再会を期して別れるということです。
雪山さんの発想がすごいのは
「グッドバイ」を仏教でいうと「ブッドバイ」と
言い換えるセンスです。
仏は仏陀ブッダで
ブッドバイは「いつも仏さまがそばにいますように」
という意味ですが
私たちの仏陀阿弥陀仏は
いつもそばにご一緒くださる仏さまです。
阿弥陀ブッダは私が頼まないお願いしないのに
阿弥陀さまの方がこの私を必ず救うと
南無阿弥陀仏のおはたらきで私のところに
いつでもどこでもどんなことがあっても来てくれて
ご一緒くださる仏さまに成ってくださったというのが
浄土真宗阿弥陀如来の本願念仏のお救いの法です。
今日も皆さん南無阿弥陀仏とお念仏が出ましたね。
「お念仏しましょう」と誰かが旗をふり号令して
お念仏申したのではありません。
御仏前に座って手が合わさってこの口から
お念仏の声が出てくださったのです。
南無阿弥陀仏の阿弥陀さまのおはたらきが
もうすでに皆さんのところに届いているしるしです。
それもご一緒にです。
ご一緒に南無阿弥陀仏とお念仏申せる有難さです。
お念仏申すご縁はここだけではありません。
お寺の本堂とかお墓やお仏壇の前は
お念仏が出やすいですが
いつでもどこでもというんですから
ナンマンダブツとお仕事をしていても遊んでいても
食事していても風呂に入っていても寝ていても
そのままこの口から出てくださるお念仏です。
私が頼まないのに阿弥陀さまの方が私と共にあると
「たとえ一人になろうとも仏はあなたと共にある」と
南無阿弥陀仏のおはたらきです。
その大本の仏さまは阿弥陀さまですが
ご法事のご縁に遇わせていただく
私たちのご先祖有縁の仏さまです。
お浄土の仏さまと成って
南無阿弥陀仏と私のところに還って来てくれて
この私をいつでもどこでも護り通すぞ救い取るぞと
お念仏の声で喚んでくださる仏さまに成ってくださったと
「ブッドバイ」です。
皆さんもこの私も命を終えて往きます。
その時が来ます。
聞いておきましょう。
大丈夫安心して「ブッドバイ南無阿弥陀仏」と
お念仏を申して大切な方をお浄土に送っていけるのです。
そしてお浄土の仏さまに成って
この迷いの世に懐かしい方々のところに
還って来れるのです。
ただ懐かしいからではありません。
仏さまのお仕事です。
有縁を救うと
縁あるものを一人残さず救い取っていくぞと
この私をです。
他にもたくさんの先生のお話を聞かせていただき
有難いお育てをいただきました。
お寺の住職としてお育てをいただいたのは
ご門徒皆さんがいたからです。
皆さんがいたからこそ
今日もご一緒にお勤めができたのです。
一人でもお勤めはできるじゃないかと
お寺にお参りしなくても自分一人でできるといって
そうでしょうか難しいですよ。
ここで私がお勤めをして
振り返ったら誰もいないということでは
もう明日からやめようかではありませんが
そんな怠け心が出るのがこの私です。
そういう私たちがこの御仏前に座ることで
南無阿弥陀仏「必ず救うまかせよ」のみ教えに
この私が遇わせていただくのです。
いろんなことがあったこの人生だったけれども
人間に生まれてよかった
あなたに会えてよかったと有難く振り返れます。
皆さんのお父さんお母さん有縁の仏さま方です。
そして今日ここにお集まりの皆さんです。
人間に生まれてあなたに会えて本当によかったと
ブッドバイ南無阿弥陀仏のご縁を有難くいただきます。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.11.13)
お寺はお念仏の宝の山です(2011年アーカイブ)
2022-11-12
最近ご縁ができた
乙津川の川向こうのマンションにお参りしています。
8階のお家から鶴崎三佐の方を見ると
今まで見たことがない風景が広がって見えます。
私たちはこの目でものを見ていますが
その目の立ち位置ものの見方によって
上から角度を変えて見ると
通常見ている風景とは随分違って
何か違う町に来たようで
鶴崎の町も大都会に見えます。
手前を乙津川が悠然と流れています。
その下流に目をやると円光寺の屋根が見えます。
今は近くに高いビルが建って
昔と違って見えにくくなりましたが
それでもお寺の屋根は皆さんの所からも見えるように
大きく高くそびえたつ山のような造りになっています。
「動かざること山の如し」と
<風林火山>の旗印にあるように
山は動かない、変わらないということです。
お寺には山号があって
円光寺は浄華山ですが
元々お寺は人里離れた山にあったという意味と
真実変わらない真実の仏法を説くお寺という意味です。
浄土真宗のお寺は
お念仏の宝の山です
私の心は瞬時にコロコロ変わります。
生死のこの身も変わって行きます。
この世の中のあらゆる事象が
刻々と移り変わる不安な中にあって
真実仏法は変わらないと
仏法を依りどころに安心して生きて往ける仏道を
私たちは往生浄土のお念仏の道とお聞きします。
お念仏の先人は日々の生活のなかで
お寺の大きな高い屋根を見て
お念仏を申して生きて往かれたのでしょう。
南無阿弥陀仏とお念仏を申すところに
阿弥陀如来の仏さまがご一緒してくださる安心です。
阿弥陀さまはずっと遠い彼方にましますのではなく
ナンマンダブツとこの口からお念仏が申されるところに
「われにまかせよ必ず救う」と
南無阿弥陀仏のおはたらきとなって
私と共に生きてくださる仏さまになってくださったと
喜ばれていかれたのでしょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2011.11.12)
言葉が命
2022-11-11
法務大臣の発言が波紋をよんでいます。
法務大臣の職務は朝死刑執行のハンコを押して
昼のトップニュースで報じられる時だけの地味な職務で
法務大臣は金にも票にもならないという内容です。
身内のお仲間の議員の会合といいます。
新聞の報道ではこれまで何回もそうした発言を
身内の会合で繰り返していて
それを聞いた人から笑いが起こったといいます。
同じような光景が思い出されます。
東京オリンピック組織委員会の
森会長の女性蔑視の発言です。
その時も出席者から
笑いが漏れたといいます。
政治家は言葉が命です。
大衆に演説で政策を訴えます。
魂のこもった命がけの言葉です。
固い話のオンパレードでは耳を傾けてくれない
聴衆の心を引きつけるには
柔らかい話を交えて笑いをとる話術も魅力です。
森さん然り麻生さん然りです。
演説が面白いといわれる政治家の話は
時として人を傷つける危ない失言も聞かれます。
聴衆に受ける話といって
政治家は芸能タレントではありません。
受けるための話ではない
ニュースでテレビに顔が出るために
政治家をしているわけではありません。
国民の財産と安全を守る政治を実行する政治家であって
冗談を言ったり人を茶して笑わせる話ではありません。
政治家として人びとの信頼を裏切る
あってはならない今回の事態です。
仏法を語るお坊さんも言葉が命です。
ご法話は仏さまのお話で
阿弥陀如来のお念仏のお救いの法を
正しく分かりやすく有難く伝えていくことです。
そのお話はまたいつもの仏さまのお話です。
同じ話でもご縁ご縁に有難く
聞いていただければよいのですが
いつもの同じ話と揶揄される思いがどこかにあって
お聴聞される皆さんの心を引きつける
たとえ話や例話であったり世間一般の話をするわけです。
そうした一般受けする話が
人を傷つけるようなこともあるのです。
まさに言葉は両刃の剣です。
私もこうしてお話をしているなかで
皆さんを傷つける言葉を発することも
あったのではないかなと思います。
さきほどの話で会場から笑いが起こったときに
「その話は問題があるんじゃないの」と
言っていただけたらなと思います。
気づかないんです。
それ以上に皆さんが笑うと
話が受けたと勘違いして有頂天にもなって
話しても大丈夫とお墨付きを頂いたように
勝手に思い込んでいよいよ気づかないのです。
愚かですね。
本当のことを知らない
本当のことに気づかない
愚かな私です。
何か阿弥陀さまの教えを
自分の手柄にして話しているのかもしれません。
恐いことです。
私たちの社会にはいろんな方がいらっしゃって
ものの見方考え方が人それぞれ違いますが
「念仏のみぞまこと」と
南無阿弥陀仏のお心を聞かせていただいて
自己中心の私のあり様を直してもらいます。
話すことで聞こえてきます。
お念仏を申して南無阿弥陀仏のお心を聞かせていただき
お念仏を申す身にさせていただく
阿弥陀仏の本願念仏のお救いのご法義です。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.11.11)
お念仏喜び申して私にできる精いっぱいのことをさせていただきましょう
2022-11-10
浄土真宗阿弥陀如来のお救いは
そのままの救いといいます。
こうしなさいああしなさいと条件をつけて救う
仏さまではありません。
「あなたはあなたのままでいいから必ず救う」
と聞いて
「このままでいいのだ」と胡坐をかいて
何もしなくても救ってくださるのが他力本願と
懈怠の日々を送っている人がいませんか。
「いつも私が一緒だよ。
どんなことがあってもあなたをずっと護り通すから
大丈夫安心して
あなたはあなたの命を精いっぱい輝かせて
一緒に生きて往こう」と
南無阿弥陀仏のお心が本当に受けとれたら
「私にできる精いっぱいのことを
させていただきます」と
日々たしなみの心がめばえるのです。
蓮如上人の時代
越中五箇山の赤尾の道宗さんは
「一日のたしなみは
朝つとめにかかさじとたしなむべし。
一月のたしなみには
ちかきところ御開山様の御座候ところへ
参るべしとたしなめ。
一年のたしなみは
御本寺へ参るべしとたしなむべし」と
自らに言い聞かせておられたそうです。
「そのまま救う」と阿弥陀如来のお心に
遇わせていただいた喜びの上からは
朝夕のおつとめをさせていただこう
月一度は親鸞聖人のみ教えを喜ぶ法座に
参らせていただこう
一年一度は親鸞聖人のまします本願寺に
参らせていただこうと
道宗さんは一日、一月、一年を過ごされたのですが
そこは私にできる精いっぱいのことを
させていただくということです。
人が見えるからこうしないといけないというと
しんどくてなかなか長続きがしません。
私にできることでいいんです。
今日もお朝事のご縁に
阿弥陀さまにお礼ができました。
ナンマンダブナマンダブとお念仏申す私たちを見て
親鸞さま蓮如さまもご一緒に
お念仏を喜び申しておられるのかなとふっと思って
今日一日もお念仏を申すなかに
私にできる精いっぱいの御恩報謝の
お手伝いをさせていただきましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.11.10)
世界で一番恐い動物とは
2022-11-09
今朝梵鐘を撞き終わって西の空を見ると
満月が低くあって煌々と一際輝いていました。
昨夜は全国的にお天気に恵まれて
皆既月食の天体ショーを眺め楽しんだ人が
多かったのではないでしょうか。
皆既月食は太陽の光を地球がさえぎることで
月食と月を食うというように
月が欠けていく現象です。
今は科学の時代で
こうした自然現象を私たちは知っていますが
私たちの先人が生きた
親鸞さまの鎌倉時代や
蓮如さまの室町時代の人たちは
こうした現象をどのように見ていたのでしょうか。
月食はともかく日食です。
昼間太陽が月に隠れて欠けていき
日中なのに急に暗くなるのです。
何か悪いことが起こるのではないかと
不吉な思いを抱き不安で迷う人が
多かったのではないでしょうか。
実際に悪いことが起こったとして
それらの現象と因果関係があるわけではないのですが
当時の人は不吉な悪いことを回避するために
神仏に祈ったりしたのでしょう。
では科学が進歩した今の時代
今までわからなかったことが
科学で解明できるようになって
迷う人がいなくなったかというと
ますます迷っているのです。
科学で解明できないことがまだまだ多い中で
一番解明できないことは何かというと
この私なのです。
アメリカの動物園に
「世界で一番恐い動物」と書かれた檻があるそうです。
その檻を覗くと鏡があって
鏡に映った自分の顔が見えたというお話です。
世界で一番恐い動物こそ
この私と教えてくれるエピソードです。
親鸞さまはわが身を煩悩具足の凡夫といわれましたが
他人事ではないこの私のことです。
縁があれば何をしでかすか分からない
この私です。
私は大丈夫
そんなことは絶対しませんよと言いたいけれども
縁が整えば盗みをしたり人を殺すこともできる
この私だと仏法は教えてくれます。
科学では解明できません。
それもこの私だけのことではなく
人人それぞれがあって
この社会を構成しているのですから
迷いますよね。
阿弥陀さまは南無阿弥陀仏のおはたらきで
迷う私をそのまま救う
仏さまに成ってくださったのです。
「この道を来い」と阿弥陀さまが喚んでくださり
「この道を往け」とお釈迦さまが勧めてくださる
往生浄土の道を
お念仏を申してご一緒させていただきましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.11.9)