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お念仏を申す生活法話

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お念仏の今の救い

2022-10-10
 今日はスポーツの日という
国民の祝日です。

 10月10日といいますと
前は体育の日の祝日で
58年前の1964年昭和39年に開催された
東京オリンピックの開会式の日でした。

 今年は今日がハッピィマンディの祝日で
たまたま10月10日ということです。

 三連休です。
土日に祝日が重なります。
 このところ三連休が9月に2回連続あって
そして今週と3回続きます。

 三連休に何をしようかなということです。
これから秋の行楽シーズンに入るということで
紅葉を見に旅行に行ったりと
コロナも少しおさまって旅行割引もあったりして
外出する機会が多くなってきます。

 ただ行くのは我が身です。
この身をもって行かないと旅行も買い物もできません。
 何かしようと思ってるうちに
瞬く間に三連休が過ぎ去り
ずっと家に居て何をしていたのかなというのがこの私です。

 でも生きてましたよ。
しっかり生きてましたよ。
 何もしなかった何もなかったわけではなくて
家に居ても何かがあってしっかり生きてましたよ。

 そんな私を丸ごと支えてくださるお念仏です。
お念仏を申す生活のなかに
いろんなことがあるでしょう。
 自分にとって都合の良いこともあれば
悪いこともあれば
何しよったんやろかということもあるでしょう。

 ただ生きてますよ。
お念仏を申して生きてますよ。

 お念仏を申して
南無阿弥陀仏のおはたらきの中に
私たちは生かされて生きて
老いて病んで命終えていきますが
そのまま阿弥陀さまのお浄土に往き生まれると
平生業成の今の救いと聞かせていただきます。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.10.10)


あるがままに今を生きる

2022-10-09
 仏教壮年会の10月の月例会です。

 10月は一年の大きな節目の一つで
夏から冬への衣替えの時節でもあります。
 ただ今年も猛暑の夏でお彼岸を過ぎても暑く
10月に入ってもまだ夏服の生活でした。

 ところがこの数日急に冷え込んで
東京では一昨日最高気温が北海道より低くて
半袖から一気に長袖を着込む事態になったそうです。

 一昨日久しぶりに大阪に行きました。
コロナが始まって直ぐの一昨年の2月に
京都のご本山にお参りして以来で
2年8カ月ぶりです。

 新幹線で新大阪で下りて大阪梅田に戻り
私鉄に乗り換えるのですが
コロナ禍の中で人が溢れるように多いことに
びっくりしました。

 コロナ前とはいきませんが
人出が通常に戻ってきているような感じです。
 ただ皆さんマスクをしています。
以前は異様な光景でしたが
今はマスクをするのが当たり前になりました。

 今日のお話です。
『大乗』というご本山から発行されている
広く門信徒向けの月刊雑誌があります。

 この4月から内容が変わって
若い執筆者が多くなりました。

 若い人の発想が違っていて良いです。
お坊さんも歳を重ねると頭が固くなります。
 私も若い頃は柔らかかったと思いますが
単に柔らかかったらいいということではありません。
 お聖教のお勉強をしていないで
好き勝手なことを言ってる書いてるわけではありません。

 その中で一つ紹介したいのは
<お寺の掲示板>というページです。
 これが面白いのは専門用語を使わないで
短い言葉で仏教の奥義を表すことです。

 掲示板による伝道活動に目を付けた
若手の僧侶たちが
<輝け!お寺の掲示板大賞>を企画して
全国のお寺さんから掲示板の言葉を募集するのです。

 第一回目の大賞は
「釈尊 お前も死ぬぞ」という言葉でした。
 釈尊とは仏教を開か入れたお釈迦さまです。
「釈尊 お前も死ぬぞ」とは
お釈迦さまも私たちと同じ人の身を生きて
80歳で亡くなりました。

「お前も死ぬぞ」とは私たちにも向けられた言葉で
私たちは無常の世の中に無常の身をもって
生きているというこの身の事実です。

 無常とは
あらゆるものはすべて変わり行くという真理です。
 いつまでも若く歳をとりたくないけれども
日々歳を取っていきます。
 いつも健康でいたいけれども
病気になる時は病気になります。
 そしてどんな人も地位や名誉や財産を築いた人も
有名人も名もなき人もみんな最後は
この命終えていくのです。

 無常のわが身をお釈迦さまの教えをいただいて
生きることが肝要というのです。

 うかうかしていたら何もしないままに
空しく過ぎて命終えていくと
せっかく人間に生まれて来て
これじゃあ何ともったいないといただきます。

 何のために人間に生まれて来たのかと
それはね仏法に遇ってお念仏の教えを聞くために
人間に生まれて来たんだよ
お念仏の教えに遇えてよかったねと命終えていき
後の方に南無阿弥陀仏のお念仏を遺していくのです。
 そのことの大切さを
「釈尊 お前も死ぬぞ」といただきます。

 今月の言葉です。
「吾輩は凡夫である 自覚はまだない」です。
「吾輩は猫である 名前はまだない」の
夏目漱石のフレーズです。
 面白いなと思います。

 ここに凡夫とあります。
凡夫とは平凡な一般的に愚かな人を意味し
仏さまからいったら私のことです。

 親鸞聖人は「煩悩具足の凡夫」といわれ
「凡夫とは、われわれ人間のことであるが
真の智慧がなく、煩悩がその身にみちみちて
欲は多く、怒り・うらやみ・ねたむ心も
やむことなく湧いて
いのちの終わるときまで
とどまらず・消えず・たえぬのである」と仰せです。

 凡夫の自覚といって
人からあなたは凡夫ですね愚か者ですねと
言われたら
皆さんはどう思いますか。

 私は腹が立ちます。
凡夫かもしれないけれども
「アンタから言われたくない」と思いますし
自分の方から「愚か者ですみません」と謙遜して言って
相手から「やっぱりそうですね」と返事をされたら
2倍3倍と腹が立って険悪な空気になります。

 それほどまでに凡夫という愚かさの自覚を
心に持つことは大変に難しいことです。
 
 凡夫とは私のことと聞かせていただいて
表面上は凡夫を自覚しているような振る舞いをしますが
歳を重ねていろんなことを経験して
ああそうやなと思いつつ
やっぱり私が私がと自己中心の思いはからいをもって
生きているのがお互いではないでしょうか。

 人間歳をとったら丸くなると
若い頃よく聞きました。
 若い時は無鉄砲で周りの迷惑を考えることなく
私が私がと前へ前へと進んできました。

 苦い経験もするなかで
歳を取ったら人間丸くなると生きてきて
歳をとりました。
 そして人間丸くなったかというと
かえって角が立ってきました。
 私が私がという思いはからいです。

 私たちはどこまでもあらゆる煩悩を
兼ね備えた凡夫だなと思います。

 毎朝大分合同新聞『東西南北』のコラム欄を
楽しみに読んでいます。
 私たちの日生活のなかで
ハッと気づかされることが多く面白いです。

 今日は高齢者の健康法ということで
一日一万歩のことが書かれてありました。
 歳をとって健康で長生きする方法で
一日一万歩歩きましょうということですが
一日一万歩を目標にするあまり
一万歩歩かないといけないと無理をすると
かえって健康に良くないという話です。

 大体一日に六千歩ぐらいが良いという
研究結果が紹介されていました。
 それも毎日ではなく週に3、4日程度で
歩き方に工夫をしましょうということです。

 数字だけを目標に歩くのではなく
時には速足とか重りを付けて歩くとかの工夫です。

 なるほどなと思いました。
私も体調を壊したこともあって
この十数年来ずっと
一日一万歩を目標に歩いています。

 スマポでほぼ正確にカウントしてくれますから
スマホを見ながら歩いています。
 これが一つの励みになっていることでもありますが
しんどい時があります。

 夜になってノルマが達成されていないとき
今日はもう歩きたくない
早くゆっくり休みたいと思います。
 でも頑張るんです。
今は八千歩以上を目標にしてますが
調子の良い時には更に五百歩千歩と頑張るのです。

 私の思いはからいです。
数字は目安になりますが
それにはからうあまりに
健康を目ざすことが足を痛めたりと逆効果になります。

 生身の身体を生きているということです。
生老病死の生身です。
 壊れたら直す部品を交換するという
機械ではありません。
 そこに思いはからいがあり
この身はみんなそれそれ違うのです。

 人それぞれで歩数はみんな違っていいし
生活ぶりもみんなそれぞれ違います。
そしてそれぞれ工夫しているのです。
 同じ三食食べるといっても
中身はそれぞれ違います。
違うなりに工夫しているのです。

 そうして私たちはそれぞれ生きてきたのです。
これからも生きていくのです。
 ただ凡夫の身は変わりませんと
仏さまの教えです。
 凡夫の身は変わらないけれども
凡夫のわが身のことと聞いていこうということです。

 わが身のことと聞いていく中に
御仏前に座らせていただき
ご一緒にお勤めができて
この口からお念仏を申す身にお育ていただくのです。

 仏さまのご縁をいただきました。
お念仏の仏法を聞かせていただきます。
 煩悩具足の凡夫の身は
これからもずっと変わらないままに
南無阿弥陀仏のおはたらきで
凡夫をそのまま救う阿弥陀さまのご縁に遇わせていただき
お念仏申す身にさせてくださるのです。

 そのまま救うてくださるのです。
賢くなって救うのではありません。
善いことをして救われるのでないのです。
 ただ善いことはしましょう。

 あるがままの私をそのまま救うてくださる
南無阿弥陀仏のおはたらきです。
 あるがままそのままです。

 先日アントニオ猪木さんが亡くなりました。
最強のプロレスラーといわれ
モハメドアリ戦を私も観ました。
 卍固めやコブラツイストなどの必殺技を繰り出して
皆さんも真似をして遊んだのではありませんか。

 最後は難病でベッドに横たわり
立つこともできない車椅子の生活でしたが
痩せ細った闘病の姿を何とそのまま
発信していたといいます。

 「強い時の私だけではない弱い時もある
健康な時だけではない病気に冒されることもある
これがありのままの私あるがまま」と言われたそうです。
 凄いですね。

 今は病気で入院すると
「お見舞いは結構です」と断られる方が多いそうです。
 病気になってこんな姿を見せたくない
健康で元気な時のイメージを大事にしたい
これもはからいです。
 何かしんどいですね。

 あるがままに今を生きて
それでいいんだよと
南無阿弥陀仏のおはたらきでそのまま救う
お念仏のご法義です。

 お念仏申してこの凡夫の身を生き抜いて
お念仏申して命終わる時にそのまま
阿弥陀さまのお浄土に生まれさせていただけると
聞かせていただき
今をあるがままに生きてまいりましょう。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.10.9)


お寺で会える楽しみ(2010年アーカイブ)

2022-10-08
 昨日一昨日と二日連続で
あんのん館で夜の会をもちました。

 一月1回一年間連続の<百華のつどい>
「浄土真宗門徒基礎学習講座」のご縁です。

 一昨日は「あざみの会」の開講式で
昨日は「はなみずきの会」の修了式でした。

 <百華のつどい>ということで
それぞれお花の名前を付けた会で
修了生には各会の名称を記した
特製の門徒式章を記念に差し上げます。

 両会とも男性ばかりの会でした。
男の方がお寺にお参りするご縁は
あるようで中々ありません。

 ご門徒さんのお家のご法事には
男性の方が多くお参りしますが
お寺のお参りの中心は女性の方が中心です。

 お昼はお仕事でお昼のご縁に遇うことが難しく
夜はお家でゆっくりされる方が殆どです。

 仕事で忙しいからとお寺参りできない方は
退職して時間ができたらお参りされるかといって
中々どうして時間ができたらできたで
自分の趣味や興味あることに活用することはあっても
お寺参りということは先送りの連続で
結局お寺にご縁がないままに
人生を終えて行くことになりかねません。

 お寺参りの肝要は仏法聴聞させていただくことで
この私一人がお念仏のご縁に遇うことが
お寺参りの大事なのです。

 特に男女の区別なくお参りいただければよいことですが
あえて男性だけの会ということで個人宛にご案内し
知り合い同士が声をかけ合ってお参りしてくださいました。

 お寺を預かる住職として
ご縁のある方にお寺参りしていただく
これほど嬉しいことはありません。

 共々に仏法聴聞して
お念仏申す身にお育ていただくことこそ
私が人間に生まれた尊い意味だと聞かせていただきます。

 思えば夜という時間です。
仕事から帰って風呂に入りお酒でも飲んで食事をして
テレビを観ながらゆっくりゆったり過ごすのが
私たちの一般的な日常です。

 そうした日常生活のなかで
これが毎日というと大変ですが
皆さんそれぞれが思いをもって
月に一度はお寺参りのご縁をいただきましょうと
お話をさせていただいたことです。

 大変有難いことです。
これから皆さんとお寺で会える楽しみができました。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2010.10.8)


真っ白なお念仏のキャンバス(2010年アーカイブ)

2022-10-07
 昨夜はノーベル化学賞に
日本の鈴木章さんと根岸英一さんが受賞された
というニュースで日本中が沸きました。

 80歳と75歳の化学者で
受賞対象となった研究は
もう30年40年前の研究成果だそうです。

 研究ということですが
どういう成果があるのか
最初から成果が見えるということでは全くありません。

 研究というのは
新しい分野を切り開くということです。
 殆どの場合研究成果という結果が
出ないままに終わることが多いなかでの研究です。

 そのなかでもノーベル賞を受賞するというほどの研究は
今までにない研究で著しい成果があったという評価です。

 この快挙をテレビで解説していた同じ分野の化学者が
今あるものに何かを加えるというアイデアや発想では
新しい分野は切り開けないので
真っ白いキャンパスに絵を描くという発想をもって
常に研究にあたっていく姿勢が大事だと
おっしゃっていたことが印象的でした。

 このことは私たちの人生の歩みのなかでも
言えることだと思います。
 私たちの人生は
先人の歩んだ道を訪ねていくということで
真似をするということが結構あります。

 学ぶということは真似ることであり
善き先達の真似をして人生を学び生きていきます。

 真っ白いキャンバスに絵を描くということは
私の心は日々移ろい
今日一日をどう生きるのかについて
一日一日が真っ白なキャンバスということです。

 お念仏に生きる私たちにとっては
真っ白なお念仏のキャンバスです。
 お念仏申し南無阿弥陀仏の教えを聞かせていただいて
今日の私の歩みを描いていくことです。

 お念仏のキャンバスは
常に私と共にあり私をいつも支えてくださる
私の生きる帰依処です。

 人の真似をする学ぶことも大切ですが
その根底にある私の帰るところ原点です。

 今日もこうして南無阿弥陀仏とお念仏を申す
日暮らしを始めさせていただけます。
 今日一日お念仏のキャンバスに
何を描いて生きるのかわくわくしながら
共々に生かされて生きてまいりましょう。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2010.10.7)


私の人生の目的地

2022-10-06
 仏さまから見ると
私たちは迷いの凡夫といわれます。

 「あなたは迷っている」と言われて
「はいそうです」と私のことと受け入れるのではなく
あの人は迷っているけれども
私は大丈夫ぐらいに思っているのが
私なのではないでしょうか。

 道に迷ったという話です。
近くにその地域の地図を見つけました。

 地図には必ず現在地が載っています。
現在地を見て
<今私はどこにいるのか>か確認できます。
 そして次に目的地を見つけて
そこに行くまでの道順を確かめます。

 現在地と目的地がわかったことで
迷いを離れることができるのです。

 私は今どこにいるのか。
私たちは今ここ円光寺の本堂にいます。
 ここが私の現在地です。
そしてこの後皆さんそれぞれのお家に帰ります。
 帰る処があるなかに
私たちは今ここで安心していられるのです。

 私の目で見て確認できる
現在地と目的地ですが
人生の道行きでいうと
私はどこに向かって生きているのでしょうか。

 人それぞれに人生の歩みは違いますが
私たちがこの命終えてどこに行くのか
私たちの人生の目的地を
阿弥陀さまはお浄土と用意をしてくださっていると
浄土真宗の教えを聞かせていただきます。

 私が歩む私の人生ですが
目的地が分からないと迷うことになってしまいます。
 
 私は一体どこに向かって生きているのか。
私の歩む道ですから
私が自分で決めることが道理のようですが
自分で決めたところで
命終えて行く処は
自分の思いはからいを超えた処です。

 つまりは迷いの中に
命終わって次の世に生まれて
また生まれては死に生まれては死にの
生死の迷いを繰り返すことになります。

 「まかせよ救う」の南無阿弥陀仏のおはたらきで
阿弥陀さまが決めてくださったお浄土に生まれて
お念仏のさとりの仏さまと成って
この迷いの世に還って来ると聞かせていただきます。

 南無阿弥陀仏の大きないのちのつながりのなかに
お念仏申して今生かされて生きて
命終わるときそのままお浄土に往いて生まれるのです。

 私のいのちの現在地と目的地を
阿弥陀さまの方ですでに決めてくださって
私たちはお念仏申し安心してお浄土への人生を
生きて往けるのです。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.10.6)


円光寺
〒870-0108
大分県大分市三佐3丁目15番18号
TEL.097-527-6916
FAX.097-527-6949
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