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お念仏を申す生活法話

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宗教と政治

2022-10-20
 テレビの国会中継を観ています。
世界平和統一家庭連合(旧統一教会)関連の質疑が
野党を中心に多くの時間を割いて行われています。
 新聞テレビ等マスコミも連日
この問題を取り上げています。

 名称からして分かりにくいですが
宗教法人格をもった宗教団体です。
 霊感商法で多くの被害相談があり
多額の献金問題では信者家族の被害告発で
宗教法人に解散命令を出す事態になってきました。

 私たちのお寺も宗教法人です。
国が定める宗教法人法という法律の下で
宗教法人としての活動を行っています。

 宗教と政治の関係です。
宗教的理念を政治に反映することについて
僧侶も個人の思想信条の自由から
政治活動を制限されるものではありません。

 ただ個々の政治参加が団体組織になると
曲者なのです。
 組織を構成するのは人間です。
そこには人間の思いはからいが入ってきます。
 それも組織を構成する人が増えれば増えるほど
それぞれの思惑が混雑してややっこしくなります。

 民主主義の多数決の原理は
組織としての方向性を
より多くの構成員の意見を反映したものにすることですが
大きな組織になると一部の権力者の思いのままになって
本来の目的宗教でいったら教えが
どっかに飛んでしまうような事態になりかねません。

 そして組織の危機に直面する時
自分たちを護ろうとするのが人間がつくる組織なのです。
 人間なのです。
自分を守るということです。

 組織がややっこしいのは
それぞれの思惑が違う人が沢山同居していることです。

 宗教団体はみんな同じ信仰をもった人の集まりで
教祖を中心に組織は一つと言いたいですが
それぞれがみんな違う生活をしているということで
色んな思いが出てくるのです。

 今回の旧統一教会のことでいうと
教会側は今回のことを教義の上から
これはサタン悪魔の仕業で
今は耐え忍ぶしかないといいます。

 今回の発端は安倍元首相の銃撃暗殺事件です。
元統一教会の問題は
霊感商法や合同結婚式で話題になっていた頃から
被害救済を求めて信者の家族二世信者といわれる方
そして弁護士支援者が
ずっと取り上げ続けてきたことですが
これまで公に出てこなかったのです。

 元統一教会と政治との関係です。
政治家は選挙のために宗教団体を利用し
宗教団体はその見返りを得るという構図です。

 有力政治家の旧統一教会関連団体への関与が
教団を擁護し被害を増長し続けてきたということです。

 今実際に何が起こっていて
何が一体問題なのか。

 宗教は人それぞれの内心の自由に関わることで
政治権力が宗教法人に解散命令を出すことについては
よほど慎重にあるべきです。

 日本が戦争の時代
宗教団体は政治権力に弾圧されるか
蜜月の関係を結んで生き延びてきました。

 その時どきの政治社会の体勢で
宗教団体組織のあり方が揺れ動く歴史に学び
移り変わる社会の情勢に惑わされることなく
日頃から仏法聴聞に心がけて
お念仏を申す生活につとめていきたいものです。

 わが身の愚かさ傲慢さをそのまま映してくださる
鏡のようなお念仏の教えに謙虚に向き合って
私にできる精いっぱいのことをさせていただきましょう。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.10.20)


喜びも悲しみも仏さまのご縁です

2022-10-19
 先週の土曜日にお寺さんの仏前結婚式があり
司婚のお役をつとめさせていただきました。
 仏前結婚式の司婚者は
お葬式でいったら導師ということです。

 お寺の方の結婚式の司婚は初めてで
二か月ほど前にご依頼されましたが
いつものように間際になって
バタバタ準備することで
不安もあってかなり緊張していたようで
終わってから周りの関係者に
「お疲れさまでした」と言われて
すぐ出た言葉が
「疲れました」という正直な気持ちでした。

 70歳になって体力的なこともありますが
大勢の人の中でお坊さんがつとめるお役目で
当然のように思われるかもしれませんが
生身の人間がつとめることで大変疲れました。

 私が住職としてご門徒有縁の方の
仏前結婚式の司婚をつとめたことを思い出します。

 このお寺の本堂です。
昭和52年竣工の当時は珍しい
鉄筋コンクリート造りのモダンな本堂です。

 畳敷きの柱のある従来の木造ではなく
絨毯敷きの一本も柱がない広々とした空間を
私の父前住職がどのように活用したかというと
一つはお葬式です。
 ご門徒皆さんのお葬式を
この本堂で行いました。

 親鸞さまのお誕生を祝う降誕会のバザーなど
お祝いの会も本堂でしました。
 机を三四脚並べて四角いテーブルを4つ5つ作り
パイプ椅子に座ってちょっとしたパーティです。
 私も仏教青年会の活動で
若い人に集まってもらうご縁を企画しました。

 お寺の本堂でお葬式の悲しみのご縁も
喜びのご縁もできました。

 今日も朝から陽がスーッと本堂に差し込んできます。
お寺の本堂のイメージでいったらどうでしょう
薄暗い中に仏さまがいらっしゃって
荘厳さを醸し出す雰囲気もいいですが
初めての方にはちょっと入りにくい
敷居の高い感じがありませんか。

 今は座布団に座る本堂から椅子席のお寺が
一般的になり照明なども工夫して
明るい本堂になりました。

 皆さんに開かれたお寺の本堂に
気軽にお参りいただき
仏さまのお話を聞くだけではなく
一緒に顔を合わせおしゃべりできる
社交的な雰囲気のあるお寺を思います。

 お葬式の時だけのお寺ではありません。
結婚式もできます。
 昨日は七五三の話をしましたが
子どもさんの初参りとか学校の入学卒業
就職成人式など節目のお祝いもお寺でどうですか。

 喜びも悲しみも仏さまのご縁です。
お寺のご縁にお参りいただき
ご本尊の阿弥陀如来さまを中心に
お念仏を申す日暮らしを
ご一緒に始めさせていただきましょう。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.10.19)


大きなお骨と小さなお骨

2022-10-18
 一昨日の日曜日に円光寺墓地で
墓じまいのご縁が2件ありました。

 1件のお家のお墓には
お遺骨が4つありました。
 施主のお父さんお母さん
おじいちゃんおばあちゃんです。

 もう1件のお家には
大きなお遺骨が2つあって
小さいお遺骨が4つありました。

 そこのお家は皆さん50回忌が済んでいることで
多分お墓の開けて内を見るのは
50年以上ぶりだと思います。

 皆さんのお家のお墓も平生は見ることは
中々ないと思いますが
開けてびっくりというか
「ああこんなになっとるの」ということです。

 大きなお骨は施主のお父さんお母さんで
小さなお骨はその子どもたちということです。
 施主の娘さんが
「えっお母さんこんなにきょうだいがいたの」と
言っていました。

 施主の方もよく分からない
自分が生まれる前のことなのです。
 戦争前後の時代です。
食糧難で医療技術も乏しく
体力も抵抗力もない子どもたちが
出産から2歳3歳までで
たくさん亡くなられて逝ったのです。

 七五三はこれからの成長を願う節目のお祝いですが
実はようこそこれまで元気に生きてくれたねという
感謝のお祝いなのです。

 そんな苦難の時代を生きて亡くなって逝かれた
子どもさんの小さなお骨です。

 あらためて私たちのいのちの尊さを思います。
この歳まで生きてきました。
色んなことがあって生きてきました。
 ただ生まれて順調に生きてきたのではありません。
お父さんお母さんをはじめいろんな方々に
支えられ生かされて生きてきたのです。

 人間だけではありません。
今日この後皆さんも私も朝ご飯をいただきます。
 いのちをいただくんです。
多くのいのちに恵まれて生かされて
生きているということです。

 この人間界に生を受けて
生かされて生きているこの私ですが
蓮如上人は今日の御文章のなかでも
人間に生まれた限りは
どうか仏法に遇って阿弥陀仏のご本願のお心を聞いて
信心いただいてくれよお念仏申す身になってくれよと
繰り返し何度も何度も仰せです。

 この世の人の命はいつか終わりますが
死んだら終いではありません。
 南無阿弥陀仏のおはたらきで
阿弥陀仏のお浄土に生まれて仏となり
無量のいのちをこれらもずっと
生かされて生きて往く
今日もこの命恵まれて
このお朝事のご縁から始めさせていただきましょう。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.10.18)


お念珠に手を通して合掌念仏礼拝の作法です

2022-10-17
 ご法事のご縁でご法話といって
仏さまのお話をさせていただきます。
 日頃仏さまのご縁に遇うことが難しく
ご法事で初めて仏教のお話を聞く方も多いと思います。
 まさに有ること難い仏さまのご縁です。

 昨日ご法事がありまして
お念珠のお話をしました。

 皆さんはよく知ってらっしゃることですが
仏さまにお参りするとき
お念珠の中に手を通して合掌し
南無阿弥陀仏とお念仏申して
お礼をさせていただく作法のお話です。

 ご法事のお勤めが終わってから
お参りの家族三人がお念珠を取り出して
何か話しているので
気になって「どうしましたか?」と尋ねると
今まで仏さまを拝むのに
お念珠を片手に持ってそのまま
もう一方の手を合わせて合掌していたというのです。

 お念珠の中に手を通してお参りするのですねと
念を押すように言われました。

 お念珠は房を下にして左手に持ちます。
大きな親玉という珠が一番下にあって
時計の3時9時のところに小さな珠が二つあります。
 親玉は仏さまのことをいい
両方の小玉はお父さんとお母さんをいいます。

 そしてたくさんの珠はこの私を育んでくださる
人であり多くのいのちを表す珠です。
 これらの珠をつなぐ一本のひもは
仏さまのお経さま教えを表します。

 私たちでいったらお念仏の教えです。
阿弥陀仏の親玉がつなぐ南無阿弥陀仏のみ教えに
みんなつながっているいのちの中に
この私が生かされて生きているそのままが
お念仏に手を通して仏さまにすべてのいのちに
お礼を申させていただくことで
「ありがとうございます」と頭を下げるのではなく
頭が下がる南無阿弥陀仏のお心おはたらきなのです。

 テレビドラマなどを観ていると
お仏壇やお墓にお参りするシーンに出あいますが
お念珠を持たずにそのまま手を合わすことが殆どで
お念珠を持ってもお念珠をかけた手に
他方の手を合わせる姿を多く見ます。

 実は宗派によってそれぞれお念仏のもち方
合掌礼拝の作法が違ってあるのです。
 ややっこしいことですが
宗派ごとに作法の意味があり大事なことなのです。

 他の宗派の作法は置いて
肝心要は私たち浄土真宗本願寺派の作法の意味です。
 ただ人のまねをするのが作法ではなく
お念仏の教えに基づく仏事作法なのです。

 お念珠の中に手を通すことで合掌ができます。
そのままお念仏申してお礼ができます。
 合掌念仏礼拝と一連の作法がこの身について
今日も皆さんの口から南無阿弥陀仏と
お念仏が出てくださいました。

 お念仏申す身にお育ていただいて
本当に有難いことです。
 南無阿弥陀仏の「必ず救うまかせよ」の
阿弥陀さまのお心おはたらきがこの身に届いて
今日も一日お念仏申して共々に
生かされて生きてまいりましょう。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.10.17)


やなせたかしさん(2013年アーカイブ)

2022-10-16
 漫画家のやなせたかしさんが
94歳でお亡くなりになりました。

 「アンパンマン」という
超人気アニメシリーズの作者です。
 昨日テレビの追悼番組で
「手のひらを太陽に」の歌を作詞したことについて
話されていました。

 若い頃よく「ぼくらはみんな生きている
生きているから歌うんだ
ぼくらはみんな生きている。
生きているから悲しいんだ」と歌っていました。

 何で「生きているから悲しいんだ」って
作詞されたのですかと聞かれて
やなせさんは「生きていれば悲しいこともあるし
楽しいこと喜びもあるということを書きたかった」
と答えていました。

 生きていれば悲しいことも苦しいこともあると
私たち誰もが経験することですが
悲しみ苦しみに打ちひしがれて
何か自分独りの世界に閉じ籠ることに
なってしまいます。

 「手のひらを太陽にすかかして見れば
真っ赤に流れるぼくの血潮」と続きます。
悲しい苦しい中にも生きているということです。
 そして「ミミズだってオケラだってアメンボだって
みんなみんな生きているんだ友だちなんだ」と
自分一人ではないみんな生きていると歌います。

 仏教は生老病死の四苦といって
生きることは老いることだよ
生きることは病むことだよ
生きることは死ぬことだよと
教えます。

 そのことだけを聞くと何かもの悲しい
聞きたくないことですが
老病死の身を生きることは
私自身のことであり本当のことです。

 本当のことですが
自分のこととして聞きたくない知りたくないと
本当のことに向き合おうとせず
避けて逃げて生きているのではありませんかと
仏さまは教えます。

 私たちは生きることに向き合うなかで
悲しみ苦しみに出あっていかねばなりませんが
そこに本当に生きることの尊さがあり
みんな一緒に生きている大きないのちの世界があると
聞かせていただきます。

 一方アンパンマンです。
正義の味方アンパンマンです。
 正義の味方というと悪者をやっつけるイメージですが
アンパンマンはただ悪者をやっつけて
懲らしめるのではありません。

 アンパンマンは何でアンパンマンかというと
お腹のすいている人がいれば自分の顔を食べさせるなど
困っている人を自らできることで助けるのです。
 ここに正義の味方の真骨頂があると
いうのではないのでしょうか。

 アンパンマンの世界は敵も味方もない
困っている人がいたら互いに助け合って
みんなが一緒に生きている世界です。

 やなせさんは戦争で4年間中国に
出兵していたそうです。
 食べるものがなく毎日ひもじい思いをして
生死を彷徨う極限の状況のなかで
餓死寸前の人が何人もいるのに
どの国がこの国があの国がと
正義を振りかざして鉄砲を打って
戦争なんかするんじゃないと思ったそうです。

 一番の正義は
みんなが本当に幸せになるということです。
 ぼくらがみんながです。
私だけではなく人も多くのいのちも
共にぼくらがみんな生きているのです。

 みんな生きているなかに
みんなそれぞれ違う生活ぶりです。
 困ってらっしゃる生活の方もいれば
そうじゃない方いろんな方がいるのです。

 色んな生き方人生の歩みをするなかに
僕らはみんな生きているのです。
 これこそお念仏の世界ではないかなと思います。

 やなせさんのコメントのなかに
お念仏とか阿弥陀さまとかいう言葉が
出てくるかどうかわかりませんが
小さい頃からのお育てを
いただいたことではないでしょうか。

 先人から伝えられた大切なものを受けとめて
また私たちに伝えてくださる
お念仏のご法義でいうならば
そこに南無阿弥陀仏の大きなおはたらきがあると
聞かせていただきます。

 この目には見えないけれども
大切なものを確かに教えてくださっている。
 ぼくらはみんな生きている
生きているから悲しいんだ。
 皆みんな生きている
生きているから友だちなんだと
日々の生活のなかで歌い味わってみたいと思います。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2013.10.16)
円光寺
〒870-0108
大分県大分市三佐3丁目15番18号
TEL.097-527-6916
FAX.097-527-6949
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