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お念仏を申す生活法話

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お寺の納骨堂の案内チラシ

2022-10-25
 昨日新聞広告に大在の長光寺さんの
納骨堂の募集チラシが入っていました。

 納骨堂のチラシ広告は結構多いのですが
同じ寺の住職の立場でよく読むと
今までの納骨堂の広告とは基本的に違います。

 お寺の納骨堂を含めてこれまでの広告には
必ずといっていいほど
「宗派を問わず」と大きく表示がありました。

 お寺の門徒檀家に限らず誰でもいいですよ
ということですが
長光寺さんは
「ご門徒様向け納骨堂なので
別途年間5,000円の護持会費を頂きます」と
丁寧な文章で書かれてありました。

 宗派を問わず誰でもというと
宗教は誰にでも開かれた教えであり
個々の信教の自由ということからも
うんと頷けるところですが
その人人のものの見方考え方が
多様で違うことから受け止め方も様々なのです。

 そして一番の注目は金額ですね。
金額はやっぱり安い方がいいというのが一般の感覚です。
「お金の余裕の無い方には
有縁合葬墓(一壷10万円にて受け入れ)」
と提案が書いてありました。

 納骨堂を求めたりお墓を建てるには
かなり高額の経費がかかります。
 すぐお金の工面ができずに
お遺骨をそのままお家に置いている方が
結構多いと聞きますが
そういう方への配慮だと思います。

 円光寺は納骨堂の納骨壇も残り少なく
「門徒に限る」と規約にも明記して
ご門徒中には今後の納骨事業について
合同墓をつくるなど種々提案して
墓じまいの相談にも応じています。

 最近電話で納骨堂の問い合わせが多くあり
「門徒にならないといけないのですか」と聞かれます。
 どこのお寺も門徒に限ると言っているのでしょうか
「はい。門徒になってもらって受付けます」と答えると
「わかりました」と電話が切れてしまいます。

 門徒になることに抵抗があるのでしょうね。
お葬式を頼まれるときも
「門徒になっていただきます」と言うと
「門徒にならないとお葬式をしてくれないのですか」と
何かこちらが責められるような返答をされます。

 要はお寺の門徒になると
お寺の護持会費を払う義務とか
お寺の普請等で多額の寄付を求められることへの
心配だと思います。

 長光寺さんは今度新規に納骨堂を建てたことで
一般に向けて新聞広告を出したと思いますが
門徒に限るということでいえば
門徒に向けての広告でいいわけです。

 初めてのご縁の方に向けての案内でもあって
門徒でない人を排除していることではないのですが
そういうものの見方をする方がいらっしゃるのです。

 門徒さんあっての浄土真宗のお寺です。
ご門徒有縁の皆さんが思いをもって
御懇志を寄せてくださって
お寺が建立され
これまで何百年も護持されてきたのです。

 浄土真宗のお寺の中心はお念仏のご法義です。
南無阿弥陀仏のみ教えを聞かせていただき
一人でも多くの人に伝えていくための
お寺でありこの本堂なのです。

 ご門徒有縁の皆さんがお参りできてる
私たちのお寺です。
 お寺それぞれに工夫をして
お寺の護持運営をはかっています。
 ご門徒皆さんには文書等でその都度お知らせをし
お寺のご縁でお話をしていることですが
皆さんのご理解とご協力を宜しくお願い致します。

 チラシに「3種の納骨方法の提案」とありました。
お寺からの提案です。
 こうしなければならないということではなく
いくつかの提案をさせていただくことで
お家お家のご事情に応じて
ご相談させていただくことです。

 こうしたご相談もお寺参りのご縁です。
お念仏のご縁になっていただきたいものです。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.10.25)


お浄土から阿弥陀さまの道案内です

2022-10-24
 一昨日の土曜日ご法事で南大分の方にお参りしました。
初めて行く所で大きな団地の中にあるお家です。

 お家の方から地図をもらっていましたが
分かりにくく不安でしたので
これまでも何回か利用した
スマホで道案内をしてもらいました。

 スマホで「何町の何丁目何番地何号」と検索すると
ばっちりその家の前まで道案内してくれる
大変便利な優れものです。

 ただ問題はその道中です。
山を切り開いて造成した団地です。
 先方からもらった地図には
通常一般に利用する幹線道路から
団地の入り口までの道案内が記されていましたが
スマホが案内してくれたのは
人家のない急な坂を右へ左へと
上って行く最短距離の道だったのです。

 途中大変不安になりましたが
戻るわけにもいかずスマホの案内通りに行って
目的地の団地のお家に着くことができました。

 スマホ機能の凄さを再確認しましたが
帰路は家の人から教えてもらった
日頃使っている道を帰りました。
 高台から左右同じような人家がいっぱいの
曲がりくねった道を下りて行きましたが
一筋道を間違えたら他の団地に入り込んで
迷ってしまうようなことでした。

 私たちが命終えて往くお浄土のことを思います。
お浄土へどのように往くのかということです。

 南無阿弥陀仏のおはたらき一つで
お浄土から阿弥陀さまが道案内です。

 迷う私を見抜かれて
阿弥陀さまが「まかせよ救う」と喚んでくださり
私をそのままお浄土に連れて行ってくださるのです。

 往生浄土のお念仏の道は
「最勝の直道」といって
どんな人もお念仏申してすっと往ける
お浄土に一直線の最短距離の道なのです。

 お念仏の先人は
「私が居る次の間がお浄土」と
味わわれています。

 道案内の話に戻しますと
ナビよりもっと確実な道案内がいます。
 そのお家の人が来てくれて連れて行ってもらったら
眠っていても目的地に案内してくれて一番安心です。

 阿弥陀さまが「念仏申して来いよ」と
南無阿弥陀仏の道をご一緒くださるのです。
 先にお浄土に往かれた先人も
私たちにお念仏を勧めてくださっています。

 今日もお朝事のご縁で
親鸞さま蓮如さまのお手紙をいただき
南無阿弥陀仏のお心を聞かせていただいて
往生浄土の道すがらをご一緒させていただきましょう。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.10.24)


私一人のこだわり楽しみ(2010年アーカイブ)

2022-10-22
 昨日いつもの所に水汲みに行きました。

 そこで地元の小学3年生の先生から
「子どもたちのインタビューに答えて下さい」と
言われました。

 「どこから来ましたか」「月に何回ぐらい来ますか」
という簡単な質問でしたが
「何回来ますか」という質問にちょっと考え込みました。

 月に何回もいつも来ているわけではありません。
それこそ思い出す程度です。
二か月三か月に一度くらいということでしょうか。

 ところが傍で同じように聞かれている方を見ると
沢山のケースいっぱいのペットボトルに
水を汲んでいるのです。
 この方は二週間に一回いや一週間に1回ぐらいは
来ているのかなと思ったりしました。

 水は私たちが生きて行く上で
なくてなならない大切なものです。
 私たちの身体も殆ど水でできていますし
まさにいのちの水であり
この地球も水の惑星といわれます。

 水はそれほど大切なもので
水道の蛇口をひねったら
水はあふれんはかりに出てきて
日本では飲み水にできるのに
何でわざわざ遠方まで
水を汲みに行くのかということです。

 ここの水じゃないとコーヒーが美味しくない
ご飯が美味しくないと
一つのこだわりをもって
水を汲みに来るのでしょう。

 これは水に対するこだわりですけれども
皆さんは日々の生活のなかに
何かこだわりをもっていることってありませんか。

 こだわりということと
とらわれということは違います。
 これがとらわれてしまうと大変です。
ここの水じゃないといけないといって
この水以外は絶対飲まなかったら死んでしまいます。

 何か物事にとらわれてしまう恐さを思います。
こだわりとは私一人の楽しみ
ということではないでしょうか。
 人がどうこうではなくって私はこうだという
信念みたいなものです。
 別に頑固に他の人にもこうしないと
勧めることではありません。

 私一人のこだわり楽しみです。
皆さんは日々どんなこだわり楽しみをもって
生活されていますか。

 このお朝事のお寺参りのご縁も
私一人のこだわり楽しみの一つになったら
本当にいいなあと思います。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2010.10.23)


私のすべてを見て取ってそのまま救う南無阿弥陀仏のおはたらきです(2009年アーカイブ)

2022-10-22
 昨日水曜学校があって
子どもたちにゲームを考えてもらい
宝探しというゲームをしました。

 本堂の中に一人が隠した宝を
みんなで探すゲームです。
 そこに積んでいる聖典の一番下に
宝物の紙切れを隠しました。
 ヒントを出してその辺りをみんなで探し
聖典も上から順番に繰って探すんですが
一番下に置いているのに
途中までいってやめるのです。

 そういうことって
私たちの日常の中にもよくありませんか。
 大事な物がなくなったと
騒ぎ立てて探すんですが
実はすぐ近くに直し込んでいることがあります。

 その辺りをちょこっと見て
ここにはないと早合点して次の所を探すといった具合です。
 ちょっと見るだけで
ちゃんと見ているかというと
見ていないことが多いんです。

 私たちは人と人とのつながり
関係の中で生きていますが
その人人をちゃんと見ているでしょうか。

 中々見ていないというか
外見だけでちょっとした情報でちょっと話しただけで
嫌な人だと思ったりすることってないでしょうか。

 嫌な人だ会いたくないと思ったら
近くにいても顔を合わせることも
中々難しいのです。

 私たちの阿弥陀さまは
言うことを聞く人だったら救うというのではなく
言うことを聞かないこの私だからこそ
この私が聞いてくれるまで
阿弥陀さまはずっと喚びかけ続けるのです。

 私の方を向いてくれよお念仏を申してくれよと
南無阿弥陀仏のおはたらきで
ずーっと願い通しなのです。
ずーっと喚び通しなのです。

 そしてやっとこうして
阿弥陀さまの御仏前に座らせていただいて
阿弥陀さまに向き合うことができたのです。

 迷いの世界に苦悩する私のすべてを見て取って
「そのまま救う阿弥陀はここにいるぞ」と
立ち上がり喚んでくださる
南無阿弥陀仏のお慈悲の中に安心して
共々に生かされて生きて往けます。
 
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2009.10.22)


この場所で生きて、あなたに会えて本当によかった!

2022-10-21
 昨日プロ野球のドラフト会議という
一年一度の恒例行事がありました。

 行事といって
対象になる選手は気が気ではありません。
 小さい頃からプロ野球選手になる夢をもって
野球を続け意中の球団に入りたいという夢もあります。

 ただ選手本人が希望球団を選択できるのではなく
球団から選択されるのです。
 だから思い通りに行かなくて
指名されてもすんなり入団ということにはならず
指名を拒否して浪人するケースもありました。

 悲喜こもごもの色んなドラマがありましたが
江川の空白の一日とか
清原桑田をめぐる物語です。

 ドラフトでその選手の野球人生が
決まるということではありません。
 周囲の大きな期待で意中の球団に入っても
ずっと二軍暮らしで結局一軍出場がかなわず
志半ばでプロ野球界を離れる選手もたくさんいます。

 ドラフトはゴールではなくスタートです。
そこからが新たな出発で
厳しい練習がまっているのです。

 スタートとは
その人人にその場所が与えられるということです。
 私たちの人生に置き換えると
その人人の生きる場所です。

 具体的にいうと仕事です。
その人の人生を通じて
どういう仕事に就くのかということです。
 選択肢はいっぱいありますが
一つ選ぶのはこの私です。

 私の仕事はこれだと選んでも
思い通りに行かないこともあります。
 逆に「あなたはこの仕事に就きなさい」と
他者から言われたら私はちょっと背中を向けそうです。

 仏さまのご縁という言い方をします。
ご縁があってこの私です。
 ご縁があってこのお寺に生まれて
ご縁があってこうして今日もお朝事のお勤めを
皆さんとご一緒させていただけると
仏さまからいただいたご縁です。

 この人生を振り返って
良いことも悪いこともあったと
自分の思い通りになるようなことも
思い通りにならないこともたくさんあったと
でもね
人間に生まれて本当に良かった
仏さまのご縁に遇ったことを有難く思います。

 あなたに会えて本当に良い人生だったと
今日も一日お念仏申して
生かされて生きてまいりましょう。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.10.21)


円光寺
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大分県大分市三佐3丁目15番18号
TEL.097-527-6916
FAX.097-527-6949
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