「はて?」法の下の平等とは
2024-09-28
朝ドラ『虎に翼』が終わりました。
日本初の女性弁護士で後に裁判官になった
三淵嘉子さんが生きた戦前戦後の激動の時代を
法曹界の変遷とともに描いたドラマです。
戦前の民法で家庭にあっては「無能力者」と規定され
社会的に自由に生きる権利がなかった女性のあり方に
「はて?」と繰り返す主人公の疑問に
現代を生きる私たちも共感しつつ
同性婚や夫婦別姓の問題も重ねて取り上げ
同じ課題に今も苦しみ悩む人がいることを
何度も思い起こさせてくれた異色の朝ドラでした。
裁判では裁判官や検事弁護士のそれぞれの役割があり
法律用語がたくさん出てきます。
ドラマの第1話は
戦後施行された『日本国憲法』の第十四条
「すべての国民は、法の下に平等であって、
人権、心情、性別、社会的身分又は門地により、
政治的、経済的又は社会的関係において、
差別されない」のナレーションで始まります。
そしてドラマが進展する中で
弁護士事務所の壁に書き出された条文が
何度も映し出されます。
法の下の平等です。
法治国家の根幹となる基本的人権の尊重です。
この法とはこの国の憲法法律のことで
私たち国民の代表機関である
国会で制定されるものです。
ただこの法解釈はその時代社会のあり方
裁判の判例によって変わります。
ドラマの中で史実として
尊属殺人罪(自己・配偶者の直系尊属・父母や祖父母の
殺人で、死刑か無期懲役が下限とされた)が
憲法に合憲か違憲かの裁判が詳しく描かれていました。
昭和48年の裁判で
法の下の平等に反するとの違憲判決がでて
後に刑法改正で尊属殺人罪が廃止となります。
このように法律も法解釈も変わって行くもので
国によってその法律の規定が違うということです。
世の中の法は人間がつくるもので
その時どきの社会のあり方を反映し
万人に平等なものであるべきですが
そこに為政者の思いはからいがはいることに
私たちは注意しなければなりません。
大国ロシアのウクライナ侵攻で
国際社会は「国際法の支配による秩序」を言いますが
それぞれの国の思惑があって今も戦争は続き
イスラエルによるパレスチアのガザ攻撃も
終わりが見えません。
国際法による解決をと国連で声を上げても
武力による残虐な殺人行為と環境破壊が
それぞれの自国の法によって正当化され続きます。
仏教を開かれたお釈迦さまは
万人に共通の真実普遍の仏法を説きます。
お念仏の仏法でいうと
阿弥陀さまの大きなお慈悲のなかに
生きとし生けるものすべてどんな人も等しく救われると
南無阿弥陀仏の名号法のなかの平等です。
いつでもどこでもどんな時でも
すべてのいのちをそのまま救う名号法です。
世界中のどんな国の人も
どんな社会どんな時代にあっても
変わることがない真実普遍の法のおはたらきのなかに
あなたも私も皆共に
安心して生かされて生きて往けるのです。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2024.9.28)
「明日が来ないでほしい」
2024-09-27
袴田さんの再審裁判で
無罪判決です。
昭和41年(1966年)の事件から58年です。
一家4人殺害事件で逮捕され自白をもとに
死刑判決を受け死刑囚として拘留されます。
袴田さんは初公判から無罪を主張
死刑確定後も何度も再審請求をして
2014年に再審開始が認められ釈放されますが
死の恐怖にさいなまれ極度の拘禁症状がのこり
今も続いて意思疎通ができない状態だといいます。
袴田さんは拘置所で「明日が来ないでほしい」と
毎日思っていたそうです。
死刑の執行はその日の朝予告なく告げられ
すぐさま行われるということからです。
「明日が来ない夜はない」と困難な状況の中にも
明日に希望をもって生きる人が多いのに
本当に悲しいですね。
今回の再審無罪判決は
袴田さんの「私は無実だ」との固い信念と
お姉さんをはじめ多くの方々の
長年の献身的な支援があってからこそですが
判決理由に捜査機関の非人道的な取り調べと
証拠の捏造が認定されているように
これはあってはならない明らかな冤罪です。
検察は今度も「捜査に間違いない」と繰り返し
控訴するのでしょうか。
一人の人間のほぼ一生を無いものがごとくにし
大きな不安と恐怖に貶めた罪の重さです。
当時実際に捜査取り調べをした
警察検察関係者全員が職を離れ
殆どが存命していないなかで
どこまで検察の権威とメンツにこだわるのでしょうか。
検察は一体何を守りたいのでしょうか。
事件が起こると犯人逮捕に奔走するなかに
凶悪事件の解決と厳罰を求める社会正義の空気に乗じて
被疑者の人権を根底から無視するようなことが
あったのではないのでしょうか。
私たちが社会生活を送るなかにも
同じようなことが起こっているのではないでしょうか。
自らの正義を振りかざして他者を一方的に責めては
一般世論の多数意見を社会正義と味方につけて
少数派の人たちの人権を侵害するようなことです。
同じ人間同士みんな仲良く楽しく
日暮らしできたらよいのでしょうが
組織社会の中で生きていくとき
私一人の思いを超えた大きな力に
翻弄されてしまうことが
これまでなかったでしょうか。
本当のところはおかしいと思っても
組織内にいて少しでも異論をとなえず
沈黙してしまうことは
結局は自己保身の何ものでもありません。
自分中心の思いはからいでものごとを見る
私たちのものの見方には
真実ありのままを見る目を曇らせる危うさがあると
仏法に聞かせていただきます。
聖徳太子さまは「世間虚仮唯仏是真」といい
親鸞さまは「念仏のみぞまこと」とお示しです。
どこまでも自分中心のものの見方で
それぞれの人生を生きる私たちです。
同じものごとを見る目も
その時代社会その立場でそれぞれ異なります。
だからこそ仏法に聞かせていただくのです。
お念仏申し南無阿弥陀仏のお心を
聞かせていただくことは
ともすれば自分中心に自らの思いはからいで
正義を振りかざし他者を見ては
互いにしんどい思いをして生きている私たちに
あなたの私も共々に阿弥陀さまのお慈悲のなかに
生かされて生きていることを教えてくださり
どうかお念仏申して自他ともに心豊かに生きてくれよと
聞かせていただきます。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2024.9.27)
無縁遺骨の行先
2024-09-26
人が亡くなり火葬されて
あとにお骨が遺ります。
身寄りのない独り暮らしの方が増えて
このお遺骨の引き取り手がないことで
市町村の自治体が苦慮しているといいます。
市町村で身寄りがいないかどうか調査をしますが
たとえ見つかっても遺骨の受け取りを
拒否されることも多いと聞きます。
諸々の事情があってずっと長く疎遠になっており
今更引き取れないというのです。
何か寂しい限りですが
身近な家族親族の関係も
日頃のつながりが希薄になったことを物語るものです。
さて引き取り手のない遺骨は
当該の自治体が保管することになっており
自治体が管理する保管場所に納骨されます。
ただいつまでどういう形で保管するのか
本人の意思確認もできないし
勝手にどうこうすることもできず
結局はそのまま預かって
遺骨は増えるばかりだというのです。
この問題を取り上げた情報番組のコメンテーターは
お墓は後に遺った方が故人を偲び
お参りするためにあるもので
誰もお参りしない遺骨については
土に返すことがいいのではと
意見を述べられていました。
聞き方によれば
誰のものかわからないものは
捨ててしまってもいいのではと
受け止められかねませんが
現実にこれからも遺骨は増え続け
お家のお墓もいっぱいになって
今後この問題は
広く一般的な社会の大きな課題になってきます。
私のご先祖のお遺骨です。
そして私の遺骨の行先です。
日本における葬送は
近年火葬になりましたが、それまでは土葬でした。
先祖代々のお遺骨で私たちが目にするのは
せいぜい4代5代前のものです。
それまでの先祖の遺骨はというと
数え切れないほど無数にあるはずですが
この目で見て確認できるものは皆無で
みな土に返っているということです。
近年葬儀社や納骨事業者を中心に
永代供養墓の提案が
ネットや広告チラシでされています。
お墓の維持管理が子や孫の負担になると
墓じまいをして永代供養墓を求める方が
多くなったということです。
私の遺骨の行先です。
これからさまざまな選択肢が増えてくるでしょう。
墓地納骨堂を管理運営しているお寺も多いことから
お寺もいろんな要望に応えて
さまざまな提案をさせていただくことになるでしょう。
お盆やお彼岸にお墓参りされる風習は
日本各地でまだまだのこっています。
私のいのちの大恩人である
ご先祖のお墓にお参りしてお礼ができることは
大変意味のあることです。
南無阿弥陀仏の大きなお慈悲のおはたらきのなかに
先に往かれた方も隣りにいる方も共々につながって
往生浄土の人生を生かされて生きてまいりましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2024.9.26)
この体たらく!
2024-09-25
政治の世界を見るにつけ
今も昔も変わらず
離合集散を繰り返す人間のエゴ丸出しの様相です。
ドラマの世界だったら
これほど面白いものはありませんが
現実に私たちの生活に直結することで
笑ってばかりいられません。
何とも歯がゆいもどかしい次第です。
立憲民主党の代表選挙を経て
昨日新体制の執行部人事が発表されましたが
さっそく党内から不平不満が噴出する有様です。
「新代表はこれでノーサイドというが
キックオフの始まりだ」との声も聞かれたとか……。
自民党の政治とカネの問題を追及し
派閥政治の悪癖を指摘する政党が
同じようにグループをつくっては
党内抗争に明け暮れる体たらくを
私たちに公開しているようなものです。
ただこのことは政治の世界だけのものではなく
私たち人間が生きる社会には
付きもののように見受けられる光景です。
何かのグループに帰属することで自らの保身をはかり
力のある人の顔色をうかがい
他のグループとの力関係をはかり
自分の都合で付いたり離れたりを繰り返しては
苦悩する私たちです。
まさに五濁悪世の生きづらい社会にあって
煩悩具足の身を生きる私たちに
法然聖人は
「お念仏申されるように生きましょう」とお示しです。
阿弥陀仏のご本願のお心
南無阿弥陀仏のおはたらき一つで救われ
お念仏の世界に共々に生かされて生きる
あなたと私はお念仏のともがらですよと
聞かせていただきます。
親鸞聖人は『歎異抄』で
「つくべき縁あればともない
はなるべき縁あればはなるる」
(一緒になるべき縁があればともに歩み
離れるべき縁であれば別の道を歩む)と
あなたと私の出会いと別れは無数の縁が織りなすもので
学校で職場で趣味やスポーツの会で
同期生、先輩後輩、同志、師と弟子の関係も
親子、兄弟姉妹、夫婦の家族でさえも
それぞれの思いはからいで生きる私たちは
縁があれば共に歩み
縁がなければ離れることもあると
教えてくださいます。
会うも別れも縁次第と言われて
自分の都合にあえば良いのでしょうが
自分の思い通りにならないと
「昨日の友は今日の敵」とばかりに
互いに裏切った裏切られたと
背中を向け合い非難し合う関係にもなります。
お念仏のご縁でつながるあなたと私は
阿弥陀さまのお慈悲のなかに共々に生かされて
生活ぶりはそれぞれ違いますが
同じ往生浄土の道を歩ませていただきます。
お念仏申して自他共に心豊かに
生かされて生きてまいりましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2024.9.25)
いのちの古里
2024-09-24
ある俳優さんが1カ月間地方での撮影で
その土地の人々の温かさに触れて
「故郷とは場所ではなく、人なのかもしれない。
私たち人間は、土地に帰るのではなく
人に帰るんだと思った」と述べています。
進学や就職で故郷を離れて生活することになって
初めて故郷の有難さを知るといいます。
見慣れた故郷の風景が懐かしく思い出され
当たり前のような日暮らしが
本当は有難いことだったと思い知らされるのです。
お正月やお盆に故郷に帰省します。
故郷の山川草木に抱かれ懐かしい人たちに会って
生かされて生きる力をいただきます。
歳を重ねて異郷の地で家庭をもち
家族と故郷に帰省をします。
故郷は私と家族をそのまま
迎え入れてくれます。
私の帰る所が故郷です。
故郷には私を待ってくれてる人がいます。
親兄弟親戚有縁の人たちです。
人に会いに故郷に帰るのです。
また歳を重ねます。
故郷はいつまでも故郷のままですが
待ってくれてる人が少なくなります。
親も亡くなって
故郷に帰るのは親の法事ぐらいになってしまいます。
親に会いに帰ります。
人の命終えても親は親です。
今はお浄土の仏さまとなって
私のことをいつも思ってくださり
「どんなことがあっても私が一緒だから
大丈夫安心して帰って来いよ」と
待っていてくださるのです。
南無阿弥陀仏の大きないのちのつながりのなかに
共々に生かされて生きて
懐かしい方々が待っていてくださる
いのちの古里のお浄土に帰らせていただきます。
お念仏申して先にお浄土に往かれた
お念仏の先人をたずねて
今日一日も阿弥陀さまのお慈悲のなかに
生かされて生きてまいりましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2024.9.24)