「不快なことばを言われても 怒りに流されない人でいてほしい」※転載
2025-02-25
不快な言葉をかけられて
その言葉が心に残って
不快な感情にさいなまれた経験は
ありませんか?
人は皆、好ましいものに対して
心地よい感覚を受けて
「うれしい」という感情が生まれます。
逆に、好ましくないものに対しては
不快な感覚を受けて
「いら立ち」や「怒り」の感情が生まれます。
このように心身を煩わせ、悩ませる心のはたらきを
「煩悩」といいます。
仏教では、人間は無意識に
「自分に都合のいいものさし」で物事を捉え
好き嫌いや損得を判断する
それが煩悩が生まれる理由だと教えています。
人はその「ものさし」に合わない言葉を言われたとき
不快に感じ、怒りの心を発してしまうのです。
お釈迦さまは
そもそも怒りは怒りの心を発した人のもので
わざわざ他の人の怒りを受け取る必要はないと
言われます。
しかし、なかなかそうはいかないのが現実の私です。
けれど、阿弥陀如来という仏さまは
怒りの心に苦しむ私に寄り添ってくださっています。
その優しさに触れるとき
ともに不完全な人間だからこそ
お互いが支え合うべきであると気づかされるのです。
※『本願寺インスタ倶楽部』
(隅倉浩信 本願寺派総合研究所研究員)より転載
ー本願寺新報2025年2月20日号ー
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2025.2.25)

ロシアウクライナ侵攻3年
2025-02-24
ロシアのウクライナ侵攻から3年
両国間の戦争状態は続き多数の死傷者が増え続け
ウクライナ国内では建物の崩壊や環境破壊が進み
大き不安と混乱のなかに市民は今も生活しています。
戦争の正当性にどんな正義を振りかざしても
結局はすべてのいのちの尊厳を踏みにじる
愚かな人間の行為であり
決して許されるものではありません。
とにかく戦争を止めることです。
戦争で雌雄を決することはできません。
敵味方に分かれた戦争に
勝者も無く敗者もありません。
廃墟の中に空虚感だけが残り憎しみ恨みの心が
また次の戦争へと駆り立てるのが
戦争の真実です。
お釈迦さまは
「怨みに報いるに怨みを以てしたならば
ついに怨みの息むことがない」と
述べられています。
今こそ真実の言葉に耳を傾けて
戦争終結のためにあらゆる方策を講じるのが
双方のリーダーの務めであり
全世界の政治指導者の資質が問われている
喫緊の事態です。
このままではただ平和な日常生活を望む
市民の犠牲が増え続けるばかりです。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2025.2.24)

梅が満開です
2025-02-23
この冬何度目かの日本列島を襲う大寒波です。
各地の大雪情報を観ながら
今日は日曜日ということで
自宅でゆっくりを決め込んでいましたが
近くの公園にウォーキングに出かけました。
空は晴れて風もありませんでしたが
冷たい寒気に少し厚着をして
1時間余り歩きました。
幾つもの梅の木にお花が満開です。
紅梅白梅ピンクの梅の花もあって
いつもより少し遅い春の訪れを
告げてくれているようです。
四季折々の自然の営みです。
大いなる自然のいのちのご縁つながりのなかに
私たちもまた生かされて生きているということです。
梅の花もいつも同じように見えて
去年の梅の花ではありません。
毎年新たに命芽生えて花をつけ命終えていく
いのちの物語を生きているのです。
私たちも縁あってこの人間界に生を享けて
いのちの花を咲かせて生きて命終えていきます。
目に見える私のいのちの物語ですが
南無阿弥陀仏の大きないのちの物語の一小節です。
この目に見えないなかに
人の世に生れ出るご縁が恵まれこの世に生まれ
仏法に遇うご縁をいただいて
仏のいのちに成らせていただくのです。
そのすべてのいのちのあり方が
阿弥陀さまのご本願のご縁であり
南無阿弥陀仏のご縁つながりのいのちの物語です。
南無阿弥陀仏のいのちの物語を今日一日も生かされて
往生浄土のお念仏の道を生きてまいりましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2025.2.23)

立場を置き換えてみたら
2025-02-22
大分の町中に車で外出し
2時間余り用事を済ませて駐車場に戻ると
隣りの車のドアが開いて
「あなたの車ですか?」とたずねられました。
続けて「2時間待っていたのですが
実はあなたの車の後ろに私の車が接触して……」と
車の後方にまわってある箇所を指さしながら
「すみませんでした」と謝われました。
どこにもへこんだり
傷ついたりしているところがないことを
お互いに確認してその場を別れました。
私が逆の立場だったら
どうしただろうかと思います。
接触したことが事実でも
見た限り何も損害を与えていなかったら
そのままその場を立ち去ったのではと
思いました。
法律上は何の問題はないとして
接触があった事実は事実としてその時に確認して
「ごめんなさい」と謝れば済む話ですが
確認のために2時間待って
「すみません」と謝られて
こちらこそ2時間も待たせて
「すみません」という気持ちになりました。
他人が見ていないからと
自分の行為に蓋をして善人を装う私がいます。
阿弥陀さまは自分本位の私の有り様を
もう既に見抜かれた上で
「そのまま救うまかせよ」とおはたらきです。
見て見ぬふりをしているのではありません。
いつも見守ってくださっているのです。
お念仏申してあなたも私も皆共に
阿弥陀さまの大きなお慈悲の中に生かされて
生きてまいりましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2025.2.22)

日々の生活の中で仏法を味わう
2025-02-21
法話会のご縁で
コーヒーをいただきながらご法義談義です。
いつもお参りされるお一人のお方と
日々の生活の中で
家族や友人との出来事を通して
ご法義を味わうお話のやりとりです。
気がつくと予定の時間オーバーでしたが
残ったコーヒーを入れ足して
ご法義談義が続きます。
結局お昼の時間になって
法話会のご縁を終えました。
阿弥陀さまのお念仏のご法義です。
帰するところは
阿弥陀さまの「生きとし生けるものすべてを
分け隔てなく必ず救う」本願念仏のお心
「われにまかせよそのまま救う」
南無阿弥陀仏のおはたらきです。
お念仏のご法義に遇って
どこまでも自己中心に生きる
わが身の愚かさあさましさ
ありのままの私のすがたを知らされ
何の条件なしにそのまま救うてくださる
阿弥陀さまのお慈悲の中に生かされて
お念仏申させていただきます。
いつも同じお話のようですが
日々刻々と変わり行く無常の世にあって
煩悩具足の凡夫の身を生き
悩み苦しみ迷いを繰り返す私を見捨てずに
いつも寄り添ってくださる
阿弥陀さまの真実変わらないお念仏の仏法に
大きな安心をいただきます。
お念仏の友がご一緒です。
往生浄土のお念仏の道行きを
共にさせていただくお同行です。
お念仏のご縁に遇えて
本当によかったです。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2025.2.21)
