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お念仏を申す生活法話

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阿弥陀さまの大きく開かれた胸のお心(2009年アーカイブ)

2022-11-19
 昨年の自殺者が
3万人を超えたといいます。
 1日に100人近い方が
自ら命を絶つということです。

 これは大変な数字で
交通事故死者が毎年1万人を超えることが
大変大きな問題になっていたことがありましたが
今はずっと減ってきています。

 私たちの身の周りにも
自死された方がいらっしゃいます。
 ただそのことを知るのは
亡くなってから後のことです。

 自死に至るまでの悩み苦しみを
周りの人に言い出せなくて
自分で抱え込んでしまってということです。

 顔と顔をあわせているなかで
そうした声が聞こえてこないのが
今の社会ということです。

 私たちは同じ社会に互いに生きています。
生きていくなかには楽しいことばかりではありません。
それこそ辛くてその場から逃げ出してしまいたいことも
たくさんたくさん経験してきました。

 そういうお互いだからこそ
互いの心を開いて話をし話を聞くことも
できるはずなのですが
家族といった身内にも
日頃は仲の良い友だちにも語ることができない
苦しみ悩みです。

 阿弥陀如来の本願念仏のお救いです。
南無阿弥陀仏の大きなおはたらきで
すべてのものを分け隔てなくそのまま救うといわれます。

 すべてのものと聞いて私のことです。
私のすべてありのままをご存知の上で
そのまま救うというのです。

 分け隔てなくとは条件なしにということです。
善いことをしたら救うとか悪いことをしたら救わないとか
善悪賢愚老若男女といった私のあり方を超えて
そのままというのです。

 私のすべてをそのまま抱き取って
何でもおっしゃい
辛いことがあったら何でもおっしゃい
言うだけでも心が落ち着くんであるならば
何でもおっしゃいと
阿弥陀さまは胸を大きく広く開かれています。

 あなたの苦しみ悩み涙をここにいっぱい受け止めるから
どうぞ私の胸で思う存分泣いておくれというんですね。
 そこまで私の悲しみ苦しみ悩みを思い取って
お立ち姿の阿弥陀さまです。

 いつでもどこでも阿弥陀さまがご一緒です。
南無阿弥陀仏の大悲のお心を聞かせていただき
あなたも私も共々に
お念仏を申す生活をさせていただきましょう。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2009.11.19)


まだあるか、もうないか

2022-11-18
 昨日は月に一度通う病院で
インフルエンザの予防接種を受けました。

 家に帰り思い立って
まだ受診していない市の基本健診について
早速問い合わせて年内の健診の日を決めました。

 コロナワクチン第5回目の接種券が来ていました。
接種券には前の4回目から5カ月おいて1月1日以降と
書いていましたのでちょっと安心していたのですが
センターに問い合わせると
今は3か月で受けられるようになったということで
今月中のワクチン接種の日を決めました。

 どれもこれも早くから分かっていることで
早くしておけばいいのにということです。

 逆にいいますと
期限があるから安心するんですね。
 来週いっぱいといったら今日するかというと
まだ一週間あるじゃないかと思うのがこの私です。

 今日が11月18日で今度の28日で住職を退任いたします。
あと10日です。
 まだ10日あると思うか、もう10日しかないと思うか
そうしたものの見方の違いです。

 住職継職で私が住職を退任したところで
私がいなくなるわけではありません。
 こうしてお朝事のお勤めをさせていただいております。
いつものこといつものたしなみです。

 蓮如上人のお言葉
「わかきとき、仏法はたしなめと候」をいただきます。
 この若き時とは年齢的なことを言っていますが
人生を生きるなかで今が一番若いということで
一時も早く今仏法に遇うことが大切とのお勧めなのです。

 私たちが生きる世間のことは
期限が切られていることですが
仏法のことについては今しかないのです。

 ところが私たちは仏法のことも世間のことのように
まだまだずっとずっと先の話のように横着に構えて
今は忙しいからまだ若いからといって
仏法に遇うことを先送りにしていませんか。

 こんなことで仏法に遇わずじまいに
仏教を聞かずじまいに人生を終えていくのでは
もったいないことだとのお示しです。

 「仏法には明日はない」と
この命いつどういう形で終えていくか
誰にも分からないというなかで
仏法に遇わせていただく有難さです。

 お寺参りの皆さんにこういうことをいうのは
見当違いの的外れなことですが
よかったですね。

 仏法に遇えてよかったですね。
お念仏を申す身にさせていただいてよかったですね。

 11月28日に私が生きているかどうかも分かりません。
生死の命は分からないけれども「大丈夫だ」と
阿弥陀さまの仰せです。

 いつどんな形でこの命終わろうとも
予約したワクチン接種や検診ができなくても
世間のことは世間のことで
生死のことは阿弥陀如来の「まかせよ必ず救う」
南無阿弥陀仏のおはたらきにまかせて
今日も目が覚めて命をいただいて
生きることができる有難さです。

 今日も皆さんそれぞれの生活ぶりですが
お念仏申して阿弥陀如来のお慈悲の中に
生かされて生きてまいりましょう。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.11.18)


本願の船に乗せていただく

2022-11-17
 お墓に納骨をする際に
大抵施主の方が墓石を持ち上げてお墓を開けます。
 日頃墓石を持つことってありませんから
墓石の重さに戸惑うことを多く見かけます。
 ちょっとした石ですが
結構重たいのです。

 先日紅葉を見に
竹田の岡城址に行きました。
 小高い山に立つお城で
石垣が見事です。

 間近で見ると積み上げられた石垣のどの石も
結構大きなものです。
 どのように積み上げていったのか
遠くからこんな大きな石をどのように運んできたのか
先人の知恵を思います。

 一つが数百㎏というような石です。
到底人間一人の力で抱え切れるものではなく
運んでくることは難儀の上にも難儀なことです。

 この重い石をどう運んできたのかというと
船なんですね。
 水に浮く船の力です。
どんな重い物でも船は水の浮力でそのまま抱えて
運ぶことができるのです。

 阿弥陀如来のご本願のおはたらきお救いを
船に喩えられます。

 苦悩を抱え迷う私を
如来の本願力でそのまま救うてくださるのです。
 如来のご本願の船にこの私をそのまま乗せて
阿弥陀仏のお浄土に渡してくださるのです。

 どういうことでしょうか。
石のように重さを数字で表せないほど
重い重い苦悩を持ち合わせている私のことを
阿弥陀如来は見抜かれて
どんな人もそのまま乗せて渡す本願の船を
用意してくださったのです。

 「そのまま信じまかせよ」と
本願の船に乗ってくれよと
南無阿弥陀仏と喚んでくださっているのです。

 今日17日の御文章の最後に
「われら一切衆生の往生の体は
南無阿弥陀仏ときこえたり」とあります。

 南無阿弥陀仏のおはたらき一つで
私たちはお浄土に往生成仏させていただけるのです。

 本願成就の南無阿弥陀仏の船に
乗ってまかせてです。

 どんなに泳力のある人でも
とても自分の力で泳ぎ切ることはできません。
 いやどこに行くのか目的地自体が分からないで
ただ溺れないように泳ぐだけで
苦悩はいよいよ深まります。

 本願の船は目的地をお浄土と定めて
重いものを抱えた私たちをそのまま乗せて
連れて往ってくださるのですね。
 まさに本願の船の力はたらきです。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.11.17)

光明と名号のおはたらきで必ず救う

2022-11-16
 昨日夜7時頃大分駅に行きました。
駅の構内から出ると
目の前にきれいなイルミネーションが広がりました。

 光のファンタジーです。
駅前の広い空間いっぱいの幻想的な世界に
若者を中心に多くの人が行き交っていました。

 光は本来この目には見えないものですが
電球などで見事に目に見える化したものです。

 今日の御和讃の最初に
「源空光明はなたしめ」
(源空聖人はその身から光明を放って)
とありました。

 親鸞聖人のお師匠さん
本師源空法然聖人のことです。

 法然聖人がこの世にましまして
光明を放ってくださったといいます。
 親鸞さまは法然さまのことを
阿弥陀如来の化身と仰いて敬われました。
 当時の人は勢至菩薩の生まれ変わりと
疑わなかったといいます。

 勢至菩薩は阿弥陀如来の脇侍で
慈悲のおはたらきの観音菩薩と
勢至菩薩は智慧のはたらきといいます。

 智慧の光明です。
智慧の光明を放って
煩悩具足の身をありのままに知らせてくださり
そのままお慈悲のおはたらきで
光明の中に摂取してくださるのです。

 光の仏さま阿弥陀如来の光明のおはたらき
智慧と慈悲のお徳です。
 光り輝く阿弥陀さまのお姿となって
この目に見えてますね。
 
 光明のおはたらきで
「必ず救うまかせよ」と
南無阿弥陀仏の名号を届けてくださり
今日もこの口から南無阿弥陀仏とお念仏申せましたね。

 南無阿弥陀仏と
阿弥陀さまがご一緒です。

 今日このご縁だけではありません。
昨日も一昨日も明日も明後日も
日々私が生きているところに
いつでもどこでも寄り添って
「お前を必ず浄土に生まれさせ仏にさせる」と
おはたらきなのです。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.11.16)


七五三です

2022-11-15
 今日11月15日は七五三です。
7歳5歳3歳になる子どものお祝いです。

 今は生まれた赤ちゃんがすくすくと育ち
3歳5歳7歳の誕生日を迎えるのが当たり前のようですが
戦前戦中戦後の食糧難で医学も進んでいない時代には
乳幼児の死亡率が著しく高く
体力のない子どもが生きることが大変難しかったのです。

 お家の過去帳を書かせていただく時に
幼くして亡くなる子どもが多かったことを思い知ります。
 生まれてすぐ亡くなる子や
1歳2歳3歳4歳と多くあります。

 昔の日本では
生まれた子どもは七歳までは人間界に属さない
という考え方があったといいます。
 七五三の行事は
七歳になってようやく人間として生きていける
いのちになったことを確認する意味があったようです。

 七歳まで無事に育ってきたことを喜び
このいのちを恵まれたという有難さを讃えるのです。

 それは今日のいのちを恵まれた
この私のことでもあります。
 今日もこうしていのちを恵まれました。
まさに生かされて生きてきたのです。

「生かされて 生きてきた
 生かされて 生きている
 生かされて 生きていこうと
 手を合わす 南無阿弥陀仏」

 今日も朝一番に手が合わさって
この口から南無阿弥陀仏とお念仏が出てくださって
今日の一日を始めさせていただける有難さを思います。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.11.15)


円光寺
〒870-0108
大分県大分市三佐3丁目15番18号
TEL.097-527-6916
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