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お念仏を申す生活法話

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「ゴミか、宝ものか」私の見方

2022-12-29
 今まで事務をしていた庫裡の部屋の大転換で
これまで溜まった資料や書類を全部取り出して
整理をしています。

 必要なものと必要ないものに分別して
不必要なものをゴミに捨てるという
単純作業ですが
これが中々思うように進みません。

 何十年も前のものもあり
これまでずっと見たことがない書類ですが
一旦目にすると
いろんなことが思い出されて
捨てきれないでいるのです。

 傍から見ればゴミでしかないでしょうが
私にとっては宝ものみたいな愛しいものです。

 その人人のものの見方価値観の相違で
ゴミになったり宝ものになったりするのです。

 結局捨て切れずに取っておこうとなるのですが
これから先も見ることがあるかというと
ただ手元に取っておくことだけの安心です。

 捨てたら捨てたで諦めがつくのでしょうが
思い切れません。

 捨てるか取るか
取るか捨てるかと
先延ばししても
結局は私の宝ものもゴミになるのです。

 私だけの思い入れであり
私が命終える時に持っていくこともできず
捨てられていくのです。

 阿弥陀さまは摂取不捨の仏さまです。
この私をそのまま摂め取って捨てないと
南無阿弥陀仏のおはたらきです。

 十方衆生を分け隔てなく救う阿弥陀さまに
ゴミか宝ものかの見方はありません。
 どんな人も丸ごと引き受けてくださって
お浄土にすくい取って仏にさせるのです。

 仏さまにさせていただくいのちを
生かされて生きている有難さ尊さです。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.12.29)

ことばの力

2022-12-28
 ネット社会といわれる現代は
SNS上で不特定多数の言葉が行き交いしています。

 誰もが自由に発信できることで
人を勇気づけることもあれば傷つけることもある
ことばの力です。

 言葉巧みに人に声をかけ
犯行に及ぶ事件も後を絶たず
個人攻撃する言葉が「いいね!」の反響を呼び
当事者が苦悩し命を絶つ事件もあります。

 自ら発する言葉は命の息吹きであり
日頃から言葉を吟味することが大事です。

 また聞きの言葉であっても
発信するその人に責任があります。

 言葉が人と人との分断を生むとの指摘です。
言葉は人と人の心をつなぐ
融和の円滑油になってほしいものです。

 南無阿弥陀仏のことばの仏さまです。
阿弥陀さまは南無阿弥陀仏のおはたらきで
いつでもどこでもどんな状況にあっても
今こここの私に至り届いてご一緒くださる仏さまです。

 私だけではありません。
隣の人もその隣の人にも
まだ私が会ったことがない人にも
過去にもそして未来の人にも届いてくださる仏さまです。

 お念仏申すあなたの声が私に届けられて
お念仏申す私の声があなたに届きます。

 あなたと私が南無阿弥陀仏につながって
世界に子や孫に届けられていくのです。

 「いつも阿弥陀が一緒だよ。
どんなことがあってもあなたを見捨てないからね。
大丈夫安心して
あなたの命を精いっぱい輝かせて
私と共に生きて往こう」と
お念仏の声に支えられ励まされて
今日一日も往生浄土の道すがらを
共々に生きてまいりましょう。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.12.28)

「智慧と慈悲」

2022-12-27
 大阪の津村別院発行の
『御堂さん』1月号が届きました。

 毎回楽しみに読んでいます
「仏事の小箱」ですが
今回は特にタイムリーな話題でしたので
そのまま転載させていただきます。

「智慧と慈悲」

 いつかの法語カレンダーに
「バチやタタリで脅すのは、宗教の名を借りた脅迫」
といった言葉が書かれてありました。

 昨年は、社会的に問題のある宗教団体と
政治との癒着が明るみに出て
驚くことばかりでしたが
一体「宗教」のホンモノとニセモノの境目は
どこにあるのでしょう。

 一番分かり易いのは
「バチがあたる」とか「タタリがある」とか言って
不安を煽る宗教は
間違いなくニセモノです。

 人間として生きていく上で
誰しもが何らかの心配があり
悩みを抱えています。

 本当の教えとは
どんなときにも不安を除き
安らぎを与えていこうとするものです。

 何かと言えば
「地獄に堕ちる」と、恐怖を植えつける宗教もあるようで
話題となった宗教団体も
「先祖が地獄で苦しんでいるが、これを買えば救われる」と
高額の物品を売りつけていたと聞きます。

 「火の車 作る大工はなけれども 己が作りて 己が乗りゆく」
という、よく知られた歌がありますが
地獄とは誰かによって
バチとして堕とされる世界ではなく
欲や怒りという
自分の心が作り出す世界だということを表しています。

 例えば
食べ物一つとっても
この私は
自分が生きるために
どれほどの命を犠牲にしていることでしょうか。

 地獄が罪の結果なら
日々数限りない地獄を作り出している私なのです。

 仏さまの智慧は
そうした私たちの罪深さを教え
仏さまの慈悲は
地獄を免れない私を
そのまま救い取っていこうとされるのです。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.12.27)

 

大分の町中でお念仏

2022-12-26
 昨日は妻と二人でふらっと
大分の町中に出かけました。

 日曜日でクリスマスということでしょうか
人出が結構ありました。

 お昼にしようと
いつもは行かない商店街の居酒屋に入りました。
 私たちは昼食の定食ものを注文しましたが
周りのお客の殆どが一杯やっていました。

 他にも居酒屋さんが増えている通りで
「昼飲みOK」の看板が出ています。

 何かいいですね。
若い女性がハイボール片手に
ニコニコ話がつきません。
 座敷ではもうちょっとした宴会で
盛り上がっています。

 お寺もこんな感じの
空間時間ができないものかと
ふと思います。

 お酒をいただいて南無阿弥陀仏
話が弾んで南無阿弥陀仏
いつでもどこでもどんな状況の中にも
阿弥陀さまは私に付いて離れず
ご一緒です。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.12.26)

 

お葬儀のご縁で「よかったですね」

2022-12-25
 昨日のお葬儀のご縁のことです。

 住職を継職して私は前住職となり
新住職が臨終勤行お通夜から
葬儀のお勤めの導師をします。

 私はというと
葬儀のご縁で初めてお勤めするということで
葬儀の直前に御仏前にお参りして
ご尊顔を拝し喪主のご家族にお悔やみを申します。

 穏やかなきれいなお顔でした。
有り難かったのは門徒式章をかけていたことです。

 「式章をかけてくださってよかったです」
と申しあげました。
 「よかったんでしょうか」と言われて
「皆さんに式章をかけていただきたいのですが
よくかけてくださいました」と言いました。

 お寺参りには念珠と聖典を持って
そして門徒式章をつけてお参りしましょうと
いつもお話していることですが
よくお寺参りされる方はお家のお参りでも
そのことが身についていて
そのいつものお参りのお姿を
お家の方が見ていたのでしょう。

 お寺参りはお浄土参りの習いです
というお取り次ぎです。
 「いつもの式章をつけられて
いよいよお浄土参りですね」
と心の中で声をかけて
「悲しいご縁ですがよかったですね」
とご遺族に申しました。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.12.25)

円光寺
〒870-0108
大分県大分市三佐3丁目15番18号
TEL.097-527-6916
FAX.097-527-6949
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