円光寺の新年が明けました
2023-12-01
朝一番に外に出ると
青空に陽光が明るく輝いていました。
昨日は雨模様でしたが
今朝はばっちり初日の出を拝んだ人も
多かったのではないでしょうか。
昨日の夜12時前から
鐘楼の除夜の鐘の音の中を
本堂でご門徒皆さんとご一緒に
お正信偈さまのお勤めをし
住職からご法話お取り次ぎをいただき
御文章さまを拝読して
円光寺の新年が明けました。
新しい年、新しい一日の始まります。
真っ白なキャンバスに向き合って
絵を描き始めるような心境です。
今年一年どんな絵が描きあがるのか
楽しみです。
御仏前に座らせていただき
「いのち まいにち あたらしい」と
お念仏を申して
サアー今日の一日を始めましょう!
今年もよろしくお願いいたします。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2024.1.1)
12月のことば「この一年も生きてきた お念仏申してお慈悲の中に 色々あったが生かされてきた」
2023-12-01
12月になりました。
今年も残すところ一か月となりました。
この一年を振り返ります。
公私ともに
私の人生の大きな変わり目の一年でした。
お寺の住職を退いて前住職になりました。
お寺のお役目が変わることを
日々の生活の中で一つ一つ受け入れていく一年でした。
葬儀法事をはじめ法務全般を住職がつとめ
私は住職のお手伝いをさせていただきます。
お坊さんであることには変わりありません。
浄土真宗の僧侶一人の念仏者として
これまで同様お念仏のお同行とともに
往生浄土の道を歩ませていただきます。
さて皆さんにとってこの一年は
どんな一年でしたでしょうか?
人それぞれに生活ぶりはさまざまで
同じ家族でもいろんなことがあって
その受けとめ方も違います。
自分の都合で善いことも悪いことも
ああでもないこうでもないとウロウロすることも
あったと思いますが
どんな時でもどこで何をしていても
南無阿弥陀仏の大きなお慈悲の中に
私たちは共々に
生かされて生きていると聞かせていただきます。
お念仏申してお念仏のお心を聞きつつ
これからも
私にできる精いっぱいのことをさせていただきましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2023.12.1)
門徒報恩講のご縁です
2023-11-30
お寺の御正忌報恩講法要をお勤めして
この時期門徒報恩講のご縁で
ご門徒皆さんのお家にお参りします。
一年最後の月参りのご縁です。
報恩講は親鸞聖人のご法事のご縁ですが
お家のご先祖有縁の皆さんのご法事というお心で
きれいにお飾りしたお仏壇の御前に座らせていただき
お念仏お礼を申させていただきます。
浄土真宗のみ教えに遇って
南無阿弥陀仏のご信心をいただき
お念仏申す身にお育ていただいて
この人生を生き抜き
命終わる時にお浄土に生まれて
さとりの仏に成らせていただきます
と聞かせていただきます。
お念仏の先人のご恩です。
南無阿弥陀仏のお心おはたらきにつながって
共々に生かされてあることの尊さ有難さです。
今日一日もお念仏申して
往生浄土の道行きをご一緒させていただきます。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2023.11.30)
「どんぐりへんぐり」才市さん
2023-11-29
山陰石見(島根県)温泉津(ゆのづ)の妙好人
浅原才市さんのお話です。
才市さんは「口あい」とよばれる
多くのお念仏の詩で知られます。
「仏と話をするときは 称名念仏 これが話よ」と
日々の生活が阿弥陀如来のお心と一つになって
御恩報謝の道行きの人生であったといわれます。
「才市さん、うれしいか 有難いか」
「有難いときゃ有難い なっともないときゃなっともない」
「才市さん、なっともないときゃ どぎゃするか」
「どぎゃもしようがないよ なむあみだぶつと
どんぐりへんぐりしているよ
今日も来る日も やーいやーい」と
自分から自分に問いかけ
それに自分から答えてお念仏の味わいをふかめています。
南無阿弥陀仏とお念仏を申して
阿弥陀さまとお話をしているようで
如来のお慈悲の中にまかせてゆったり日暮らししている
才市さんの生活ぶりがあたたかく偲ばれます。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2023.11.29)
「余生」※転載
2023-11-28
人生にあまりなんてあるものでしょうか。
言葉尻をとらえるようですが
余生とはいただけません。
この世に生まれた意味は立身出世にある
という考え方があるように思われます。
いまでも小仲学校で歌われている
『仰げば尊し』の歌詞のなかに
「身を立て名をあげ」とありますが
立身出世とはこれのことですね。
一所懸命に努力し、財産を築き
豊かな暮らしを目標にするような生き方が
「出世」であり「名をあげる」ことでしょう。
お金の力と地位の力
これらはいわゆる権力でしょう。
残念ながら世の中は
だいたいこのふたつの力で
動いているといってよいでしょう。
ところが、いずれはこのような「権力」も
手放さなければならないときがやってくる。
それが退職や引退です。
また、金の力も体力の衰えとともに
その効力は減っていかざるをえないのでは
ないでしょうか。
権力といえども
老いと死の前には無力なのです。
お釈迦さまは若いときにこの権力のむなしさを知って
ご自身からそれをお捨てになりました。
お経ではこれを
「国と財(たから)と位(くらい)を棄てた」といいます。
私たちはその反対に
これらこそが生き甲斐だとしてしがみついています。
しかし、老いとともに
それらは剝ぎ取られてゆくのでしょう。
剝ぎ取られてしまえば
もはやそれとともに
生き甲斐もなくなってしまうわけで
そのあとの人生は
まさに余生となってしまうのでしょう。
それは付録の人生
あってもなくても、どうでもいいような人生
ではないでしょうか。
お金や地位を目指すことを生き甲斐と思い込み
そのためにたった一度きりのいのちを賭けてきた結果が
自分の老後を余生とつぶやくことだとすれば
なんとも情けないことです。
(以上、圓日成道著『老いて出会うありがたさ』より)
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2023.11.28)