雨で良かった、悪かった?
2023-12-06
昨日は久しぶりの雨になりました。
この時期冷たい雨ですが
農作物をつくる人には
恵みの雨になったのではないでしょうか。
今日お参りした先のお家で
お勤めの後にお茶をいただきながら
「昨日の雨は久しぶりで良かったですね」と
言って話になりました。
少しお話をするなかで
昨日は老人会の集いがあって
いろんな催しがありお昼ご飯もいただいて
楽しかったですということを聞きました。
月に一度のご縁で
一人暮らしのお家の方にとっては
待ち通しく楽しみにしていることです。
昨日は雨でした。
会場の公民館まで歩いて行くのに雨です。
「雨で良かったですね」と言ったことを思い返し
少しバツが悪かったようなことでした。
あいにくの雨の天気で
困ったことだったと思います。
それでも「雨が降って大変でした」と言うのではなく
「昨日は本当に楽しかった」と何度も言われました。
私たちは何かにつけて良い悪いという言い方をしますが
その人人にとって良いも悪いもそれぞれなのですね。
何が良くて何が悪いのか
良いも悪いもある中に
今日一日の日暮らしがあるのですね。
雨の日は雨の日で
老人会の楽しいご縁になりましたと
有難くいただいて
本当に良かったですね。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2023.12.6)
永遠の今を生きる
2023-12-05
12月に入ってこの時節の挨拶に
「一年が本当に早いですね」と言葉を交わします。
年々時間が早く過ぎ行くといった実感です。
私の子どもの頃も若い時分もそして71歳の今も
時間の長さは同じなのに
何で早く感じるのでしょうか。
今まで生きてきた時間を分母にした
今という分子でいうと
確かに年々日に日に数字は小さく短くなっていきます。
どこまで短くなるかといって
この命終えるときが来ますから
最終的にはゼロになるのでしょうか。
ゼロということでいったら
死んだらお終いということなのでしょうか。
「一年が本当に早いですね」という言葉に
私たちは命終わる時が愈々近づいていることを
不安に思って言っているのでしょうか。
私たちの救主・阿弥陀如来は
無量寿無量光の仏さまです。
南無阿弥陀仏となって
いつでもどこでも「われにまかせよ必ず救う」と
私に寄り添いおはたらきです。
南無阿弥陀仏のお心を聞かせていただき
お念仏申す身にさせていただきます。
限りある人の命を生きていることに
変わりありませんが
南無阿弥陀仏のおはたらきで
命終わるとき浄土に生まれて
無量のいのちの仏さまに成らせていただくと
聞かせていただきます。
最期は滅んで無くなってしまう命を
生きているのではなく
無量の永遠のいのちを生きているのです。
歳を重ねるなかで時の過ぎ行く早さを感じますが
大丈夫そのままお浄土への道すがらを歩む日々であり
無量のいのちを分母とする今を生きているのです。
今日も一日お念仏を申して
永遠の今を生きて往きましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2023.12.5)
お浄土のお花
2023-12-04
お寺のお内陣に蓮の花の絵が
描かれています。
『仏説阿弥陀経』に
「極楽浄土には七宝の池あり。
(中略) 池の中の蓮華は、大きさ車輪のごとし。
青色には青光、黄色には黄光、
赤色には赤光、白色には白光ありて、
微妙香潔なり」
(極楽世界には七つの宝でできた池があって
また池の中には車輪のように大きな蓮の花があって
青い花は青い光を、黄色い花は黄色の光を
赤い花は赤い光を、白い花は白い光を放ち
いずれも美しく、その香りは気高く清らかである)
と説かれています。
蓮華は、仏さまを象徴する花といわれます。
泥沼に根を下ろし泥を養分にして美しい花を咲かせます。
泥沼にありながら泥に染まらず
清らかな気高さをもって
泥沼を美しい花園に変えるのです。
泥沼とは、私たちが身を置く世界そのものです。
私利私欲に満ち溢れ
それぞれが自分の都合を押し付け合って
時に他を傷つけ、自ら傷つき
ともに傷つけ合ってしまう世界です。
仏さまは、醜い煩悩にまみれた私たちを導き育て
蓮華のような美しい人に育てようとおはたらきなのです。
青色青光黄色黄光赤色赤光白色白光と
いのち輝く仏さまの世界を
お念仏申して聞かせていただき
自他ともに心豊かに生かされて生きてまいりましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2023.12.4)
私たちのお寺の始まり
2023-12-03
皆さんはお寺というと
大きな高い屋根のお堂を思い浮かべる方が
多いのではないでしょうか。
お寺のお堂の中心には仏さまがご安置されており
ご本尊の仏さまといいます。
同じ仏教寺院ですが
ご本尊の仏さまが宗派宗派で違います。
皆さんにとって
仏教のわかりにくいところだと思いますが
それぞれの宗派の特徴がご本尊の仏さまにあります。
浄土真宗のご本尊は
阿弥陀如来(南無阿弥陀仏)です。
浄土真宗のお寺には本堂お内陣の中央に
阿弥陀如来像をご安置しています。
お立ち姿の阿弥陀さまといいます。
迷いの世界に苦悩する私たちを救おうとご本願をたて
南無阿弥陀仏となって私のところに来てくださり
「われにまかせよ必ず救う」とおはたらきのお姿です。
浄土真宗を開かれた親鸞聖人は
阿弥陀さまの本願念仏のお救いの法を
法然聖人から聞き受け
ご生涯をかけて人びとに伝えて行かれました。
その場所は大勢の人が集まるお寺だったかというと
親鸞さまは生涯お寺を持たなかったといわれます。
身近に居る人々一人一人に
ある時は囲炉裏を囲みながら
ある時は田植えをしながらと
日常の生活の中にあってとつとつと
お念仏の仏法を説かれて行かれたといいます。
人から人へとお念仏が伝えられ
仏法聴聞の集いの場がお念仏の道場になり
本願寺第8代宗主蓮如上人の頃
その道場が急速に全国的に寺院化して行ったのです。
お念仏の先人たちのご苦労をいただいて
今私たちに浄土真宗のお寺が伝えられてきました。
「どうかお寺参りして仏法に遇ってほしい。
阿弥陀さまのご信心を聞かせていただいて
お念仏申す身になってほしい」との
先人の思いがいっぱい詰まった本堂の御仏前に座り
いよいよお念仏聞法の道場として
私たちのお寺が発揮されることを思います。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2023.12.3)
「法事の役割」 ※転載
2023-12-02
「いやあ、ひさしぶりだなあ」。
真底、懐かしいという思いに満ちた声が
響き渡りました。
大阪での法事ですが
東は横浜、西は広島県の福山と
遠隔地に住む、兄弟姉妹が駆けつけて
一堂に会しました。
思えばコロナ禍の四年間
とにかく人と人は
「離れる」ことを強制されました。
「集う」とか「寄る」ということが
憚られた月日が長く
辛抱を強いられていたことが
一層、再会の喜びに拍車をかけているようでした。
その様子を見ていて
これが本来の姿であり
コロナ禍の最中の
ごく少人数で、何か悪いことをしているように
ひっそりと法事を勤めていた
悪夢のような出来事が
つい先日のことであったのが
不思議なように思えました。
どうして法事をお勤めするのかという理由は
たくさんあります。
仏縁に出遇うというのが
大切なことであることは言うまでもありませんが
「寄り集う」ことも重要なことなのでしょう。
親族と言えど
長い間、離ればなれになっていれば
どうしても関係は疎遠になってしまいます。
法事は、その絆を再び強めてくれる
絶好の場となります。
法事は三回忌まででいいとか
簡略化ばかり叫ばれる昨今ですが
法事が担ってきた
そうした大事な役割が見失われているのでは
ないでしょうか。
さらに言えば、法事の主催者は
仏さまとなった亡き人です。
「改めて、生命の繋がりの不思議を思え」
という、仏さまからのご催促。
そう味わえば
法事はなお意義深いものになります。
(菅純和著「仏事の小箱」/『御堂さん』2023年12月号)
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2023.12.2)