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お念仏を申す生活法話

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仏さまのご縁に身をおきお聴聞させていただく

2018-06-09
 浄土真宗の仏道はこれこれ修行をしなさいとはいいません。
阿弥陀さまのお救いには条件がないといいます。
ただそのお救いを知ることがなければ救われているという気づきもありません。
 お聴聞が大事だよといわれます。阿弥陀さまのお救いを聞かせていただくのです。
南無阿弥陀仏のお心です。何で阿弥陀さまはご本願を建てられたのか、そのいわれをたずねていくといいます。
 
 お寺でご法話を何度も聞かせていただきます。
そのまま聞きなさいといわれますが、私たちは素直に聞くということが難しいです。
 
 今日の御和讃に「善知識にあうことも 教うることもまた難し
よく聞くことも難ければ 信ずることもなお難し」とありました。
 
 お聴聞というけれども聞くことは難しいといいます。
素直に聞くことを邪魔するものがあるといわれます。
何が邪魔をしているのか、他の人が邪魔をしているのではなくて、私がという我執が邪魔をするというのです。
私がととらわれはからう心が邪魔をしてそのまま素直に聞けない
私の都合に合わせて聞くというのが、どうも私が聞くということの正体のようです。
 
 世間の話を聞くこともそうです。
自分を中心に自分に関心があること、例えば健康のこととか料理や旅行、趣味のこととか金儲けのこととか
そういう話はすーっと聞こうとします。
 ただ仏法を聞く、仏さまの教えを聞かせていただくことは難しい、難中の難です。
仏さまの教えって私には関係ないことなのでしょうか。歳をとってからの話、死んでからの話でしょうか。
 
 今ここ仏さまの御前にお座りの皆さんはもう既に仏法聴聞のご縁に遇われています。
身をおくということです。御仏前に身をおきそのまま聞かせていただくのが、信心です。
 信心をいただくといいます。
阿弥陀さまのまことの心をそのままいただいて私たちの往生が決まる、いや決めてくださってあるのです。
 
 聞くということは難しいことですが、仏さまのご縁に身を寄せ身をおくなかに
どうぞお念仏を申して今日も阿弥陀さまのおよび声を聞かせていただく一日でありたいと思います
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.6.9)

お寺の研修会~貧困の克服に向けて

2018-06-08
 昨日は別府の別院で大分教区のお寺の研修会がありました。
お寺といえば法話会ですが、このたびは研修会です。
 
 今私たちの宗門では御同朋の社会をめざす運動(実践運動)を推進しています。
阿弥陀さまの本願念仏のみ教えに共に生きる私たちが
現実社会の課題に向き合うなかでお念仏のみ教えを伝えていきましょうという取り組みです。
 
 7年目に入って、今年から重点プロジェクトの目標を「貧困の克服に向けて」とすることについて
宗門内の全教区のお寺、門信徒僧侶に周知するための研修会です。
 
 今は格差社会といい貧困問題は重大な社会問題の一つです。
特に子どもの貧困は深刻です。
 子ども7人のうち一人の割合で、家庭の事情で十分に毎日の食事ができていないとか
孤食といって子どもが一人で食事をするといった実態がたくさん報告されています。
 
 そうしたなかで今子ども食堂が全国的に展開され大分県内でもこの鶴崎でもしていると聞きますが
お寺という場所を開いて子ども食堂をしませんかという一つの提案がありました。
 
 参加者の殆どがお寺の住職さんでしたが、いろんな意見がでました。
象徴的な意見として、貧困といってお寺もまた貧困問題を抱えているということです。
 特に過疎地にあるお寺は門徒も減り住職は一般の仕事に就いて
法事などの法務を土曜日曜とか仕事が休みの日に合わせているということで
現状のお寺の護持で精いっぱいで余裕がないとの声です。
 お寺で子ども食堂などの取り組みができるのはよほど恵まれたお寺であり
お寺の格差があるなかでお寺の現実に向き合い寄り添ってほしいという意見です。
 
 みんなで一緒にということは中々難しいけれども、その思いを共有することは大事なことです。
一つの思いをもって私に何ができるのかということです。
 例えば円光寺でできることです。住職坊守というお寺のものだけでできることは一つもありません。
ご門徒皆さんのご加勢お手伝いがあって初めてできることです。
それも皆さんが一つ思いをもってということです。この一つ思いが大事なのです。
 
 南無阿弥陀仏のお救いの法、お念仏につながった私たちです。
一人でも多くの方にこのお念仏のご縁を届けていくということを心に入れて
そして思いのある方時間の許せる方が集まって何かをしましょうということでないと
ただ子ども食堂をしましょうしましたでは、私は善いことをしてます、あれもしてますこれもしてますと
私はということになると、これはちょっと違うなということです。
 
 みんなで一緒に取り組んでいきましょうということは今は本当に難しいです。
やはり思いのある方が一つ一つ実践していくなかに
それを見た方知った方が「ああいいことやなあ。私も一緒に参加しよう」と
みんなで一緒にやっていこうという取り組みができたらと思います。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.6.8)

誰もいなくなったお家のお仏壇のお給仕

2018-06-07
 昨日電話で、ご門徒の一人暮らしのおばあちゃんが入院されたということで
これからのお寺との連絡をどのようにしたらいいですかという問い合わせがありました。
 今後はお電話された息子さんに直接ご連絡させていただきますとこたえました。
 
 昨年から3軒ほどお家のお仏壇を守ってきた一人暮らしのおばあちゃんが体調を悪くして
子どもさんのところにいったりとか病院や施設に入ったりとかいうことが増えてきました。
これからもこんなケースが増えてくると思います。
 
 お仏壇のお守りといいます。お家のお仏壇はそこに住まいするお家の方が日々のお給仕といって
お仏飯をあげたりお花をかえたりお灯明をあげたり線香をたいたりということをされていると思います。
 
 ではそのお家に住む人がいなくなったらお仏壇はどうなるのでしょうか。
そのまま放っておいたら埃をかぶってしまいます。もったいないことです。
 ご親族なりご縁の方が先に往かれた方の命日なり日を決めてお掃除をしてお給仕をしていただければと思います。
お電話で「お盆にお参りしてくれますか」と尋ねられ「申し込んでいただけれがいつでもお参りします」とこたえました。
お参りに来ていただくということは、お家もお仏壇もきれいになるということにつながります。
 
 段々とご門徒さんとのつながりが薄くなってまいります。
ご法事のご縁も何年に一度ということで、その間にも親族の方が亡くなられてお参りの方々も変わってきます。
お盆参りは一年一度のご縁です。
 月に一度の月参りのご縁の有難さを思います。
 
 人と人とのつながりといいますが
私たちはお仏壇、ご本尊の阿弥陀さまによってつながってあるということです。
 ただそのつながりもお仏壇のお給仕をする人守る人がいなくなったら薄くなります、なくなってしまうことにもなります。
 
 私たちはいつまでもずっと元気でいたいと思いますが、ままなりません。変わっていきます。
あまり考えたくないことですが、私が今できていることができなくなったときのことを考え
これからどうしていくのか家族や親族で相談しておくことが大事になってきます。
 
 お寺のこと仏さまのことは住職に相談してください。
私たちは変わっても阿弥陀さまのご法義は変わりません。
 お互いにご法義を聞かせていただくなかに、私にできる精いっぱいのことをさせていただきましょう。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.6.7)

ちょっと早起きしました

2018-06-06
 ちょっと頼まれたことを思い出して今日は少し早く起きました。
早起きをすると自分の時間が広がるといいます。早起きは三文の徳があるといわれます。
 
 ただ早起きをしましょうといっても中々難しいですね。
もうちょっともうちょっと布団のなかでゆっくりしたいというのが私の偽らざる思いです。
 
 その場に身をおくことが大事だと思います。
まずその場に身をおくことです。
その場に身をおいてすぐ何かできるということではありませんが、そこから始まるということです。
 
 このお朝事もそうです。この時間この場所に身をおくということです。
身をおくなかにお勤めができます。
 
 今思うのは早起きしてよかったということです。
早起きした時間、本当に有意義に使えたと思います。
 
 早起きしたら、その分色んなことができます。
今日はこんなことができた。明日はこんなことをしようと楽しみに考え時間を使うことができます。
 
 そしてこの時間この場所に一緒に身をおいて、このお朝事のご縁に皆さんすることが決まっているということです。
それぞれ生活ぶりは違いますが、お念仏を申すなかに共々にお念仏の人生を歩ませていただけるという
有難さを今日もこうして身をもって思います。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.6.6)

どのように死んでいくのか

2018-06-05
 特別養護老人ホームにお勤めのベテランのお医者さんのお話です。
400人収容のホームで年間60人ほどの方を看取るということですが
特別な延命治療をしないで、治療を受けたい人は病院に移ってもらうといいます。
 
 人間最期は食欲がなくなり口から食べ物が入らなくなって大体10日ぐらいで亡くなるといわれます。老衰です。
病院での治療は食べないから死ぬということで栄養剤などを体に入れて治療を尽くします。
 栄養剤で命を永らえる治療はできますが、ずっと生き続けることができるかというと
いつか必ずこの命を終えていかねばなりません。
 
 患者さんの側からいうと、栄養剤を入れられてかえって苦しむといいます。
家族や周りの者は「もうちょっともうちょっと、頑張って頑張って」ということですが
食べられなくなるというのは、身体がもう食べなくてもいいと欲することだというんです。
食べたいのではなくて食べなくてもいいと身体はいっているといいます。
 
 こんなお話を思い出します。
この身体は借りものだというお話です。
ところが私たちはこの身体は自分のものだとして、特に若い頃はこの身体を我が物顔に酷使してきたというんです。
少々体調が思わしくないときも仕事に勉強にと頑張れ頑張れと身体にムチ打って生きてきたということです。
無理をしてきました。無理をしてこれからもずっと頑張れるかというと頑張れないんですね。
最後は力なくして終わるのです。
 
 人間死にます。私のことです。考えたくないことですが
命終わるということは借りもののこの身体を返すことだと考えると少し楽になりましたといわれます。
 
 先ほどのお話と通じるところがあります。
私たちは自然にあるがままに生きたいと言いながら、ああやこうやと欲が出て自分の思い通りに生きたいと頑張ります。
 食べたいという欲です。
ところが食べたいという欲もなくなり、もういいよと身体が言ってスーッと静かに老衰です。
 
 食べないと身体は衰弱して最後は息絶えます。
それこそ30年40年ほど前までは家で亡くなる方が多かったですね。
自然に老衰といわれる死でした。
 ところが今は病院で死ぬ人が殆どで、家族であっても身近な人の死に会うことが難しいといわれます。
人が死ぬということに慣れていないから、人の死が怖いといいます。
実は私のことなのですが、私たちの日常生活は死を遠ざけたものになってしまっています。
 
 今は医療が発達して色んな病気の治療ができるようになりました。
でもどんなに医療をつくしても最後の最期はみんな命終わっていくのです。
 
 どのように死んでいくのか。
生き方も人それぞれなら、死に方も人それぞれです。その人が生きたように死んでいくといわれます。
 阿弥陀さまのご本願のお救いの法に聞かせていただきましょう。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.6.5)
円光寺
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