新しい月の初め、気持ち新たに始めましょう
2018-06-01
6月になりました。今朝6時の梵鐘をついていましたら、朝日がもうすでに空高く上がっていました。
光あふれるなかに今日の一日を始めさせていただきます。
今年は早々に梅雨に入りました。6月は水無月といって、水が無いと書きます。
これは旧暦のよび名で、雨が少ないことをいうのでしょうが、いよいよこれから梅雨本番です。
雨が続くと何か気分もうっとうしくなります。雨は往々にして嫌われ者です。
ただ雨が降らないと水不足が心配になります。水がないと私たちの生活は成り立ってはいきません。
私たちが住んでいる地球を水の惑星というぐらいです。
水は私たちのいのちそのものであり、この身体の大部分が水でできているのです。
太陽であり水であり、大自然の恵みをいっぱいいただいて、今日の一日を始めます。
6月に入りもう一年の半分近く過ぎたのか、本当に早いなと、同じようなことの繰り返しの生活を思いますが
ここは月が新しくなってまた気持ちも新たに生活を始めようということです。
新しい月の初め、気持ち新たに今日の一日を始めましょう。
皆さんとご一緒にお朝事のお勤めをさせていただく有難さを思います。
毎日の繰り返しのようですが、日々これ新たにお勤めさせていただき一日を始めます。
いろんなことがある毎日ですが、また毎朝お朝事のご縁にかえってこれます。
そしてまた皆さんとご一緒にお勤めさせていただけます。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.6.1)

車社会に生きる
2018-05-31
90歳の女性が運転する車が事故を起こし4人が死傷、57歳の女性が亡くなりました。
何とも悲しい、とても残念な思いがします。
高齢者の車運転事故は年々増え、重大事故が起こるたびに高齢者の運転免許証の返納が問題になります。
私たちの周りにも高齢者ドライバーが沢山いて、私自身の問題でもあります。
現代は車社会です。近くのスーパーに行くのも車でと、車は身近で便利な交通手段であり
過疎の集落では車がないと生活できないといったような現状です。
ある程度の年齢になったら免許証を返納しましょうといって
私の事となるとまだまだ運転に自信がある大丈夫と免許証を手放そうとはしません。
車があると本当に便利です。自分の車を思い通りに自分で運転して生活できる楽しみもたくさんあります。
では車がないと生きていけないのかというと、どうでしょうか。
重大事故が起こるたびに車はまさに凶器なんだと思います。
自分の手で人を殺すことはできるものではありませんが、車で人を殺すことができるのです。
誰しも人殺しの手段で車を運転している人はいませんが、結果的に人を殺すことになるのです。
その人の一生を終わらせてしまうのです。
90歳の女性が運転免許証をもっているということはある意味すごいことです。
若い頃から時代の最先端を行く憧れの的のような人生を歩んできたのではと想像します。
今度の事故で警察に逮捕され、名前が公表され加害者容疑者と呼ばれます。
ニュースで護送される姿を見ました。本当にいいおばあちゃんです。
周りの人たち家族が思うこと、悔いることもあると思います。
高齢者でも車があるから便利な生活を楽しむことができるという人もいるでしょう。
では車がないばかりに不便な生活を強いられていると思う人ってどれだけいるでしょうか。
車だけのことでいえば自分が運転できなくても周りの人に車に乗せてもらえばいいことだとも思うのですが
一緒に生活している家族にでも「車に乗せて頂戴」と言えない、言っても快く応えてくれないということなのでしょうか。
家族であってもみんな自分を中心にそれぞれ生きていますからといわれると、中々難しいですね。
今の社会のあり様を思います。
困っている人がいます。困っている人がいることがわかっていても、見ようとしない、自分には関係ないとさえ思う。
一方困っている人も「助けてくれ」と言わない、言ったところで嫌な顔をされる、取り合ってもらえないとあきらめている。
日常生活のなかで人と人とのつながりが益々希薄になってきているように思います。
自分のことは自分でできたらいいのでしょうが
歳を重ねるほどに思い通りにならない我が身の悲しさ寂しさを感じます。
人のいのちには限りがあります。生きようと思うことも生きる力もままなりません。
お互い若いときもありました、健康なときもありました、そして今の私たちがいます。
人それぞれ生活ぶりが違う私たちが家庭で地域社会で共々に日暮ししています。
どんな人も決して一人では生きていくことができない社会です。
阿弥陀さまのご本願のお心を聞かせていただくなかに、あなたも私も自他共に心豊かに生きることのできる社会をめざして
お互いに認め合い敬い合い助け合い支え合っていくことが大切です。
私一人の楽しみではなく、私たちみんなが人間に生まれてよかった、あなたに会えてよかったと
喜んで感謝していける人生の歩みを共々に、私にできる精いっぱいのことを今日も一日させていただきましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.5.31)

散髪に行きました
2018-05-30
昨日散髪に行きました。
ちょっと髪の毛が気になって行きましたが、散髪を思い立つのは何か大きな行事があるとか
ここは心機一転とかいう時に思い立つものです。
何かある時は誰しも身だしなみをきれいに整えることから心がけるものではないでしょうか。
坊守さんから聞いた話です。
歯医者さんに行ったときのことで、昼前の時間で仕事着のままのちょっと身なりの良くない人が
診察室に入る時に靴を脱いでスリッパに履き替えるのですが、その方が脱いだ靴を向き直ってきれいに揃えたといいます。
それを見ていいな素敵だなと思ったそうです。
私たちは何か身なりでその人を判断するところがありますね。
その人が靴をきれいに揃えると見方が変わります。
靴を揃えるということは誰でもできそうでできていないことが多くあります。
人から言われてするものでもなく、人に見せようと思ってするものでもありません。
その人にとって靴を揃えることは特別なことではなくて、その人の身についたまさに文化なのです。
その人の身だしなみにその人の文化が香るということです。文化がそのすがたに表れるのです。
人に見せようと自分が意識してすることでしたら、自分のその時どきの心の状態で
靴がどこかに飛んでいくように脱ぎ捨てられることもあるでしょう。
身につくというのはそのままなのです。そのまま自然にできる日頃のたしなみです。
日頃からちゃんとできていないとそのことが身につく姿に表れるということではありません。
姿に表れるというのはその人の今までの人生といってもいいものです。
その気品ある身だしなみが伝わって、いいなすてきだなと思います。
私たちのお念仏の文化です。
皆さん式章をつけていますね。これも付けるまでは大変だったと思います。
でも今は式章が身についたものになって、式章をつけていないと何かおかしいということです。
人から見たら式章をつけた皆さんの姿が皆さんそのままの姿になって見られるのです。
お念仏の文化、おはたらきです。文化はカルチャー、耕すという意味です。
お念仏南無阿弥陀仏のおはたらきが私の頑なな荒れた心を日々柔らかく耕してくださって
いよいよお念仏を申す身にさせていただきます。
ようこそようこそお育てをいただいているんだなと思います。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.5.30)

浄土真宗の生き方
2018-05-29
昨日は大海組のれんそう会(連研同窓会)の総会が鶴崎の福正寺さんであり、ご法話聴聞のご縁をいただきました。
「浄土真宗の生き方」という講題でした。
浄土真宗にご縁のある方はこういう生き方をしましょうと、事細かに実例を挙げていうことではありません。
阿弥陀さまのお救いは私たちに生き方を一切問いません。
問う以前に、それぞれ生き方が違うということを見抜かれた上でのお救いなのです。
同じ屋根の下で暮らしている家族でも仲の良い夫婦でも親子でも兄弟でも、その生き方、生活ぶりはそれぞれ違います。
その違いを認め合うなかにお互い日暮しできたらいいのですが、これが中々難しい。
私たちはどこまでも自分を中心に生きています。
私の思い通りになったら、それはそれでいいわけですが、すべての人が自分の思い通りになるということではありません。
自分の思い通りにならないと、その思いが言葉になり行動になって、周りの人を傷つけることにもなります。
そんな私たちをこの阿弥陀さまはすべて見て取って、すべての人が救われる法をつくってくださいました。
阿弥陀さまの言うことを聞いたものだけを救うというのではなく
それぞれの生き方が違うなかで、互いに背中合わせになったり仲良くなったりする私たちを全て残らずそのまま救うという
南無阿弥陀仏のお救いです。
浄土真宗の生き方とはこの南無阿弥陀仏のお救いに遇わせていただくという生き方です。
阿弥陀さまのご本願のお心に我がいのちのあり方を聞きどう生きていくのかたずねていくことです。
昨日のお話です。すべてのいのち尊しと仰いで生きるということです。
このいのち人間に生まれて今こここの私を生きていることを、互いに尊び感謝して喜んでいける生き方です。
このいのちお父さんがいてお母さんがいたというお話です。
お父さんお母さんに「生んでくれてありがとう」と言いましょう。
子どもたちに「生まれてくれてありがとう」と言いましょうと。
そうした大きないのちのつながりのなかに私のいのちがあるんだよ、今を生きているんだよと聞かせていただきます。。
私たちはどんな人も生老病死の人生を送って命終えていきますが
人間に生まれてよかったと言える人生を生きてほしいと阿弥陀さまは願ってらっしゃるのです。
南無阿弥陀仏のお救いの法に遇うために仏法を聞くために人間に生まれて来たといただきます。
仏法を聞くご縁に遇わなかったら、聞かずじまいに終わる人生では空しいですね。
南無阿弥陀仏のお救いを聞かせていただくなかに今日の一日があります。
明日があるかどうかはわかりませんが、この命終えていく時も南無阿弥陀仏のおはたらき一つで
そのまんま阿弥陀さまのお浄土に生まれて仏さまにならせていただくのです。
このいのち、ずっとずっと遥か昔から南無阿弥陀仏のおはたらきのなかにあってこの人の世に生まれてきました。
そして人の命終えていきますが、南無阿弥陀仏のおはたらきでずっとずっとこれからも仏さまとなって生きていくのです。
それは私一人のことではなく、今日お参りの皆さんすべてのお方が
南無阿弥陀仏のいのちのつながりのなかにずっとずっとつながって生きていくということです。
そこに本当に共々に安心できる世界があるんだよと、それを救いといただきます。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.5.29)

仏さまのお家に住まいさせていただいて
2018-05-28
ご法事のご縁にお参りさせていただいてお仏壇を拝見したときに、えっと思うことがあります。
お仏飯をお供えしていないお仏壇がたまにあります。そうしたお家は毎月の月参りをしていないところが多いのです。
ご法事は毎年ではなく何年に一度のご縁ですから、何年ぶりかのお参りのお家もあります。
その間お仏壇をお掃除したりお飾りしたりとお家の人の手が入っていることは確かですが、
お仏壇の本来のお荘厳ができていない、忘れられて、自分流のお飾りになってしまっているということです。
日々のお給仕と申しますが、お仏壇のお飾りの基本はお仏飯です。
お灯明もお花もお香も、あげるといって私の手が入りますが、お仏飯をお供えすることは日々のお給仕の基本です。
今は朝はパン食というところも増え朝ご飯を炊くお家が少なくなりました。
以前は毎朝仏さまにお仏飯をお供えするためにご飯を炊いていたということですが、今は難しいことかなと思います。
だからこそご飯を炊いたときには、朝でも夕方でも炊き立てのご飯をまず仏さまにお供えして
お礼を申して下げていただけばいいでしょう。
ご法事やお命日、お彼岸お盆などの仏さまの日には心して
ご飯を炊いてお仏飯をお供えすることを忘れないようにしましょう。
お念仏の先人は、私たちは仏さまのお家に住まいさせていただいているのであり
お仏飯に養われて日暮ししているといわれます。
養われているとは仏さまの恵みをいただいているということです。
お仏飯だけではなくすべてのものが仏さまの恵みなのです。
だから隣からお菓子をもらった時など、まず仏さまにお供えしてからいただいていましたね。
隣からもらったのですが、仏さまからのいただきものなのです。
蓮如さま(本願寺第八代宗主)はお堂に落ちていた一枚の紙切れを拾いあげ押し頂いて懐にしまったといわれます。
紙切れ一枚も仏法領のもの、仏さまから受領したいただきものだと見られたのです。
もの皆すべてを仏さまのものともったいないもったいないといただかれて日暮しされたのです。
お念仏の日暮しです。仏さまを中心とした日暮しのなかに今日の一日があるのです。
一日の初めまず仏さまにお仏飯をお供えしおさがり恵みをいただくことから始めましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.5.28)
