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お念仏を申す生活法話

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15の春、○×の人生

2018-03-10
 昨日は県内の高校入試の合格発表がありました。
「15の春」といいますが、合格した人には春が来て、不合格の人には春が来ないのでしょうか。
いいえ、どんな人にも春は来ます。
 合格を○、不合格を×と見る、ものの見方がそこにあります。
 
 私たち人間のものの見方は○か×かで全てを見てしまうところがあります。
私のところに引き寄せていえば、私の思い通りに行けば○で行かなかったら×ということになります。
 
 〇か×のものの見方で人をみることは、そのまま○か×かで人に見られているということです。
誰しも〇に見てほしいと思いますが、それこそ私の思い通りにならないことばかりです。
 
 我が身のことでいうならば、私たちは老病死の苦悩の身を生きているとお釈迦さまは説かれます。
どんな人も、若くありたいけれども日々老いていきます。
ずっと健康でいたいけれども病気になることもあります。
長生きしたいけれども必ずこの命終えていかねばなりません。
 
 このことを○×のものの見方でいうと、最後は×で終わる人生ということになります。
私たちは死んだら終いの空しい人生を一生懸命頑張って生きているのでしょうか。
 
 仏さまのものの見方を聞かせていただきます。
仏さまのものさしはいのちそのものそのまんま引き受けてくれるものさしです。
だからそこには○も×もないのです。
 
 たとえこのたびの入試で不合格になったとしてもみんな生きています。いのちをみんな生きています。
仏さまの願いがかかったかけがえのないいのちをみんな生きています。
 このいのちそのまんま引き受けてくださる仏さまがいらっしゃるというなかに私たちは生きていけるのです。
 
 南無阿弥陀仏のご法義に遇わせていただいて本当によかったと思います。
 
 喜ぶ人のすぐそばで涙を流している方がいらっしゃいます。
そのことにも思いを致し、お念仏を申すなかに共々に生きてまいりましょう。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.3.10)

おらぶ仏さま

2018-03-09
 お寺のお内陣、お家のお仏壇の中心にご安置する阿弥陀さまのお立ちすがたに、
迷いの凡夫のこの私が救われていくすべての手立てが表れているといいます。
 
 たとえ話でお取り次ぎします。
 幼子の手をひいてお母さんが人ごみの中に行ったという想定です。
気づいたら子どもの手が離れ迷子になったということで、お母さんは血眼になって探しやっと向こうに子どもを見つけた。
その時お母さんが三つの行動を即座にするといいます。
 
 順番はありませんが、声を上げます。子どもの名前を呼びます。手を大きく振って呼びます。
「お母さんはここだよ。安心しなさい。こっちにおいで」という思いです。
子どもを呼ぶお母さんですが、子どもは人ごみの中でお母さんに気づかないこともあり、
お母さんの方に行こうと動いたら、人の波に飲み込まれてまた迷って分からなくなってしまうかもしれません。
 そこで呼ぶお母さんが呼びながら子どものところに駆け寄り抱きかかえて救うのです。
 
 阿弥陀さまのお救いです。
迷いの中にありながら迷いを迷いと気づかない私に、一方的に「気づいてくれよ」と呼んでくださる。
 そのおよび声が南無阿弥陀仏です。声をあらん限りに叫ぶように呼び続けます。
 
 昨日七日日のご縁で、このお話をしてお母さんの三つの行動はなんだと思いますかと尋ねたら
年輩のお母さんが「おらぶ」と言ってくれました。
 おらぶ、そうですよね。周りのことは一切構わずあらん限りの声でおらぶんですよね。
 
 喚鐘です。喚は喚ぶということです。
喚鐘の音はカンカンカーンと周囲によく鳴り響きます。聞く人によってはうるさい騒音かもしれません。
 毎朝6時半のお寺の喚鐘を床の中で聞いている人もいると思います。聞こうと思わなくても耳に届いていますよね。
 
 南無阿弥陀仏のお喚び声はもうすでに私のところに至り届けられているのです。
気づいてくれよ、目覚めてくれよとね。
 
 目覚めるといって、私たちのこの目ではありません。真実の眼に目覚めてくれよとです。
でも自分のことで精いっぱい、生きることで精いっぱいの私は聞こうとはしません。うるさいと耳をふさぐ人もいます。
 そんな私を阿弥陀さまはすでにご存知で、飽きることなく南無阿弥陀仏と喚び詰めに喚び続けていてくださいます。
阿弥陀さまのお喚び声、南無阿弥陀仏が私に聞こえたとき、私の口から南無阿弥陀仏とお念仏が出てくださいます。
 
 おらぶように今も阿弥陀さまは声を限りに私たちを喚んでくださっています。
もったいないことです。有難いことです。
 阿弥陀さまのお心おはたらきを聞かせていただきましょう。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.3.9)

資格と自覚

2018-03-08
 資格と自覚というお話です。
社会生活を営む上で、いろんな資格があります。
 でも資格があるからといって、それを活かすのはその人の自覚です。
自覚をもって資格を活かせないのでは宝の持ち腐れというか、何のことかわかりません。
 
 ただこの資格も大事なもので、資格がないと出来ないことも多くあります。
この時代この社会を生きるには資格をもつということは一つの大きな生きる術となります。
 
 社会的な資格を何ももっていなくても、どんな人も生きる資格はあります。
どんな人も生きているということ自体に尊い意味があると教えてくださるのがお釈迦さまのみ教えです。
 
 どんな人もというと、生まれながらに病気であったり事故に遭ったりして、
皆さんのような社会生活ができないという方もいらっしゃいます。
さまざまな境遇のなかで思い通りにならない人生を送られています。
 
 五体満足といいますが、本当に生きててよかったと喜んで生きている人ってどれくらいいるのでしょうか。
私自身に問われることです。
 五体満足で資格もあり、色んな生きる可能性がありながら不平不満で終わっていく、
そういう人生は空しいんじゃないですかと仏さまは教えてくださいます。
 
 どんな境遇にあろうとも、阿弥陀さまのご本願のお救いは生きとし生けるものすべてを分け隔てなく平等に救うと、
そのこと一つ聞いてくれよと南無阿弥陀仏となっておはたらきです。
 聞くことさえできない方がいらっしゃいます。でもそのお心おはたらきはどんな人にも届けられています。
 
 お念仏しないと救わないという仏さまではありません。
いつでもどこでも阿弥陀さまがご一緒です。そのこと一つ心に入れて今日の一日も過ごさせていただきましょう。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.3.8)

仏さまのものの見方

2018-03-07
 北朝鮮と韓国の南北首脳会談が4月に行われることがトップニュースになっています。
 
 南北といいます。また東西といいますが、上下左右という私たちのものの見方でいったら逆ですよね。
 
 お寺のお内陣には、お家のお仏壇と同じように真中にご本尊の阿弥陀さま、
左右に親鸞聖人蓮如上人のご絵像をご安置していますが、その横に余間という空間があります。
 
 向かって右側を左余間、左側を右余間といいます。私の目線からいうと、逆です。
これは仏さまを中心とした見方で、お寺は仏さまのみ教えが説かれる尊い処ということを表します。
 
 仏さまから見たら、私たちは真実に背くような生き方見方をしているということです。
私が私がとどこまでも自分中心にものを見、考え、生きています。
 仏さまはそこに私たちの苦悩の原因があるとズバリ見てとられたのです。
 
 私たちは自分の思い通りに生きたいと誰しも思い、行動します。
しかしその思いはそれぞれ自分中心で異なっていますから、対人関係で衝突が起こったり、背中合わせになったり、
すれ違いも起こってくるのです。
 
 お互いに決して楽しいことではありませんが、相手を思いやることもできず、憎み怒る心も出てきます。
 
 そうした真実にくらく愚かな私たちを阿弥陀さまはすでにご存知で、すべてのものを救おうとご本願を建てられ成就して、
南無阿弥陀仏となって私たちにおはたらき通しなのです。
 
 南無阿弥陀仏の心を聞いてくれよ、わが名をとなえ念仏申して生きてくれよとおはたらきなのです。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.3.7)

中陰のご縁に火の用心

2018-03-06
 七日日のお参りのご縁で「49日の間お仏壇のろうそくと線香を絶やすのはいけないんですよね」とお尋ねがありました。
 
 昔からの言い伝えで、49日の中陰の間お灯明と線香を絶えしたらいけないというのは、
亡くなって死出の旅が始まるということからきています。
よく三途の川を渡るとか六文銭をもたせるとかいいますね。
旅をするのに六文銭といったお金もいるし、冥界という暗い中を歩いていくのに明るいろうそくの灯がない迷いますし、
線香はご飯代わりといいます。腹が減っては旅もできません。
 
 何かもっともらしい話ですが、私たちの浄土真宗の仏教では命終わるその時そのまま阿弥陀さまの本願力のおはたらきで
阿弥陀さまのお浄土に生まれて仏にさせていただけると聞かせていただきますから、
亡くなってから旅が始まるのではなく、今お浄土への旅をさせていただいているというのです。
 
 先人の言い伝えには意味するものがあります。
お灯りと線香を絶やさないということはそこのお家に人がいるということです。
49日間の中陰の期間、先に往かれた方に思いを致し身も心も慎むということなのです。
 
 ところが今は核家族で外出したらお家に留守番がいなくなります。
そして外出するにも火の気があると心配で心配でたまりません。
 
 お灯りや線香はお参りするときだけつければいいのです。
つけっぱなしではなくて、御仏前を離れる時はちゃんと火の気は消しましょう。それで安心です。
 
 仏さまは私たちに安心をこそ与えますが、不安は解消してくださいます。
仏さまのご縁です。49日間はつとめて御仏前にお参りしましょう。
 先に往かれた大切なお方が仏さまとなってご縁をつくってくださいました。
精いっぱいお勤めさせていただきましょう。
 
 先に往かれた仏さまはいつも私とご一緒して、お念仏申す私をよろこんで見ていてくださいます。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.3.6)
円光寺
〒870-0108
大分県大分市三佐3丁目15番18号
TEL.097-527-6916
FAX.097-527-6949
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