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お念仏を申す生活法話

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信心獲得すというは

2018-03-16
 今日16日の御文章さまは「信心獲得の章」です。
信心は私たちの浄土真宗の仏教の要です。
「信心獲得すというは第十八の願をこころうるなり、
この願をこころうるというは南無阿弥陀仏のすがたをこころうるなり」とあります。
 
 お聴聞とは阿弥陀さまのご本願のお心、南無阿弥陀仏のおいわれを聞かせていただくことです。
聞いてそのまま信心いただくといいます。
 
 ただ聞くといって言葉を通して聞くことですが、そのまま聞くと言われても難しい。
そこでお仏壇です。阿弥陀さまのお浄土を表し、私たちはお飾りをさせていただきます。
 
 お仏壇のお荘厳に私たちが救われていく仏さまの功徳が示されているといわれます。
私たちはこの目を通して、また行為を通して聞かせていただけるというのです。
 
 日々のお荘厳、お飾りです。毎日お仏飯をお給仕、お供えします。
あげるというのは私の行為ですが、お仏飯はあげっぱなしにしておくのではなく下げます。
下げてどうするか、いただきます。
 
 ここに信心は聞かせていただくものだということが思われます。
上げるという行為も聞くという行為も私がです。但しその心はというのと、いただくんですね。
 いただいてみれば、上げるという行為も聞くという行為もすべて
すでにそこに阿弥陀さまのおはたらき、お手回しがあったと聞こえてくるのです。
 
 信心しなさい、聞きなさいといわれると何か力が入りますが、
そうしたご縁をいただいて信心いただく身にさせていただきます。
 そこに私たちの救いがあります。
 
 こうしなさいああしなさいと、いろんな条件を与える仏さまではありませんが、
そのことに甘えてしまうと、それこそ聞かずじまいにこの人生を終わってしまう私ということもご存知で
ナンマンダブツナンマンダブツと阿弥陀さまの方から呼び通しに声かけをしてくださってあるのです。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.3.16)

春うらら

2018-03-15
昨日一昨日と二日続けて会議があり、久しぶりに別府で泊まりました。
朝時間があって別府周辺を散策しました。
 
 春うららという表現がぴったりの穏やかな温かい春の陽気に恵まれて、
別府別院の近くの公園に行きました。
 ベンチに座るとすぐ前に海門寺というお寺がありその向こうに別府タワーが見えました。
保育園の園児が遠足に来ていてお遊戯をしたり歓声があがっていました。
 
 ああいいなと思いながら、別府駅の方に行くとたくさんの人で賑わっていました。
外国の方もいらっしゃいますが、若い方が目立ちました。
 駅前の油屋熊八の銅像の前でお決まりのポーズで写真を撮っていました。
多分この時期卒業旅行ということで別府に来たのでしょうが、笑顔がいっぱいでした。
 
 御和讃の「慈光はるかにかむらしめ 光のいたるところには
法喜をうとぞのべたもう 大安慰を帰命せよ」(浄土和讃)の一首が浮かびました。
 
 慈光とは阿弥陀仏さまのお慈悲の光です。
お慈悲の光が私たちを照らしてくださる。その光につつまれ護られて、お念仏の法に出遇った喜びいっぱいに
心安らいで生きていくことがでます。
 
 慈光はるかにです。
阿弥陀さまははるか昔から私たちのことを思いとって、必ず救うと光の仏さまとなって
私のところに来てくださり、「いつも私が一緒だよ。まかせよ救う」といつでもどこでもおはたらきです。
 
 この人生は色んなことがあるけれども、み光のなかに安心して今日の一日も生き抜かせていただけます。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.3.15)

ともに生きる

2018-03-13
 今森友問題で大変なことになっています。財務省の公文書改ざん事件です。
 
 所詮人間がすることに完璧はありません。それもそこに人間の配慮が入ってくると、
事は意外な展開になって自分の守備範囲を超えてどうしようもならない事態に陥ります。
 
 私たちは誰もが社会のなかで日暮しして生きています。
一番小さな社会が家庭ですが、自分以外の人と一緒に生活することは、自分の思い通りにならないことがでてきます。
 
 その社会が大きくなればなるほど生きづらさを感じますが、そこは同じ組織の仲間同士で支え合うこともあります。
組織にはいろんな役職があり役割を分担して仕事をすることでお互いの信頼関係もできてきます。
 
 昨日の大臣の会見で「組織の一部の者がやった」と上司が部下を切り捨てるような発言をされました。
同じ組織にいて部下をまもる責任ある立場の上司から「お前が悪い」と一方的に公言されてはたまりません。
 
 あの改ざんって、誰かをまもろうとしたのが事の発端ですよね。
そもそも存在した公文書を書き直したことで問題が大きくなったということですが、
文書が明るみに出てくる前は重宝に扱われた人が、文書が出た途端「こいつが悪の張本人」とばかりに責任を背負わされる。   
 
 あまりにも非情なことで唖然としますが、私たちの日常生活の中にもそのようなことってないでしょうか。
誰をまもるかということです。家族のなかで、会社組織のなかで一体誰をまもるのか。
 突き詰めていえば我が身ということでしょうが、だったら人間社会の意味って何かなと思ったりします。
 
 私が私がと自分を中心に生きたければ、自分一人で生きていけばいいことです。
でもそれは到底できません。私たちは放りだされるようにこの人間界に生まれてきて生きています。
私の思い通りになる人生ではありません。そこに私たち人間の根本的な苦悩があります。
 
 私たちの阿弥陀さまのお救いです。阿弥陀さまは私たち一人一人を大事に思いとって救うてくださるのです。
このお救いは今救うて明日は捨てるというものではありません。
摂取不捨、摂め取って決して捨てないと、南無阿弥陀仏の大きなおはたらきでずっと救い護っていくのです。
 今の救いですが、この命終えた後もです。
 
 南無阿弥陀仏のおはたらきをいただいた私が、社会の営みのなかでできることって何でしょうか。
お国のためとか世界平和のためとか大きなことは言いません。
 ナンマンダブツ、お念仏を申すということは、自分だけがよかったらいいということではありません。
自分も大事ですが、すぐ隣で泣いてらっしゃる方がいるかもしれません。
その人ひとに向き合い寄り添っていくことから私にできる精いっぱいのことをさせていただく。
 南無阿弥陀仏のお心をいただいてお念仏の道を共々に生かされて生きてまいりましょう。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.3.13)

お念仏に薫る生活

2018-03-12
 昨日は四日市別院で大分教区仏教青年連盟主催の仏教文化講演会があり、落語会とにおい袋作りを体験しました。
お寺でなぜ落語かというと、落語は高座で話をしますが、これは元々お寺の高座でお坊さんがお説教したことに始まります。
 そしてにおい袋は香です。今もお線香をたいていますが、香は仏さまのご縁には欠かすことのできないものです。
 
 におい袋を私も作りましたが、9種類の香を調合します。
スプーンで一杯とか半分とか0.3、0.2.0.1とかを混ぜて袋に入れ完成ですが、
人人によってにおい袋の香りが違うんですね。
 
 人それぞれ目分量でしますから微妙に違いがでてきます。隣の人のものとちょっと違います。
こういう違いっていいなと思いました。
 機械の作業だったらほぼ同じものができると思います。でも何か味気ないですよね。
自ら手に取ってすることで、世界で一つだけのにおい袋になります。
 
 何回も試みることで自分の好みの香りに出あえるという楽しみもあるのではと思いました。
そして熟成です。時間が経つことで微妙に香りも変わってしっくり落ち着いてくるというか、香の深みを思います。
 
 香は平安時代の貴族がよく用いたものだといいます。
お風呂に入る習慣がなく臭い消しの役目であったり、いい匂いを放って雅の世界を演出したものだと思います。
 
 西洋の香水です。香水もその人の好みで鼻をつくようなものもあります。
でも何度も馴染んで落ち着いてくるとその人の薫りになっていいなと思うこともあります。
 
 お念仏も薫りといわれます。人それぞれのお念仏の薫りです。
その大本は南無阿弥陀仏のお名号です。
「必ず救うまかせよ」とお念仏の薫りとなって私のところに届けられています。そのまま聞かせていただきます。
 
 ナンマンダブツ、お念仏の声はそれぞれ違います。私たちの生活ぶりもそれぞれ違います。
お念仏の薫りはお念仏の声となり身について、私たちを一つにつないでくれます。
 お念仏申す身になってお念仏に薫る生活を共々にさせていただきます。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.3.12)

お聴聞の宗教

2018-03-11
 法語カレンダーの三月のことばです。「本願をききて 疑うこころなきを 聞というなり」です。
 
 浄土真宗はお聴聞の宗教といわれます。
聴聞は聴く聞くと書きますが、聴くは私の方から聴いていくということです。
 
 お寺参りのお同行が「ご法話を何回聞いても分からん」と言われます。
それでお参りしなくなるかというと「だから聞かせてもらいます」とお聴聞を続けられます。
 
 聞の聞くは聞こえてくるということです。
南無阿弥陀仏のお心おはたらきが聞こえてくるといいます。
 今日の皆さんのおすがたです。この口からお念仏が出てくださるおすがたです。
 
 私が私がと、私に力が入るお念仏ではありません。
阿弥陀さまが「まかせよ救う」の南無阿弥陀仏のお心おはたらきを私たちにくだされました。
 私の方からいったらいただいた信心です。
その信心のすがたがナンマンダブツとお念仏を申す身にさせていただくということです。
 
 聞というは疑うこころがないといいます。疑うこころがないところが信心です。
ただ私たちの生活ぶりは、私が私がという私のはからいを離れることは一つとしてできません。
 はからいを離れることができないばかりか、次から次へと出てくる、これを煩悩といいます。
 
 私たちの浄土真宗の仏教は、厳しい学問修行を積んで煩悩を断ち悟りを得るという仏道ではありません。
煩悩一つ断つことが出来ないこの私を阿弥陀さまはすでに見抜かれ、必ず救うとご本願を建てられ
南無阿弥陀仏となって、浄土に生まれさせ悟りの仏にさせるとおはたらきなのです。
 
 南無阿弥陀仏のお心を聞かせていただくことが肝要です。
 
 ただこれだけ聞いたから分かった、理解したということではありません。
私が分かったということでいったら、知識のある方、お勉強のできる方、賢い方が救われるのでしょうか。
知識もない、縁があればどんなことでもしでかすこの私を見てとられての南無阿弥陀仏のお救いです。
 
 そのこと一つ心に入れてこれからもお念仏を申すなかに、お念仏の心を聞かせていただきましょう。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.3.11)
円光寺
〒870-0108
大分県大分市三佐3丁目15番18号
TEL.097-527-6916
FAX.097-527-6949
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