仏法は臨終を引き寄せて聞きなさい
2018-05-26
今日は土曜日です。日々の生活のなかで曜日の感覚がふっとなくなる時がありますが
この土曜日、毎週Iさんがお朝事にお参りでした。
今はご往生されてそのお姿を見ることはできませんが
土曜日が来ると今日もIさんがご一緒にお勤めされているように思います。
日々の生活、私たちの日常です。
お念仏の先人は「仏法は臨終を引き寄せて聞きなさい」といわれます。
臨終というのは臨命終時ということで、命終わる時に臨んでという意味で
まだ命は終わっていない、生きているということです。
ご門徒さんが亡くなってご家族から連絡がありお参りに行きます。
枕経といわれますが、正式には臨終勤行といって、すでに亡くなっているんですが
まだ生きてあるということで最後の最期ご本尊の阿弥陀さまにお礼を申させていただくお勤めです。
実際に亡くなったお方はお勤めできませんので、住職が代わってお勤めをさせていただきます。
臨終を引き寄せて仏法を聞くとは、今日の御文章さまのなかにも何度も何度も出てきましたが
私たちのご法義は阿弥陀さまのご本願のお心、信心をいただくことを要と聞かせていただきます。
その信心は臨終のときにいただいてお浄土に往生するのではなくて、平生今いただく信心なのです。
今が臨終といただきます。
阿弥陀さまのご本願のお救いは臨終のときに決まるのではなくて
南無阿弥陀仏の法はもう今すでにいつでもどこでも私のところに届いてくださってあると聞かせていただくのです。
平生業成(へいぜいごうじょう)です。平生今私たちはご本願のお救いに遇って
阿弥陀さまのお浄土に生まれて仏さまになることに定まると聞かせていただきます。
今聞く、平生この日常に臨終を引き寄せて阿弥陀さまのご本願のお心おはたらきを聞かせていただきます。
平生業成のお救いを親鸞聖人は「臨終待つことなし、来迎たのむことなし」という御文で示されています。
臨終待つことなし、今が臨終、南無阿弥陀仏のおはたらきの真っただ中です。
仏法は臨終を引き寄せて聞け、今聞け急げ急げとお勧めなのです。
その臨終こそ今朝のこのご縁お朝事のお勤めでもあります。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.5.26)

「人生は苦なり」
2018-05-25
お釈迦さまは「人生は苦なり」と説かれます。
何かマイナスイメージなことを最初から聞くと、仏教を聞くのが嫌になりそうですが
「人生は苦なり」という真実から仏さまの教えが始まるのです。
人生とは私の日々の生活です。
昨日の生活でもあり今日の生活でもありまた明日の生活でもあります。
苦というのは思い通りにならないということです。
人生の主役はこの私、人生は私の思い通りにならないというのです。
私の周りのものが思い通りにならない、私の言うことを聞かない、言う通りにしない、反発するということです。
こういうことってお互いに日常茶飯事にあることで
何度も何度も経験するなかで私たちは自分なりにうまく対処して生きています。
ところが歳を重ねるなかで一番といっていいほど思い通りにならないものがあったことに気づかされます。
私の一番思い通りにならないものがどこにあるのか。キョロキョロ周りを探すのではありません。
実はこの私自身が一番思い通りにならないものだと仏法は説かれるのです。
そういう意味で、仏法に遇うということは本当の自分にあうということ、自分自身に向き合うことなのです。
仏さまがおっしゃることです。
あなたはその身その心を煩悩にからみとられて生きていますよと。
何か私たちは自分のことは自分が一番よく知っていて
自分のことは自分の思うようにできると思い込んでいるところがありますね。
ところが実は私たちは煩悩にとらわれ縛られて自分のことでありながら自由自在に生きることができないと
仏法は説かれるのです。
そのことが周りのものが自分の思い通りにならないという見方になるということですし
そしてもう一つこの身このままが思い通りにならないのです。
この身ということは、生きるということです。
生きるということは、老いるということ、病むということ、そして命を終えていくということです。
いつまでも若くありたい、健康でいたい、長生きしたいと思っても、これはどんな人でも待ったなしの事実なのです。
このことに本当に向き合わなければならない時が必ず来ます。
若い時分は、若さや健康にまかせて自分自身のことと受け止め考えることがなかったのではありませんか。
それがこの身の事実として思い通りにならないことに気づかされるのです。
大きな不安を感じ苦悩します。
将来の不安です。一体これからどうなるのか。もっというとこの命終えて死んだらどうなるのかという不安にもなります。
明日のいのちもおぼつかないという苦悩のなかに、仏さまのご縁をいただきます。
仏法を聞いてくれよといわれます。私たちの仏法は南無阿弥陀仏、阿弥陀さまのご法義です。
ナンマンダブツとお念仏を申してくれよと阿弥陀さまはおはたらきです。
ナンマンダブツとお念仏を申したらそうした悩み不安がすべて解消するのでしょうか。
ナンマンダブツとお念仏申すなかに「私がいるよ。大丈夫だよ」と阿弥陀さまのおよび声を聞き
南無阿弥陀仏の大きな大きなお慈悲のなかに共々に生きることができるのです。
お念仏申すなかに私たちは思い通りにならないことに向き合っていくことができるのです。
誰しも苦悩の状況から逃げたいですよ。でも逃げても逃げても何の解決にもなりません。
この阿弥陀さまのご法義がすごいのは、私がどんなに逃げても逃げても逃げても、どこまでも私を追って追って追いかけて
最後は南無阿弥陀仏のお慈悲の中に摂め取って救うてくださるというおはたらきなのです。
どうぞナンマンダブツとお念仏申し南無阿弥陀仏のお心を聞くなかで、
日々の生活、今日の一日です。思い通りにならないことがたくさんたくさんありますが
ナンマンダブツとお念仏申して生きてまいりましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.5.25)

さわやかな朝を迎えました
2018-05-24
気持ちのいいさわやかな朝を迎えました。
光あふれて、風もいいですね。そして色んなお花がいっぱい咲いています。
今朝梵鐘をついて玄関に戻るときソテツの前の満開のさつきが目に飛び込んできました。
お花を愛でる楽しみも多くなります。
花のいのちも私のいのちも同じいのちです。
御仏前にお花をお供えさせていただきます。
人にお花をプレゼントであげます。きれいな花びらの方を向けてあげます。
ところが仏さまのお花はきれいな方は私たちの方を向いています。
間違いではありません。それでいいのです。
仏さまのお花は仏さまのお慈悲のお徳おはたらきをあらわしているのです。
お花を見てほっとします、ほっとさせられます。
むしゃくしゃした心も優しく整えてくれる、そういうはたらきがお花には具わっています。
元々私たちのいのちもそういうはたらきがあるのでしょうか。
周りの人を和やかにほっとさせるあたたかい心です。
ところが私たちはどこまでも私が私がという自分を中心としたものの見方にとらわれて生きていますから
気づかないうちに周りの人から敬遠されることもあるのではないでしょうか。
誰しも周りの人ばかりでなくみんなと仲良くありたいのですが、中々そうはいきません。
あの人に会うのは気が進まないな、会いたくないなとさえ思うことがあります。
これはあの人の話ではなく、そういう私になってはいないでしょうか。
ナンマンダブツとお念仏を申し南無阿弥陀仏の鏡にあわせていただいて
わが身のありのままの姿を知らせていただけるのもお念仏南無阿弥陀仏のおはたらきです。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.5.24)

みんなの親さま南無阿弥陀仏
2018-05-23
今話題のアメフト悪質タックル問題で、タックルした選手が顔を出し名を名乗って記者会見を開きました。
監督コーチの指示があったが、拒めなかった自分の弱さが原因といい
相手チーム、けがをさせた選手への謝罪と償いの思いで真実を公表することにしたという内容です。
今朝の新聞の一面はアメフト問題の記者会見のことと
加計問題で愛媛県が公表した新事実についての安倍首相、政府国会の対応が主なことでした。
危険なタックルで相手チームの選手にけがを負わせた加害者です。
本来は批判の集中の的で20歳の青年のこれからの人生にも大きな影響を及ぼすことですが、敢えて覚悟を決めてです。
ここで真実を話さなかったらずっと後悔していくことになるという重い決断だったのでしょうね。
一方は色んな文書記録が出てきても「知らない」「記憶にない」「会ったことがない」を繰り返し
真相を解明しようという誠意が全く感じられません。
とにかくこの場を逃れれば時間が過ぎれば真実は闇の中に忘れ去られると、その一点張りなのでしょうか。
人生の経験もまだまだ浅い青年と人生の酸いも甘いも知り尽くした大人の対応、同じ今の向き合い方です。
今回の二つのこと、二つの対応が本当に好対照に思えてなりません。
ちょっとこういう見方をしました。
今回のアメフトの両青年の対応に親の存在が大きなものになっているということです。
どちらも親と相談しています。そして親の思いというものが強くうかがえます。
子どもは親の後ろ姿を見て育ちます。子どもにとって親は人生を生きる上で一番身近な教科書です。
その人生の歩みのなかで学校の先生、スポーツでいうと監督コーチ、会社組織にあっては上司先輩の指導があって
その人人が成長していくということです。
その中心に親がいます。親の存在は子どもにとって大変大きなものがあります。
親はどんな子どもであっても守り抜きます。ある時は厳しい言葉をかけ、ある時はそのままやさしく抱き取ってくれます。
そういう親の存在があって昨日20歳の青年に会見をさせたのではないかなと思います。
国会の騒動はそれぞれ役職立場があって皆さん偉そうにしていますが、それぞれに親がいます。
親に相談しましたか。相談しようと思っても親は亡くなっていないということですが、相談はできると思います。
親だったらこういうふうにするだろうなと、親だったらこんなアドバイスをしてくれるのではないかと思いを巡らします。
そういう思いがないと、何か結局は自分さえよければと自分を守る体面を守る組織を守るということだけに終始して
社会全体が何か変てこな感じになってしまうのではないかと思います。
私たちの阿弥陀さまです、親さまといいます。
南無阿弥陀仏の親さまに相談させていただきましょう。
ナンマンダブツとお念仏申すということは親の願いを親の言うことを聞いていくことだよと、
そこに一番の安心があるんだよとまた味わわせていただきます。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.5.23)

無料食堂
2018-05-22
この前テレビのニュースで無料食堂のことが取り上げられていました。
無料食堂といって何でも無料なのではありません。
一般の食堂ですが、店頭に小さな張り紙があって「もしどうしてもお腹がすいてもお家にお金がないときや
お子さんにおいしいものをお腹いっぱい食べさせてあげたいのにご事情があってむずかしいときなどは
コソっと店長に相談してください」と無料で食事を提供しているということです。
最近は子ども食堂が全国的にさかんで、生活に困っている家庭の子どもさんに食事を提供する活動が行われています。
今の社会は人と人とのつながりが希薄になって隣の人がどういう生活をしているのか
生活に困っている方がいても見えないわからない、見ようとしないわかろうとしない
逆に困ったところを見せないというなかに、今日の食べるものに困っている方がいらっしゃるということです。
困っている人が「たすけて!」と手をあげ声をあげることが難しい社会になっています。
5月初めに始めた無料食堂ですが、半月の間に10件ほどの利用者があったといいます。
いつもこの食堂を利用している人は「大変いいことだと思います。私が食事をして支払うお金が役に立ち
一つの社会貢献になっていると思うと何か嬉しいですね」と言っています。
なかには無料ということで悪用する人もあるのではと思われますが
店長いわく「100人来て99人にだまされても、1人の本当に困っている人を救えるならいいかなと思って始めました」と。
おいしかった、よかったと喜んでもらえたらということです。
今日の御文章さまのなかに「10人は10人ながら100人は100人ながら」というお言葉がありました。
阿弥陀さまのお救いは10人いたら10人とも100人いたら100人とも一人も漏らすことなく救わずにはおかないというもので
100人のうち99人が救われたらいいというものではありません。
残った一人をこそ救わずにはおかないと、一人一人に寄り添っていく南無阿弥陀仏のおはたらきなのです。
ナンマンダブツとお念仏を申し南無阿弥陀仏のお心おはたらきを聞かせていただいて
私にできることを精いっぱいさせていただきましょう。
いのちが見えにくい社会になってきているようです。
日常の生活、普段の人と人とのつながりのなかで、すぐそばで困ってらっしゃる方がいらっしゃると心を配りましょう。
困っている方が「たすけて!」と声をあげられる社会になっていけたらと思います。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.5.22)
