「福は内、鬼も内」
2018-02-03
今日は節分です。節分には豆まきをします。鬼に豆をまいて邪悪なものを追い払うという風習です。
鬼は悪役、嫌われ者です。桃太郎の鬼退治しかり、鬼は地獄の番人ともいわれ怖いです。
悪の代表のような鬼ですが、実はこの鬼、鬼神といって仏法を護る神さまだというんです。
仏の里といわれる国東(大分県北部)の六郷満山は、今年で開山1300年ということですが、
毎年1月に修正鬼会が勤まります。松明をもった鬼が山中を駆け巡り邪気を払って一年の五穀豊穣を祈る行事です。
この六郷満山は宇佐神宮と縁が深く日本古来の修験道と外来の仏教がいっしょになった宗教のかたちをとります。
神と仏がいっしょに信仰される、神仏習合のかたちです。
仏教が今から2500年ほど前にインドで生まれ、中国を経由して日本に入ってきたのが1500年ほど前です。
実は仏教が生まれ伝来する以前から、インド、中国、日本には固有の神々がいて、人々が信仰していたといいます。
そこに外来の仏教が入りその地域の宗教や信仰を取り込み神仏習合を繰り返して、仏教が発展してきたといわれます。
以上は、先日大分合同新聞に載った講演記事の受け売りです。
その先生いわく「鬼はもともと、法を護るもの、我々を守るもので、邪を避けるものだった」と強調し
「鬼は本来いいものだから節分には『福は内、鬼は内』というのが本来の筋だった」とお話しされたということです。
さて、私たちの阿弥陀さまが豆まきをしたら、どう言われるでしょうか。
「福は内、鬼も内」と聞かせていただきます。
「福も鬼も、善人も悪人も、女も男も、子どももお年寄りも、どんな人も、みんなおいでお浄土に、
みんなの家だよ、ようこそようこそ」
生きとし生けるすべてのものを分け隔てなく必ず救う南無阿弥陀仏のお心おはたらきを頼もしく思います。
「福も内、鬼も内・・・福も内、鬼も内・・・福も内、鬼も内・・・・・・・・」
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.2.3)
貧困と格差の社会
2018-02-02
昨日札幌の共同住宅で11人の方が火事で亡くなったというニュースです。
16人が同居して、高齢者の方が殆どですが、40代の方もいました。
自立支援住宅で、生活困窮者とも、低所得者とも、年金生活者ともいわれ、身寄りのない方々が
それこそ身を寄せ合うように一緒に暮らしていたということです。
以前は旅館だった建物を改造したということですが、築50年以上の古い木造住宅で防火設備も不十分だったといいます。
これだけみると、運営会社の責任問題になりますが、今の日本社会の実像をみるようで、考えさせられます。
東京ではネットカフェ難民が四千人もいるという調査報告があります。
定住する家がなくネットカフェで寝泊りする人です。
私たちは家があるということを当たり前のように思っていますが、家があることの有難さです。
家は帰るところ、私のいのちの依りどころ、本当に安心できるところです。
私たちの目には直接見えないけれども、すぐ近くに日々の生活に困っている人がいるということです。
終の棲家と決めて暮らしていた住宅に突然の立退き通知をうけた88歳の一人暮らしの女性が
「こんなに長生きするんじゃなかった」と言われます。
次の住宅を探すにも、家賃が高いとか連帯保証人が要るとかで、中々みつからないといいます。
70歳まで働いて一生懸命頑張って頑張って生きてこられた方です。
貯金も底をつき、今は生活保護を受けて生活をされているとのことです。
人それぞれ生活ぶりは違います。これまで生きてきた人生もそれぞれいろいろです。
色んなことがあったでしょう。
決して思い通りの人生ではなかったと思います。あの時ああすればこうすればと悔いが残ることもあると思います。
ただ色んなことがあったなかで歳を重ね、今生きています。この社会を生きています。それは私も同じです。
同じ時代を同じ社会を生きている私たちです。
今は貧困と格差の社会だという指摘があります。
貧困と格差に苦しみ、生活に困ってらっしゃる方がいらっしゃいます。
お念仏のみ教えを聞かせていただくことは、そうした社会の問題と関係ないということではありません。
「まかせよ救う」という阿弥陀さまのお心おはたらきは、まかせよとは安心しなさいということです。
安心しなさい、いつも私が一緒ですよ、どんなことがあっても決してあなたを見捨てることがありませんからね、
大丈夫安心して私と一緒に生きてまいりましょうと、南無阿弥陀仏のおよび声を聞かせていただきます。
お念仏の声が満ち満ちた社会は、本当に安心できる社会です。
あなたも私も共々に安心できる社会をめざして、みんなの家のように安心できるお寺になっていくように、
私にできる精いっぱいのことをさせていただきたいと思います。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.2.2)
お月さまに手を合わす
2018-02-01
昨夜は皆既月食ということで、夜空を見上げた方が多かったのではないでしょうか。
新聞の見出しに<3年ぶりの天体ショー>とありました。
太陽と地球と月が一直線に並び、太陽の光を反射する満月の月が次第に隠れ、赤銅色に変わっていきます。
今でこそ天体ショーといって皆さんが楽しんでいますが、
昔の人はたまに起きるこの不思議な現象をどのように見ていたのでしょうか。
おそらく不吉な予感がしたと思います。
煌々と光を放っていた満月が隠れていくのです。
日食は、日中に燦々と輝いていた太陽が欠けていき、辺りを瞬く間に闇の世界にするのです。
何か不吉なことが起こるのではないかと、不安な思いでひたすら祈ったのではないでしょうか。
今は科学の力でその仕組みが解明され、説明されて誰もが理解するところです。
ただ科学の力をもってしてもまだまだ解明できない、わからないことが私たちの周りにはたくさんあります。
宇宙の摂理もそうですが、第一私が生きてるこの命、この体の仕組み自体が謎です。
このいのち、どこから来てどこに行くのか等など、謎は深まるばかりです。
果たして科学で、人間の力で解明できることなのか。
解明しようとすること自体が人間のおごりとさえいわれます。
私たちのいのちは大自然の大きな大きないのちのなかに生かされてあるといいます。
私が私がという自分中心の小さな小さなものの見方ではなくて、仏さまの教えという大きな大きなものの見方に立って
私たちは謙虚に大自然のいのちに向き合っていきましょうと教えてくださいます。
お念仏のみ教えをそのまま聞かせていただきましょう。お念仏のお心おはたらきです。
南無阿弥陀仏「まかせよ救う」のお喚び声に、ナモアミダブツ「おまかせします」と手を合わせお念仏申しましょう。
南無阿弥陀仏の大いなるいのちです。大自然のいのちです。
皆既月食という大自然の営みにあって、月に向かって手を合わせ、大いなるいのちにありがとうとお礼を申します。
日々の生活のなかでお念仏のみ教えを聞かせていただき、大いなるいのちに生かされてあることを思います。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.2.1)
年度末の会議
2018-01-30
1月から3月にかけて年度末の会議が行われます。
4月からの新しい年度を迎えるにあたり、この一年を振り返り反省して、これから何をどうするかと協議します。
私たちのお寺関係の会もこの時期そうした会議があります。
前年度踏襲というように同じことを繰り返すことが一番安定しているようですが、
特に会社経営というところでは同じようなことをしていてはそれこそ明日がないといいますか、
そこで新たな方策、取組みを考え実践していきます。
かといって何でもかんでもできるわけではありません。
今までの実績の上に何か一つでも新しいことに取り組むということです。
それも一人ではできませんから二人三人皆さんと心を合わせてやっていくことが肝心です。
そのためにもその会の目標をみんなで確認することが大事になってきます。
果たしてみんなが同じ方向に向かって進んでいるのかという確認です。
私たちの人生の営みも同じことが言えます。
毎日同じことの繰り返しのような生活ですが、歳とともに思い通りにならない我が身の事実に愕然とし
周りの状況も大きく変わって、思いもよらないことも起こってまいります。
自分の思いの範囲内でのことは受け止めることができても、
想定外といわれるような状況の中で、私たちは戸惑い、立ち止まり、苦悩するようなことにもなります
人生は人それぞれいろいろです。
同じ屋根の下で同じものを食べて生活している家族でも、その生活ぶりは違います。
生活ぶりが違うお互いが共に生きる社会ですから、それぞれの思いで不都合なこともたくさんでてきます。
仏さまのみ教えに聞かせていただきます。
お念仏のご法義は、阿弥陀さまの方で私たちの人生の方向を決めてくださっているという教えです。
阿弥陀さまは、どこまでも自分を中心に自分の思い通りに頑張って生きようとするあまり、
思い通りにならない現実にぶち当たっては、迷い苦悩する私たちのすがたを見てとって、
私たちのいのちの行き先を阿弥陀さまのお浄土と決めてくださいました。
お浄土に往生させていただく、お念仏の道を歩ませていただきます。
一つの方向に向かって五人いれば、五人が同じ方向に向かって歩いていく。
その人ひとの生活ぶりは違いますが、一緒に往ける、一処に生まれるという往生浄土の人生です。
ナンマンダブツとお念仏を申して来いよと、阿弥陀さまはよんでくださっています。
お浄土に向かって共々に、お念仏申して私にできることを精いっぱいさせていただく営みが、
私たちの日々の生活だと聞かせていただきます。
どうぞお念仏を申す生活、お念仏を申すなかに今日の一日も生き抜かせていただきましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.1.30)
子どもっていいな!
2018-01-29
昨日ご法事があって、お正信偈さまのお勤めをしていましたら、後ろから子どもさんの声が聞こえてきました。
ずっと一緒にお勤めをして、念仏和讃という節のついた難しいところに入っても子どもさんの声がついてきました。
お勤めが終わってご法話をさせていただき、お茶をいただきながら「ぼくってすごいね」と声をかけました。
小学校低学年の男の子です。しっかりお経本を持って読んでいたんでしょうね。
子どもっていいな、と思います。
そのまま声が出るんですね。声になって出るんですね。その声が耳に入って覚えるんですね。身につくといいます。
逆に大人になると中々声が出ません。文字は読めますから、そのまま声を出せばいいんですが、
声を出していいものかなどと、考えます。素直じゃなくなるというか、私がという、はからいにとらわれます。
私が邪魔をします。
私たちの阿弥陀さまのご本願のお救いの法は、「まかせよ救う」の南無阿弥陀仏のおはたらきです。
南無阿弥陀仏は「まかせよ救う」のおよび声です。
「まかせよ救う」というんだから、私のところでどうこうはからうのではなく、
そのまま「はい、おまかせします」でいいんです。「はい」の一声でいいんです。
その「はい」が南無阿弥陀仏です。今日も皆さんの口から声となってお念仏が出てくださいました。
南無阿弥陀仏のお念仏です。
私が出そう出そうと思って出るお念仏ではありません。
ただ最初のうちは声に出そう、出さないとお念仏の声になりません。
仏さまのご縁をいただいて、お念仏を申す身にさせていただくのです。
させていただくとは、仏さまがお念仏を申す私にしてくださるということです。
子どもに理屈で話すことではなくて、子どもは周りの人の後ろ姿を見て育ちます。
素直にそのままいただきます。
子どもっていいな、と思います。
もう一ついいなと思うのは、ご法事のご縁に子どもさんがご一緒するということです。
今はご法事とか人が集まるときには、子どもはウロウロするから声を上げて騒ぐからと周りに配慮して、
子どもさんが一緒にお参りしないご法事が多くなりました。
小さい頃からご縁をいただくことの大切さを思います。
仏さまは子どもがどんなに騒いでも決して叱りません。
「ようこそお参りなさい」と微笑み喜んでくださいます。
ご縁をいただくかどうかは、そのお家の皆さんの裁量です。
あの時ああしておけばよかったというお話ではありません。
これからです。これからできるご縁、させていただくご縁です。
仏さまのご縁をいっぱいいっぱいいただいて、ご一緒にお念仏を申す身にさせていただきましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.1.29)