詩の世界・死の世界
2018-01-12
急に冷え込んできました。室内温度でいいますと、3日前より7度も低いです。寒いというより冷たいですね。
南国九州といいますが、九州各地軒並み氷点下の朝で、山間部だけでなく平野部でも大変な積雪というニュースです。
積雪というと、北国の冬の風景を思います。
雪にあまり縁のない外から見ると、雪の世界は詩の世界です。きれいな雪景色に、夢をみロマンを感じます。
ただ雪の世界で生きる方々の現実生活は厳しく、雪は厄介ものとさえいわれます。
これもニュースでしか見聞きしないことですが、70歳80歳のおばあちゃんがせっせせっせと雪かきをしています。
背丈ほどの大きな雪を家の屋根から下している人がいます。大変だなと思います。
雪下ろしで亡くなる方が何人もいらっしゃるといいます。
まさに生死をかけた、命がけの生活をされているということです。
外から見ると美しい詩の世界も、その内に生きる人には、死の世界です。
外から見る人は、雪がない所に住んだらいいのにと思いますが。
その内に生きる人は、厳しい自然環境の中でも先人が培い伝えてくれた生活の知恵をたよりに生き抜いてきたのです。
外からでは分からない、そこに暮らす人の楽しみがあるということではないのでしょうか。
先人の知恵が息づくなかで、詩の世界が護られてきたともいえます。
今日のお朝事も、こんな暗い中寒い冷たい中でお勤めしないといけないのかと、外から見る人は思うかもしれません。
ただこうして御仏前にご一緒にお念仏申して、今日の一日も始めさせていただけることを本当に有難く思います。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.1.12)
いのちをあずかる
2018-01-11
昨日は子ども会水曜学校の今年初めての会ということで「新春お楽しみ会」をしました。
10人の小学生がお参りされました
いつもみんな一緒にお勤めをして、その後新院さんがお話をしますが、昨日はいつもとちょっと感じが違っていました。
というのも、10人のうち半数の子どもさんはいつもは水曜学校に来ていなく、
子ども同士で「今日はお寺でお楽しみ会があるから行かんか」「ああ行こう」ということで来た初めての子もいました。
始まる前から何かざわざわして、お勤めの間も横を向いたり落ち着かない様子でした。
新院さんは「このお寺にはただ遊びにきているということではないんですよ」
「ちょっと大げさかもしれませんが、みんなの命を預かっているんです」と話をしました。
お家の人が子どもがどこに行ったかわからないと心配するのでは困ります。
「いのちをあずかる」と聞いて、はっとしました。
先人から「お寺の住職はお寺をあずかり、ご門徒さんをあずかっているんだよ」と何度も聞かされています。
ご門徒さんのいのちをあずかるということです。仏さまに成らせていただくいのちです。
ただ初めてのご門徒さんにこんな話をしてもピンとこないと思います。
だからお寺があるんです。浄土真宗のお寺は聞法の道場といいます。
仏に成らせていただくいのちを、今こここの私が生きているということを聞かせていただきます。
お寺はただ遊びにくるところではありません。
蓮如上人は御文章さまに、お寺の寄合のとき「酒飯茶なんどばかりにてみなみな退散せり」と書かれています。
お寺参りして、ただお茶を飲みご飯を食べお酒を飲んで帰ってしまったら、これほどもったいないことはないと。
お寺参りは「信心獲得のため」といわれます。
酒飯茶もいいんです。お寺に遊びにきてもらっていいんです。
ただお寺参りをご縁にして、仏法を聞いてくれよお念仏を申す身になってくれよと思います。
浄土真宗の仏教を開かれた親鸞聖人から、このお寺をあずかり、ご門徒皆さんをおあずかりしているのです。
住職のつとめを思います。お寺にお参りしましょうと、ご門徒有縁の皆さんに声かけをします。
私も皆さんとご一緒に仏法聴聞させていただきます。そしてお念仏申す身にさせていただきます。
今日もこうしてお朝事のお勤めをご一緒させていただきました。
共々にお念仏申してお浄土参りをさせていただく身の幸せを思います。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.1.11)
君たちはどう生きるか
2018-01-10
昨日NHKのテレビで「君たちはどう生きるか」という本の紹介がありました。
80年前に吉野源三郎さんが書いた本ですが、今世代を超えてブームになっているとのことです。
原作をもとに漫画が出版され若者を中心に飛ぶように売れて原作も読み返されているということです。
なぜ今この本が注目され読まれているかについて、今生きている社会に閉塞感を感じる人が多く何か息苦しいなかに、
一つ風穴を開けてくれるような生きるヒントが書かれてあるといわれます。
番組の最後にキャスターが「この本の最後にこう書かれています」と言いました。
どんな結論かと思うでしょう。
本の最後は「君たちはどう生きるか」でしたと。
結論を言わないというか、結論はないといっていいのでしょう。
人それぞれ生き方は違うのであり、この本の主眼は生きることの結論はあなた自身の問題ですよということでしょうか。
『歎異抄』の第二条を思いました。
関東のお弟子さんたちがはるばる命がけで京都に親鸞聖人を訪ねてきます。
「往生極楽の道」を問いたずねるためです。関東でお念仏の救いに異議が蔓延し、不審を晴らしたい思いからです。
それに対し親鸞さまは「ただ念仏して、阿弥陀仏に救われ往生させていただくのである」と自らの信心を明かします。
そして最後に「念仏して往生させていただくと信じようとも、念仏を捨てようとも、
<面々の御はからひなり(原文)>」と言われます。取るか捨てるかは<あなた方お一人お一人が決めることです>と。
凄い言葉ですが、大事なことです。
私の人生、私の歩む道です。
一度っきりの人生です。人から言われて歩む人生ではありません。
ただ「どう生きるか」何も教えてくれる人がいない、教えてくれるものがないのでは、不安です。
だから「どう生きるか」その道行きを求め、たずねていくのです。
仏法聴聞です。南無阿弥陀仏のお心をたずねていきます。
今朝もご一緒にお正信偈さまのお勤めができました。
「帰命無量寿如来」と発音し「南無不可思議光」と一同に続きました。
南無阿弥陀仏です。南無阿弥陀仏一つに、この道を一緒に往こうよと親鸞さまがお呼びかけです。
「まかせよ、救う」の南無阿弥陀仏のおはたらきに「はい」とおまかせして今日もこの道、
お念仏の道を皆さんご一緒に歩ませていただきましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.1.10)
声になった仏さま
2018-01-09
昨日別府別院の初法座にお参りしました。ご法話を聴聞させていただきます。
阿弥陀さまは南無阿弥陀仏の声になった仏さまというご法話でした。
いつでもどこでもどんなあなたであっても南無阿弥陀仏、お念仏の声となって、
私のところに来てくださり、私と共に生きてくださる仏さまに成ってくださったと聞かせていただきます。
私たちは仏さまや神さまに「こうしてほしい。こうなりたい、ああなりたい」と注文しお願いしたり祈ったりします。
その願いは自分勝手な、自分の都合もいいところです。
阿弥陀さまはそのような私たちに「何を都合のいいことばかり言っているのか」と叱ったり、
「そういうことだから駄目なんだ、こうしなさい」と注文をつけたり、
「こうしたら願いをかなえてあげるよ」と条件を出したりする仏さまではありません。
「ああそうか、ああそうか」とそのまま聞いてくださいます。
でも「ああそうか」といって私たちの願いをそのままかなえてくれるということではありません。
私たちがこうしたい、ああなりたいと思い、願うのはどこかに不安があるからです。
そういう私のことをを見抜かれた阿弥陀さまは、南無阿弥陀仏と私のところに来てくださり、
そのまま寄り添い抱きとってくださるのです。
「ああそうか、ああそうか」と、南無阿弥陀仏の声となって「私がいつも一緒だよ。
どんなことがあってもあなたを見捨てることがないから、大丈夫だから、一緒に生きていこうね」と
私に寄り添い喚んでくださる仏さまに成ってくださったのです。
ナンマンダブツとただ一声、お念仏が私の口から声となってでてくださいます。
阿弥陀さまがいつもご一緒です。
南無阿弥陀仏に安心して、今日も一日お念仏申して生かされて生きてまいりましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.1.9)
成人と成仏
2018-01-08
今日は成人の日です。
私たちの頃は1月15日でしたが、今は1月の第二月曜日ということです。
いつも連休になりますので、昨日の日曜日に成人式があったところが多いようです。
20歳の同窓会といった自分たちの身内の会といった雰囲気で、明日が休み、公にお酒も飲めるということで、
一部の成人式では派手な服装で酒を飲んだ集団が式典を妨害して、救急車を呼んだり、警察が出動するといった
異様な事態にまでなることが、毎年のように報道されます。
成人、人に成るといいますが、どういうことでしょうか。
社会的な責務を果たす年齢になったということもできます。
今は被選挙権が20歳から18歳になりました。それで成人の年齢も18歳にしようという動きもあるようです。
ただこれは、20歳にしようと、18歳にしようと、法律が決めることです。
法律で決められてもその人に自覚がなかったら、社会的には迷惑な成人が増えるということではないでしょうか。
私たちの仏法です。迷いの私が悟りの仏に成る教えです。成仏といいます。
成人は人に、成仏は仏に成ると書きますが、成仏は人が仏に成るのです。
この私が仏に成る道をたずねていくことをお聴聞といいます。
一般に仏道は、仏に成ろうと志をもった人が学問修行を積んでこの世で仏に成ることをいいます。
ただ私たちの浄土真宗の仏道は、この世で仏に成るという教えではありません。
年齢が幾つになったから、お寺参りを何回したから、仏教の知識が増えたから仏に成るということでもありません。
自分のことで精いっぱい、生きることで精いっぱい、仏に成ろうと少しも思わない、救われようのない
仏に成ることができない、この私がいると見抜かれた仏さまがいるという教えです。
だからこそこちらの仏さま、阿弥陀さまがこの私をこそ救わずにはおかないと願いを建て、
その願いを成就されてお立ちになり、南無阿弥陀仏と私のところに来てくださり、
この私をお浄土に生まれさせ、仏に成らせようとおはたらきくださって、この私が仏に成らせていただく仏道なのです。
南無阿弥陀仏のおはたらき一つで、仏に成らせていただける、その尊いいのちを今ここに生かされて生きているのです。
このことを聞けば聞くほどに、身を慎み私にできる精いっぱいの御恩報謝の生活をさせていただきましょう。
成人といい、成仏といい、この私が成るということです。
どうぞこれからも仏法聴聞、南無阿弥陀仏のお心を聞かせていただくなかに、
いよいよお念仏申してお浄土への人生を歩ませていただきましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.1.8)