テレビの中のお仏壇
2018-02-21
NHKの朝ドラ、今は「わろてんか」という大阪で笑いをビジネスとして創業する女性の一代記ですが、
ご主人に先立たれてお仏壇に向き合う場面が度々出てきます。
気をつけて観ますと、浄土真宗のお仏壇です。はっとしました。
浄土真宗のお仏壇にお写真をご安置するのはお荘厳としてふさわしくありませんが、
目に見える形で先に往かれた方に語りかけるという設定です。
数週間前の回でしたが、そのお仏壇にお参りされた方が線香を香炉に横に寝せてお供えしたのです。
えっと思いました。立てるのが一般的だからです。
これは浄土真宗の作法として正解です。何か嬉しかったですね。
どうしてこんなことができたのでしょうか。
一つは番組プロジューサーが浄土真宗の関係者かなと思ったりします。
最近のNHK大阪放送局制作の朝ドラのお仏壇は浄土真宗のものが多いように思います。
もう一つはあのお家は元は船場の米問屋だったということです。
船場の商人です。その多くは近江の国、今の滋賀県出身の近江商人です。
この近江の地は蓮如上人ゆかりの地でお念仏のご法義のあついところなんです。
その船場が今の御堂筋辺りです。
御堂筋に二つの大きなお寺があります。
一つは北御堂といわれる本願寺津村別院で、もう一つが南御堂の東本願寺難波別院です。
船場の商人は本願寺の鐘をきいて一日を始め、一日を終えたといいます。
近江商人の商いの考え方に「三方よし」があります。
ただ自分だけが儲かったらいいというのではなく、商いの相手にも喜んでもらえ、
広く地域社会にも貢献することを心がけたといいます。
仏さまの慈悲の心、布施の心に通じるものです。
お念仏の土徳を思います。皆さんも気をつけてテレビを観てください。
ご一緒にお念仏申しましょう。(2018.2.21)
ライバル以上の友人
2018-02-20
オリンピックでメダルをとった選手の人生にスポットライトが当たります。
その人の人生、いのちの物語です。
スピードスケートの小平選手です。千mで銀メダルそして五百mで金メダルをとりました。
皆さんはどんな思いでテレビを観ていましたか。
日本の選手は頑張ってほしい、メダルを取ってほしいと応援します。
一方他の国のライバル選手には転んでほしい、失敗してほしいと観ている私がいます。
競技自体を何も知らない者が色々言って、日本のメダルはいくつだとか、
結局はメダルを取ったか取らなかったかでその後の扱い方が全然違ってきます。
本当に身勝手な私たちだと思います。
では当事者はどうなのか。ライバル同士でいつもいがみ合っているのでしょうか。
全選手の出走を終えて金メダルが確定した小平選手が韓国のイサンファ選手と健闘をたたえ合う場面が感動的でした。
お互いにベストを尽くした結果が金メダル、銀メダルということです。
確かに選手は高みをめざしますが、それは全ての選手に言えることで、お互いの実力も知りつつ競技しているのですね。
イ選手は母国開催の期待を一身に背負ってこの競技に集中してきたことを小平選手はよく知っていただからこそ、
五輪新記録で走ってメダルをほぼ手中に入れたと歓喜に沸くスタンドに静寂をよびかけ、
次のレースのイ選手の走りに注目するように促したのです。
競技を終えて泣き崩れるイ選手を抱きかかえるようにして小平選手がかけた言葉が「あなたを今も尊敬してます」でした。
そして後の記者会見で「ライバル以上の友人です」と言われました。本当に素晴らしいと思いました。
お互いに尊敬しあい、相手のことをよく知っているからこその言葉です。
小平選手のいのちの物語です。
長野の大学を卒業しどうしても師事する先生のいる長野で競技を続けたいと就職活動をするなかで、
病院の先生が声をかけてくれて今があるということです。
小平選手は自らを求道者といっていました。
固い信念を貫いて自分の人生を切り開くといいますが、
決して自分一人の力ではない、そこに家族をはじめたくさんの方々のサポートがあったからこそです。
感謝の言葉が何度もでてきました。
ただこの物語はオリンピック選手だけではなく、私たちも一人一人いのちの物語をつぐんでいるんですよね。
今もいのちの物語を生きているのです。
そういうなかに一人じゃない、いろんな人にたくさんのいのちに支えられてあるということです。
お互いに本当に尊敬しあえる友人に会うということ、人生の大きな宝ものです。
私たちは阿弥陀さまのお仲間です。
阿弥陀さまを中心に南無阿弥陀仏の大きないのちの物語を今日も一日ナンマンダブツとお念仏申して
お互いに尊敬し合いたたえ合い励まし合い支え合って生かされて生きていきましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.2.20)
どのお葬式も精いっぱいていねいにお勤めさせていただきます
2018-02-19
昨日お葬式がありました。初めてのご縁の方です。
三佐の方ではなく、本当に初めてのご縁と思ったのは、お焼香するとき会葬者の顔が導師の私には見えるのですが、
一人として知っている方がいらっしゃいませんでした。
ご遺族から「家族葬です」といわれました。
家族葬というと家族親族だけで執り行う小規模葬をいうようです
最近もう一件お葬式がありましたが、このお葬式はお参りの方が家族と兄弟縁者の方7人でした。まさに家族葬です。
ところが一昨日お通夜にお参りしましたら、駐車場が満車で会場をのぞくとたくさんの方がお参りでした。
葬儀社の方に「家族葬と聞いたのですが・・・」と言いますと、係の人も唖然とした様子でした。
昨日のお葬式も大勢のお参りでした。お正信偈さまのお勤めをします。
今は少人数のお葬式が多くて、お正信偈の途中早い段階でお焼香が終わり、
あとはひたすらお坊さんがお経をあげるといったようなことです。
ところが昨日はお正信偈を読み終えるまでにお焼香が終わるのかなと心配するほどのたくさんのお参りでした。
葬儀のあり方が随分変わってきています。これからもっと変わっていくのでしょう。
ただお勤めをさせていただく僧侶の方からいったら、
会社の社長さんの社葬という大きなお葬式もどんなに小さな何人かのお参りのお葬式も、お勤めは同じなのです。
その人ひとの一度っきりのご縁です。
それぞれの人生を精いっぱい生き抜いてこられた方のご縁です。
つとめて丁寧にお勤めをさせていただきます。
昨日のご縁も初めての方ですが、ご縁があってお葬式をさせていただくということです。
「精いっぱいお勤めさせていただきます」とご遺族の方に申しあげました。
そしてこのご縁はお葬式だけのご縁ではなくてそれからもつながっていきます。
私がつないでいくのではありません。仏さまのご縁をいただくなかでつながっていくのです。
大きないのちのつながりのなかで、私たちは一人じゃなかった、死んだらお終いじゃなかった、
人の命は終わるけれども、お浄土に生まれて仏さまにならせていただき、
またこの世に還って来て有縁の方々と共々に生きていくいのちなのです。
無量のいのちをいただいて生きていることを思います。
昨日お葬式のご縁の方はこれから仏さまのご縁が始まるということです。
仏事のことはわからいことだらけだと思います。
だからこそ何でも聞いてください。
わかろう理解しようと頭で聞くのではありません。
ナンマンダブツとお念仏を申すなかに仏さまのお心を聞かせていただきましょう。
仏さまのご縁に遇えてよかったといえる日暮しをさせていただきましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.2.19)
みちゃおれん
2018-02-18
昨日はピョンチャンオリンピックの男子フィギアスケートで、羽生選手が金メダル、宇野選手が銀メダルということで
日本中が大いに盛り上がりました。
私もテレビで観ていましたが、羽生選手は昨年11月の大けが以来の競技で大きな不安がありましたし、
宇野選手は最初のジャンプで転倒して「観ちゃおれん」とテレビから離れた人も多かったのではないでしょうか。
親身になるといいます。
羽生選手や宇野選手を応援する気持ちは、どこか子どもをみる親のようなものではないでしょうか。
阿弥陀さまの大悲のお救いのおはたらきは同体の慈悲といって、親身になるということです。
阿弥陀さまが親で救いの目あてのこの私は子どもです。
阿弥陀さまは久しく遠い昔から私のことを見てとって「みちゃおれん」と南無阿弥陀仏のみ名となり
私のところに来てくださって「まかせよ救う」のおはたらきをしてくださっています。
さて「みちゃおれん」とテレビを離れ目をつぶった人は、本当の意味で親身になっていたのでしょうか。
私たちの「みちゃおれん」は、ひいきの選手がうまくできてほしい、いい成績を上げてほしいという思いから
見守ることさえできず、ただ不安から逃れたいだけの自分本位のことではないでしょうか。
阿弥陀さまのおはたらきを真実の救いといいます。
この真実という言葉を親鸞聖人は「もののみになるまこと」といわれます。
もののみになるとは「みちゃおれん」と目を背けることではありません。
阿弥陀さまの「まかせよ救う」のおはたらきは人ひとによって違うということではありません。
もののみになるまことです。
南無阿弥陀仏のおはたらきとなって私の身に満ち満ちてくださり、
私の心に信心を開き、私の口からお念仏が出てくださると聞かせていただきます。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.2.18)
日頃からのご縁
2018-02-17
昨日「お葬式をお願いしたいんですが・・・」と電話がありました。
お寺に来てお話を聞かせてくださいとご返事して、ご夫婦がみえられました。
初めてお会いをする、初めてのご縁の方です。
お聞きしますと、お母さんが何年も前に重い病気になられて今日お亡くなりになったということです。
身内の方が亡くなってお葬式をどうするか。
お寺との関係がなく、お仏壇もお墓もないお家の方にとって、それは大きな問題です。
大きな問題だからこそお亡くなりになる前に、家族で考え相談できたらいいのでしょうが、
身内の方それもとても大切な人の死を前提にしたお話です。
考えたくない、思いたくないことです。
そして相談しようにも、誰にどのような相談をしていいのかわからないというのが本当のことのようです。
臨終勤行に始まる葬儀全般の仏事について一通りお話して
「わからないことがあったら何でも聞いてください」と言いましたら
「何を聞いていいのかがわかりません」というご返事でした。
日頃からのご縁の大切さを思います。
仏事について誰でも気軽に相談できる場があればいいと思います。
そしてそれがお寺という場、お坊さんの役割だと思います。
今は核家族で、お仏壇のないお家が多くなり、日頃から仏事にあうことが少なくなりました。
周囲に年輩の方もいなくて、何でも相談することが本当に難しくなりました。
一方ネット社会でいろんな情報がすぐ手に入る時代になりました。
ただ情報過多で、自分に都合のいい情報ばかりを取り出すことで、
全体的につながらない変てこなものになってしまいがちです。
お葬式はしたけれども、お坊さんにお経をあげてもらったけれども、お葬式でそれっきりということも起こってきます。
お寺とご門徒のつながりを思います。
お葬式の時だけの何かあった時だけのつながりではありません。
遠いご先祖からつながっている、仏さまのご縁という深いつながりです。
ただ門徒といって、仏事のことがわかっているかというと、知らない人が多いように思います。
仏事のことはお寺に、お坊さんにまかせておけばいいという考えなのでしょうか。
とはいってもその時になって色々もの申すご門徒さんにも閉口します。
その時にああやこうやと慌てないためにも日頃のことが大切です。
お聴聞です。平生です。日頃からお念仏のみ教えを聞かせていただきましょう。
亡くなる間際にお念仏申せよ、阿弥陀さまのお救いはこうだといっても耳に入りません。
日頃からのご縁です。
蓮如上人が「仏法は若いときにたしなめ」と言われたのはここです。
若いときといっても、仏法聴聞に年齢制限はありません。
今です。今仏法に遇わせていただくことが大事なのです。
今お念仏申す身にさせていただくことの有難さを思います。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.2.17)