お念仏の花
2018-03-03
今日は桃の節句です。
桃の花が今見頃です。河津桜も咲いています。いよいよこれから桜の本番ということになります。
春になると色んな花が咲いて楽しみです。
桜の開花日が気になるところですが、大よそその花花の咲く時期は決まっています。
突然急に根のないところに花は咲きません。
大いなる光といのちに育てられて花が咲くのです。
お念仏のみ教えでいいますと、私たちもお念仏の花を咲かせるといいます。
お念仏の花はお念仏の土壌に根を張ることで必ず咲かせていただきます。
まさにお念仏の力おはたらきです。阿弥陀さまの本願他力と申します。
「必ず救うまかせよ」の南無阿弥陀仏のおはたらき一つに育てられお念仏の花を咲かせていただきます。
お花はそれぞれ同じようで一つ一つ違います。人もまたそれぞれ違います。人それぞれの生活ぶりです。
今拝読の御文章さまにもいただきましたが、それぞれの生業、仕事も違います。家族、親子兄弟夫婦といっても違います。
ただ同じ南無阿弥陀仏のお念仏の土壌に根っこをはる私たちは、
みんないのちつながっていっしょの同じ南無阿弥陀仏の花を咲かせるお念仏のお仲間です。
お念仏の花をこれからもいっぱいいっぱい咲かせましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.3.3)
ご縁つながって
2018-03-02
昨日お寺に訪ねてこられた方がいて、お母さんの四十九日をお勤めしていただけますかということでした。
初めてのご縁の方で、いろいろお話を伺いました。
北九州に住んでいたお母さんが亡くなって、お手次ぎの浄土真宗のお寺さんにお葬式をしていただき納骨して
大分の家に仏壇を持ち帰り、今後のお勤めを同じ浄土真宗の円光寺でしてほしいということです。
これまでも何件か、お葬式は他のお寺さんお坊さんがお勤めして
その後の四十九日から初盆、一周忌、三回忌という仏事のお勤めを頼まれることがありました。
今はお葬式でお終いというところもあり、お葬式自体をしないところもでてきました。
ずっとお話を聞いていましたらこれまでにご縁のある方で、以前円光寺にお参りされお話を聞いたことがあり
すぐ近くのご門徒さんをよく知っているということで、とんとん拍子に話が進み
何日の何時にお勤めにお参りしますということになりましました。
ご縁です。ご縁というのは自分があれこれつくり上げるものではありません。
これまでもつながって、これからもつながっていく仏さまのご縁です。
そしてもう一つお聞きしたいということで、新しいお仏壇を申して古いお仏壇をどうしたらいいかと、お仏壇の処分です。ゴミに出すといってそのままでは市のごみ収集の決まりでできません。
仏壇店に引き取ってもらうのがベストですが、お仏壇と分からないようにしてゴミに出したらいいですよと言いました。
一般心情的に私たちはお仏壇を粗末に扱ったり、勝手に始末できません。
そこで魂抜きのお経をあげてほしいとか言われますが、御礼のお勤めをさせていただきましょうと言いました。
それは特別なお勤めではなくて、日々のお勤めです。日々のお勤めのなかに御礼をさせていただくのです。
それで古いお仏壇のお役目が終わり新しいお仏壇のお役目が始まるのです。
そして大事なことはお家の中心、お仏壇の中心の阿弥陀さまという仏さまです。
阿弥陀さまがずっとずっといつでもどこでも私たちの生活を見守ってくださってあるということです。
その阿弥陀さまのご縁を私たちにつくってくださったのがご先祖有縁の仏さまです。
仏さまの大きなご縁につながって生かされて生きている私たちだということです。
ずっとずっと広く広くご縁つながってあるなかに私たちは安心して今日一日の日暮しをさせていただけるのです。
それを救いといただきます。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.3.2)
十方衆生へ声かけ
2018-03-01
あっという間に3月になりました。明るくなりました。
昨日から強い風が吹いて春の嵐といいますか、季節の変わり目、春になってくるということです。
昨日はコンパルホールで毎月一回の法話会のご縁をいただきました。
円光寺通信にはおでかけ法話会とご案内していますが、お寺から外に出かけて仏さまのご縁をいただくということです。
昨日はいつものメンバーとは違う人が一人来ていました。一目見て誰かなって思いました。
いつもの方ははがきでご案内しますが、1月から大分合同新聞木曜日の夕刊「ラーン&プレイ」のコーナーに
「ようこそ大分まちなか法話会」ということでご案内を無料で掲載させていただいています。
その記事をみてこられたということでした。
誰かなって、失礼ですよね。こちらからご案内したことでしたのに、でも嬉しかったです。
ご縁づくりということを思います。
いろいろ工夫して声かけをしますが、その成果というか、
声かけをして10人のうち100人のうち1000人のうち、大分合同新聞を読んでいる人でいったら何万人のうち、
どれほどの人が案内をみて、実際にやって来られるのか、そしてこれからも続けて来てくださるのか、
何人来られたから善い悪いではありません。これもまたご縁というよりほかありません。
私たちの阿弥陀さまのお寺もそうです。
どなたがお参りされてもいいんですが、いつもの人がいつものようにお参りされます。
有難いことですが、どうして他の人のお参りがないのでしょうか。
どこかに問題があるのです。私のところに問題があるのでないでしょうか。
どこかで壁をつくって、この人は善いよ、この人は悪いよなどと見ているのではないでしょうか。
阿弥陀さまは十方衆生よと呼びかけです。
人間だけではなくて生きとし生けるものすべてに声かけです。
ナンマンダブツとお念仏申して来いよと、ナンマンダブツナンマンダブツという声かけをいただいて
今日もこうしてお朝事のお勤めをさせていただきました。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.3.1)
工夫しましょう
2018-02-28
昨日ある会議で西本願寺の時間のラジオ放送のことが話題になりました。
来年度の予算を組むのに、切迫した財政状況で、多額の経費を要するラジオ放送について、
どれくらいの人がラジオ放送を聴いているのかという話になりました。
ある方(ご門徒さん)は「周りの方に聞くと、知らない人ばかりだった」ということで、
お金を使っても効果のないものは極端に言ったらやめた方がいいという意見でした。
ある方(ご住職さん)は「ある時同じ地域のご門徒でない方に、あんたんとこの本願寺がラジオ放送しよるな、
と声をかけられた」といいます。
日曜日の朝7時に車で外に出る用事があったんでしょうね、ラジオから耳にスーッと入ってきたといいます。
こちらからが聞くのではなくて勝手に聞こえてくるというのです。
ラジオ放送の意味を思います。
ラジオからの発信を受け取る方は不特定多数で、どれくらいの人が聞いているかどうかはわかりませんが、
受信すれば聞こえる、聞こえてくるということです。
成果ということをいいます。
成果があれば続ける、成果がなければやめる。極端に言うと○×方式で、合理的なものの見方で分かりやすいですね。
ところが○×の前にもう一つ、工夫するということが大事だと思います。
知らない方がいるんだったら、何で知らないのか、知らせる工夫をしなければいけないのではないでしょうか。
私たちの阿弥陀さまのお救いです。阿弥陀さまのお救いは成果をいいません。
この仏さまは求める人がいるから救うのではありません。
求めるどころか、背中を向けて逃げ回っている私だからこそ救わずにはおかないとお立ちになられたのです。
阿弥陀さまの救いの目当ては、十方衆生のこの私です。
すべてのいのち、すべての人を救わずにはおかないとお立ちになりました。
一人でも多くの人ではありません。一人も漏らすことなく、みんなを救うのです。
そのみんなのなかに一人私を救うというんです。
ナマンダブナマンダブと声をかけていかれます。
振り向く人がいなくても、横をぷっと向く人がいても、
ナマンダブナマンダブとどこまでも私を追っかけるように声をかけてくださいます。
お寺について成果ということを言われたら、お参りされる人をみても、成果があがっているとはいえません。
私たちのお念仏の法義です。何度も何度も喚び詰めに喚び続けてくださる阿弥陀さまがいらっしゃるおかげで
今日のご縁ができています。皆さんに会うことができました。
そのこと一つこれからのご縁ご縁にまた思って、私にできる精いっぱいのことをさせていただきたいと思います。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.2.28)
これからの仏教は聴く仏教です
2018-02-27
昨日僧侶研修会がありました。お坊さんだけの研修ですが、講師は僧侶ではありません。
京都奈良の少年院、刑務所に勤務され、教育監という受刑者の方と接する職務をされていた方です。
浄土真宗のご門徒で、お寺さんとも深いご縁のある方のお話でした。
お友だちのお坊さんから「これからの仏教は説く仏教より聴く仏教や」と言われたそうです。
説く仏教とはお坊さんが仏教とはこうだよ、浄土真宗はこうだよと、まさにお説法するということです。
そういうかたちが一つ基本ですが、聴く仏教というのは、聴聞の聴くと書きます。
聴診器の聴でこちらから聴いていくということです。
何を聴くのか、その人ひとの悩み苦しみ、思いをひたすら聴くことが大事だと言われます。
今現代の世の中は人と人とのつながりが薄くなったといわれます。
周りに人はたくさんいるけれども、自分の思いを聞いてもらう場所がない、聴いてもらう人がいない。
自らの悩みを愚痴を話すということは中々難しいことです。
だからこそここはお坊さんの出番だと、お寺という場が生きてくると言われました。
お寺は安心できるところです。
今婚活がブームで、海潮寺さんにのぼりが立っていますが、お寺で婚活です。
いろんなところで婚活のパーティがあるそうですが、何か事件に巻き込まれるような不安もあるなかで
お寺だったら大丈夫安心できるといいます。
お坊さんだったら初めて会う方でも、話を聞いてもらえると思われるのではないかというお話でした。
これからのお寺が生きる道がここにあると思いました。
お寺が生きるという以上に、皆さんの思いを聞いていくということは、お寺をあずかる住職のつとめだと思います。
そこでその先生が言われたのは、昨日お話しました、あのカーリングの「そだねー」という話です。
「そだねー」と聞いていく。そうやね、そうだねと、相手の顔を見てひたすら聞いていくことの大切さです。
人に何か言われたら言い返したくなる私たちです。
そうやないこうだと自分の意見を押し付けることさえあります。
すると相手は心を閉ざして、もう話しません。こちらの言うことも聞きません。
まずその人の話をそうやね、そうだねと聞くなかに、今度はその人がお坊さんの話を聞くようになると言われました。
「そだねー、そだねー」。まさに私たちの阿弥陀さまがそうなのです。「そだねー」の仏さまです。
阿弥陀さまは決して阿弥陀さまの方からこうしなさいああしなさいと、
こうしないと救わないよ、善いことをしないと駄目だよと、条件を出したり注文したりする仏さまではありません。
一つの条件注文をつけられたら、私たちはどこかに逃げてしまいます。
いや逃げている私たちですが、阿弥陀さまが追っかけて来るんですね。
「そだねー、そだねー」南無阿弥陀仏、あなたの苦しみ悩みをそのまんま引き受けたから大丈夫だよ安心しなさいと、
私のところに来てくださって私の口からナンマンダブツと今日もお念仏が出てくださいました。
お坊さんだけではなく皆さんも、隣の人の話を聞いて「そだねー」と共々にお念仏に生かされていきたいと
昨日はお坊さんではない方のお話を聞かせていただいて、本当に「そだねー」と思いました。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.2.27)