資格と自覚
2018-03-08
資格と自覚というお話です。
社会生活を営む上で、いろんな資格があります。
でも資格があるからといって、それを活かすのはその人の自覚です。
自覚をもって資格を活かせないのでは宝の持ち腐れというか、何のことかわかりません。
ただこの資格も大事なもので、資格がないと出来ないことも多くあります。
この時代この社会を生きるには資格をもつということは一つの大きな生きる術となります。
社会的な資格を何ももっていなくても、どんな人も生きる資格はあります。
どんな人も生きているということ自体に尊い意味があると教えてくださるのがお釈迦さまのみ教えです。
どんな人もというと、生まれながらに病気であったり事故に遭ったりして、
皆さんのような社会生活ができないという方もいらっしゃいます。
さまざまな境遇のなかで思い通りにならない人生を送られています。
五体満足といいますが、本当に生きててよかったと喜んで生きている人ってどれくらいいるのでしょうか。
私自身に問われることです。
五体満足で資格もあり、色んな生きる可能性がありながら不平不満で終わっていく、
そういう人生は空しいんじゃないですかと仏さまは教えてくださいます。
どんな境遇にあろうとも、阿弥陀さまのご本願のお救いは生きとし生けるものすべてを分け隔てなく平等に救うと、
そのこと一つ聞いてくれよと南無阿弥陀仏となっておはたらきです。
聞くことさえできない方がいらっしゃいます。でもそのお心おはたらきはどんな人にも届けられています。
お念仏しないと救わないという仏さまではありません。
いつでもどこでも阿弥陀さまがご一緒です。そのこと一つ心に入れて今日の一日も過ごさせていただきましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.3.8)
仏さまのものの見方
2018-03-07
北朝鮮と韓国の南北首脳会談が4月に行われることがトップニュースになっています。
南北といいます。また東西といいますが、上下左右という私たちのものの見方でいったら逆ですよね。
お寺のお内陣には、お家のお仏壇と同じように真中にご本尊の阿弥陀さま、
左右に親鸞聖人蓮如上人のご絵像をご安置していますが、その横に余間という空間があります。
向かって右側を左余間、左側を右余間といいます。私の目線からいうと、逆です。
これは仏さまを中心とした見方で、お寺は仏さまのみ教えが説かれる尊い処ということを表します。
仏さまから見たら、私たちは真実に背くような生き方見方をしているということです。
私が私がとどこまでも自分中心にものを見、考え、生きています。
仏さまはそこに私たちの苦悩の原因があるとズバリ見てとられたのです。
私たちは自分の思い通りに生きたいと誰しも思い、行動します。
しかしその思いはそれぞれ自分中心で異なっていますから、対人関係で衝突が起こったり、背中合わせになったり、
すれ違いも起こってくるのです。
お互いに決して楽しいことではありませんが、相手を思いやることもできず、憎み怒る心も出てきます。
そうした真実にくらく愚かな私たちを阿弥陀さまはすでにご存知で、すべてのものを救おうとご本願を建てられ成就して、
南無阿弥陀仏となって私たちにおはたらき通しなのです。
南無阿弥陀仏の心を聞いてくれよ、わが名をとなえ念仏申して生きてくれよとおはたらきなのです。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.3.7)
中陰のご縁に火の用心
2018-03-06
七日日のお参りのご縁で「49日の間お仏壇のろうそくと線香を絶やすのはいけないんですよね」とお尋ねがありました。
昔からの言い伝えで、49日の中陰の間お灯明と線香を絶えしたらいけないというのは、
亡くなって死出の旅が始まるということからきています。
よく三途の川を渡るとか六文銭をもたせるとかいいますね。
旅をするのに六文銭といったお金もいるし、冥界という暗い中を歩いていくのに明るいろうそくの灯がない迷いますし、
線香はご飯代わりといいます。腹が減っては旅もできません。
何かもっともらしい話ですが、私たちの浄土真宗の仏教では命終わるその時そのまま阿弥陀さまの本願力のおはたらきで
阿弥陀さまのお浄土に生まれて仏にさせていただけると聞かせていただきますから、
亡くなってから旅が始まるのではなく、今お浄土への旅をさせていただいているというのです。
先人の言い伝えには意味するものがあります。
お灯りと線香を絶やさないということはそこのお家に人がいるということです。
49日間の中陰の期間、先に往かれた方に思いを致し身も心も慎むということなのです。
ところが今は核家族で外出したらお家に留守番がいなくなります。
そして外出するにも火の気があると心配で心配でたまりません。
お灯りや線香はお参りするときだけつければいいのです。
つけっぱなしではなくて、御仏前を離れる時はちゃんと火の気は消しましょう。それで安心です。
仏さまは私たちに安心をこそ与えますが、不安は解消してくださいます。
仏さまのご縁です。49日間はつとめて御仏前にお参りしましょう。
先に往かれた大切なお方が仏さまとなってご縁をつくってくださいました。
精いっぱいお勤めさせていただきましょう。
先に往かれた仏さまはいつも私とご一緒して、お念仏申す私をよろこんで見ていてくださいます。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.3.6)
春の嵐
2018-03-05
春の嵐です。昨日は温かいお天気でしたが、今日は一変して大きな雨になって夜中には雷が鳴っていました。
春の嵐で、劇的に季節が変わるといいます。
よく三月のこの時期、三寒四温という言い方をします。
寒い日が三日そして暖かい日が四日と、徐々に温かくなるということです。
確かに徐々にということですが、どこかの時点で劇的に変わるといいます。
私たちの信心いただくということを重ねて思います。
お聴聞しましょうといいます。聴く聞くですね。
よく「何ぼ聞いてもわからん」と言う人がいます。
何回聞いてもわからないから、また聞くんだと言われます。
聴くは、こちらから聴きにいくといいます。すると聞こえてくるといわれます。
聞いたから聞こえてくるのではありません。聴いて聴いて聴いて、ふっと聞こえてくるといいます。
阿弥陀さまの南無阿弥陀仏のお喚び声です。ふっと聞こえてくる、聞かせていただきます。
信心をいただく、天と地がひっくりかえるような劇的な変わり目です。
しかしここは聞いておかないとわかりません。聞いておかないと聞こえてくるということもありません。
ご縁なんですね。ご縁ご縁に聞けよ聞けよといいます。
聞いて聞いて頭でわかるということではありません。
私の心、この身に聞こえてくるのです。
その聞こえてきた阿弥陀さまのお心がそのまんまこの口を通してナンマンダブツとお念仏となってでてくださいます。
仏法を聞いてくれよ。お念仏を申す身になってくれよという阿弥陀さまの願いです。
そして私たちを仏さまのご縁に導いてくださったご先祖有縁の仏さま方の願いです。
南無阿弥陀仏の大きな願いといのちのつながりのなかに、今日もこうしてご縁をいただきました。
お念仏を申してお礼をさせていただきましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.3.5)
在家の仏道
2018-03-04
私たちの浄土真宗の仏教は在家の仏教といわれます。
家に在る、住まいするということです。家があるということは家族があって共に生活をしているということです。
生活をしていく中で仏道を歩ませていただける、いただく仏教なのです。
在家の仏教に対して出家の仏教といいます。
出家とは捨家ともいい、家を捨てるのです。
家族の縁を切る。財産や地位や名誉も全部捨てて仏門の入り仏道修行に励むのです。
山の仏教ともいいます。ひとり山に籠ります。
世俗の一切の執着、とらわれを全て絶つことから修行が始まります。
家族とともに社会生活を営む私たちは到底出来ることではありません。
ではそうした出家修行ができない私たちは救われないのかというと、
親鸞聖人が20年間の比叡山でのご修行ののちにお出会いなされた法然上人は、
そういう在家の人こそ救わずにはおかないとすっとお立ちになった仏さまがいらっしゃるという
南無阿弥陀仏のお救いの法を説かれたのです。
家族をもつということは、楽しいことですが、一人だったら気ままにということも、
二人三人四人になると、私の思い通りにならないことが増えてまいります。
我が身のこともそうです。老いていく病んでいくいのちを終えていく、老病死の身を生きねばなりません。
思い通りにならない、苦しみです。
そういう私たちを目当てに「必ず救う、まかせよ」と南無阿弥陀仏のご本願のお心おはたらきをいただいて
私たちがこの世に在りながら家庭をもちながら仕事をしながら仏道を歩ませていただくことができるのです。
南無阿弥陀仏、お念仏の仏道です。
仏法を聞かせていただくなかに生活させていただきましょう。
お家のお仏壇、御仏前にお念仏申して今日の一日を始めさせていただきましょう。
今日の一日を振り返り仏さまにお礼を申させていただきましょう。
在家の仏道を心して、これからも歩ませていただきましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.3.4)