お坊さんの見立て
2024-10-13
お坊さんってどんな人?
お寺の法務のご縁で接する機会が多い
ご門徒さんはじめ周囲の人は
個々のお坊さんをどう思っているのでしょうか。
それぞれ人人の見方があって
一々そんなに気にすることもないのでしょうが
さすがに「えっ」と思うお坊さんの見立てに
びっくりするようなことがあります。
これはお坊さんだけではなく
色んな職種の人についても言えることですが
「お坊さんはこうあるべきだ!」と
勝手に思い込んで見られることには
多少抵抗を感じます。
他のお坊さんのことだったら
そんなお坊さんもいるんだと
批判的な見方には反省することもありますが
自分自身のことでそれも日頃よく知っている人の
予想外の見立てを聞きました。
こんなふうに思われているんだと
そのまま受け入れることができず
弁明するように自分なりの理屈を重ねますが
どんどん距離ができてしまって
挙句の果てに
「これでもお坊さんですか!」と非難される始末です。
人と人との関係です。
その人人の性格ものの見方生活ぶりもそれぞれ違って
同じ屋根の下で毎日一緒に生活している
夫婦親子兄弟姉妹もみんな違い
ちょっとした思いや意見の行き違いで
背中合わせになることもあります。
つくべき縁あれば一緒になり
離れるべき縁あれば離れていく
人と人との関係ですが
お念仏のご縁つながりのなかに
私たちは共々に生かされて生きていると
聞かせていただきます。
どこまでも自己中心の
私の思いはからいが邪魔をして
ついたり離れたりするあなたと私の関係も
阿弥陀さまはすべてご存知でそのまま救うと
南無阿弥陀仏のおはたらきでいつでもどこでも
私たちにご一緒してくださっているのです。
お念仏申してあなたも私も皆共に
阿弥陀さまの大きなお慈悲の中に
生かされて生きてまいりましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2024.10.13)
核のない世界へ
2024-10-12
日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)に
ノーベル平和賞が授与されることになりました。
授賞理由を
「核兵器のない世界の実現に尽力し
核兵器が二度と使われてはならないことを
証言を通じて示してきた」としています。
1945年8月6日広島に9日に長崎に
世界で初めて原子爆弾が投下され
幾多の命が犠牲になりました。
被爆者が自ら手を上げ語ることで
核兵器禁止を世界中に訴え続けてこられた
尊い活動です。
ただその切なる願いに抗うように
世界の主要大国は核開発競争を進め
現存する核兵器は地球を何度も破壊するような数になり
核兵器が再び使われる脅威も迫るものがあります。
核保有国の首脳が強調するのが核抑止論です。
核を持つこと有ることで
戦争を抑止し平和を維持できるというのです。
自分たちに都合のよい全くの詭弁であり
ロシアのプーチン大統領は
ウクライナ侵攻の思わしくない展開に
核の脅しを再々公言しています。
核のリスクが高まるなかに
このたびの平和賞です。
「核のない世界」の実現へと
1956年に日本被団協は結成され
地道に運動を展開されてきました。
「ノーモアヒバクシャ!」と訴え続け
ヒバクシャが国際用語に認知されるほどになりましたが
「核のない世界」の実現の道筋さえ
見い出すことができないままです。
核のない世界、戦争のない世界は
仏さまの願いです。
仏教は「一切の者は刀杖(武器)を恐れ
一切の者は死を恐る。
己が身に思いくらべて
殺すなかれ、殺さしむなかれ」と
不殺生戒を説きます。
阿弥陀如来のご本願お念仏の世界は
生きとし生けるすべてのいのちを
分け隔てなくそのまま救うと
南無阿弥陀仏のおはたらきで
お慈悲の中に共々に生かされて生きる世界です。
核がある世界に本当の安心はありません。
核があることで互いに疑心暗鬼になり
大きな不安の中に
私たちを貶めるものでしかありません。
お念仏に生きる私たちです。
お念仏申して仏さまの願いを聞き
「核のない世界」の実現に向けて
私にできることをさせていただきましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2024.10.12)
お聴聞の心得
2024-10-11
浄土真宗は「聞の宗教」といって
お聴聞を大事に心得なさいと
親鸞さま蓮如さまお念仏の先人のお勧めです。
浄土真宗のお寺はお念仏聞法の道場といわれ
お寺にお参りしてお念仏のみ教えをお聴聞し
お念仏申す身にお育ていただくというのです。
阿弥陀如来のご本願のお心
南無阿弥陀仏のお救いのおはたらきを
聞かせていただきます。
聴聞の聴も聞も聞くということですが
聴はこちらから聞くといいます
仏法を聞くためにお寺参りするのですが
お参りしようとする思いがないと
いつまでもお参りできず
仏法聴聞のご縁に遇うことができません。
お寺参りして仏法聴聞させていただきます。
お寺のお話は仏さまのお話です。
真実変わらないいつも同じお話で
これは聞いた分かった覚えたと聞く人がいますが
それは知識として仏法を聞いたということです。
聞いたことをテストしたら
100点を取れるかもしれませんが
仏法を聞いた分かった覚えたから
救われるということではないのです。
お聴聞の場である御仏前に身を置くことの意味です。
私の思いはからいで聞くのではなく
その時どきで変わり行く不実なわが身に引き当てて
ひたすらそのまま聞かせていただくのです。
仏さまの智慧のおはたらきで
仏さまのお心が凡夫のわが身に聞こえてくるのです。
「われにまかせよ必ず救う」のお念仏のお喚び声です。
南無阿弥陀仏のお心おはたらきが
私の心に届けられて
私の口からお念仏が出てくださるのです。
私が聴こうと思い立って
お念仏のお心を聞かせていただくことですが
南無阿弥陀仏の他力のお救いのおはたらきが
そのまますでに私に届けられていたのです。
聴くも聞くも
阿弥陀さまのお慈悲の中に
仏さまのご縁に遇うことで
南無阿弥陀仏の大きないのちのつながりのなかに
私たちは共々に生かされて生きていると
聞かせていただきます。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2024.10.11)
葬儀社で終活セミナー
2024-10-10
新聞に葬儀社の終活セミナーの
広告チラシが入っていました。
多死社会といわれる現代です。
高齢者が増え亡くなる方も増えるということでしょうか
最近葬儀会館が目立って多くなりました。
家族葬に特化したこじんまりした会館ですが
ホテルのように宿泊設備を兼ねた立派なものです。
終活セミナーといって
食事会や写真撮影会お楽しみ会もあって
ちょっと覗いてみたい企画がいっぱいです。
要は葬儀会館に来てもらうことで
もしもの時に慌てないように(※チラシ記載)
葬儀の段取りをしておきましょうとのことです。
通常葬儀の話をしたりすることははばかられます。
ただ誰しも命終えていくことで
その時どうするのかと
聞いておきたいことはたくさんあって
事前に知っておくことで安心できます。
葬儀社でなくてもお寺で葬儀のお話はできますし
個々に具体的な相談もさせていただけるのですが
お寺にお参りすること自体に
何か抵抗があるようにも思います。
お寺にお参りするのは
まだまだ早いとでも思っているのでしょうか。
葬儀社さんのように人に気軽に来てもらえるような
楽しい企画があるといいのでしょうか。
お寺のお話は仏さまのお話です。
仏さまのお話は死を迎える時だけの話ではありません。
お念仏申して今を生きるお話です。
「われにまかせよ必ず救う」
南無阿弥陀仏のお心おはたらきにまかせて
今生を阿弥陀さまのお慈悲の中に生かされて生き抜き
命終わってそのまま阿弥陀さまのお浄土に生まれて
さとりの仏さまに成らせていただく
浄土真宗のご法義のお話です。
お念仏のみ教えを聞かせていただくと
私たちは死んだら終いのいのちを生きているのではなく
仏に成らせていただくいのちを
今生きているというのです。
生きても死んでもお慈悲の中と
先にお浄土に往かれたご先祖有縁の仏さまとも
南無阿弥陀仏の大きないのちのつながりのなかに
共々に生かされて今を生きているのです。
お念仏のご法義に遇わせていただく
お寺のご縁です。
日頃からお寺のご縁に
お参りさせていただきましょう。
仏法聴聞してお念仏申す身にお育ていただき
往生浄土の大安心の道を
共々に歩ませていただきましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2024.10.10)
メディアの責任
2024-10-09
検察の控訴断念で
袴田さんの再審無罪が確定しました。
逮捕から58年
当時30歳の袴田さんは今88歳です。
初公判で自供を翻し無実を主張し続けたものの
死刑判決が確定し死刑囚として長く拘留され
2014年に再度の再審請求が認められ釈放されますが
ずっと殺人犯死刑囚とされてきました。
無罪確定を大きく報道する今朝の新聞には
メディアの責任との記載がありました。
逮捕当初から捜査機関の数少ない情報に偏って
十分な裏付けを取ることなく
袴田さんを犯人と決めつけ
報道したことへの「おわび」です。
今回の再審無罪判決で
捜査機関による自白の強要と証拠の捏造が
認定されましたが
警察は正義の味方で間違ったことはしていないという
当時の社会の大多数の思いが
報道となり大方の正しい見方となって
冤罪につながったということです。
確固たる証拠がないままに
その人の過去の行いや人柄生活ぶりを取材しては
一方的に犯人視した報道を繰り返し
犯人像をつくりあげてきたのではないでしょうか。
裁判で判決が確定するまでは
被疑者被告人の人権も守らねばならないということは
今の社会の人権感覚ですが
当時は逮捕の段階で名前が呼び捨てにされ
公表されていました。
社会正義の名の下に
一人の人間の生きる権利を長きに渡り奪い去ったことは
これから徹底的に検証されなければなりません。
私たちの身の周りにもある
偏見と差別の実態です。
誤った見解や先入観でものごとを見ては
人を貶め排除したり
また逆な立場で嫌な思いをしたりと
お互いに生きづらい社会に
なっているのではないでしょうか。
自分の思いはからいで生きている者同士ですから
縁によって付いたり離れたりを繰り返しますが
お念仏申して
南無阿弥陀仏の大きないのちのつながりのなかに
お互いに敬い支え合っていきていく
社会でありたいと思います。
お念仏の社会は
どんな人も等しく阿弥陀さまの大きなお慈悲のなかに
共々に生かされて生きる社会です。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2024.10.9)