ともに生きる
2018-03-13
今森友問題で大変なことになっています。財務省の公文書改ざん事件です。
所詮人間がすることに完璧はありません。それもそこに人間の配慮が入ってくると、
事は意外な展開になって自分の守備範囲を超えてどうしようもならない事態に陥ります。
私たちは誰もが社会のなかで日暮しして生きています。
一番小さな社会が家庭ですが、自分以外の人と一緒に生活することは、自分の思い通りにならないことがでてきます。
その社会が大きくなればなるほど生きづらさを感じますが、そこは同じ組織の仲間同士で支え合うこともあります。
組織にはいろんな役職があり役割を分担して仕事をすることでお互いの信頼関係もできてきます。
昨日の大臣の会見で「組織の一部の者がやった」と上司が部下を切り捨てるような発言をされました。
同じ組織にいて部下をまもる責任ある立場の上司から「お前が悪い」と一方的に公言されてはたまりません。
あの改ざんって、誰かをまもろうとしたのが事の発端ですよね。
そもそも存在した公文書を書き直したことで問題が大きくなったということですが、
文書が明るみに出てくる前は重宝に扱われた人が、文書が出た途端「こいつが悪の張本人」とばかりに責任を背負わされる。
あまりにも非情なことで唖然としますが、私たちの日常生活の中にもそのようなことってないでしょうか。
誰をまもるかということです。家族のなかで、会社組織のなかで一体誰をまもるのか。
突き詰めていえば我が身ということでしょうが、だったら人間社会の意味って何かなと思ったりします。
私が私がと自分を中心に生きたければ、自分一人で生きていけばいいことです。
でもそれは到底できません。私たちは放りだされるようにこの人間界に生まれてきて生きています。
私の思い通りになる人生ではありません。そこに私たち人間の根本的な苦悩があります。
私たちの阿弥陀さまのお救いです。阿弥陀さまは私たち一人一人を大事に思いとって救うてくださるのです。
このお救いは今救うて明日は捨てるというものではありません。
摂取不捨、摂め取って決して捨てないと、南無阿弥陀仏の大きなおはたらきでずっと救い護っていくのです。
今の救いですが、この命終えた後もです。
南無阿弥陀仏のおはたらきをいただいた私が、社会の営みのなかでできることって何でしょうか。
お国のためとか世界平和のためとか大きなことは言いません。
ナンマンダブツ、お念仏を申すということは、自分だけがよかったらいいということではありません。
自分も大事ですが、すぐ隣で泣いてらっしゃる方がいるかもしれません。
その人ひとに向き合い寄り添っていくことから私にできる精いっぱいのことをさせていただく。
南無阿弥陀仏のお心をいただいてお念仏の道を共々に生かされて生きてまいりましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.3.13)
お念仏に薫る生活
2018-03-12
昨日は四日市別院で大分教区仏教青年連盟主催の仏教文化講演会があり、落語会とにおい袋作りを体験しました。
お寺でなぜ落語かというと、落語は高座で話をしますが、これは元々お寺の高座でお坊さんがお説教したことに始まります。
そしてにおい袋は香です。今もお線香をたいていますが、香は仏さまのご縁には欠かすことのできないものです。
におい袋を私も作りましたが、9種類の香を調合します。
スプーンで一杯とか半分とか0.3、0.2.0.1とかを混ぜて袋に入れ完成ですが、
人人によってにおい袋の香りが違うんですね。
人それぞれ目分量でしますから微妙に違いがでてきます。隣の人のものとちょっと違います。
こういう違いっていいなと思いました。
機械の作業だったらほぼ同じものができると思います。でも何か味気ないですよね。
自ら手に取ってすることで、世界で一つだけのにおい袋になります。
何回も試みることで自分の好みの香りに出あえるという楽しみもあるのではと思いました。
そして熟成です。時間が経つことで微妙に香りも変わってしっくり落ち着いてくるというか、香の深みを思います。
香は平安時代の貴族がよく用いたものだといいます。
お風呂に入る習慣がなく臭い消しの役目であったり、いい匂いを放って雅の世界を演出したものだと思います。
西洋の香水です。香水もその人の好みで鼻をつくようなものもあります。
でも何度も馴染んで落ち着いてくるとその人の薫りになっていいなと思うこともあります。
お念仏も薫りといわれます。人それぞれのお念仏の薫りです。
その大本は南無阿弥陀仏のお名号です。
「必ず救うまかせよ」とお念仏の薫りとなって私のところに届けられています。そのまま聞かせていただきます。
ナンマンダブツ、お念仏の声はそれぞれ違います。私たちの生活ぶりもそれぞれ違います。
お念仏の薫りはお念仏の声となり身について、私たちを一つにつないでくれます。
お念仏申す身になってお念仏に薫る生活を共々にさせていただきます。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.3.12)
お聴聞の宗教
2018-03-11
法語カレンダーの三月のことばです。「本願をききて 疑うこころなきを 聞というなり」です。
浄土真宗はお聴聞の宗教といわれます。
聴聞は聴く聞くと書きますが、聴くは私の方から聴いていくということです。
お寺参りのお同行が「ご法話を何回聞いても分からん」と言われます。
それでお参りしなくなるかというと「だから聞かせてもらいます」とお聴聞を続けられます。
聞の聞くは聞こえてくるということです。
南無阿弥陀仏のお心おはたらきが聞こえてくるといいます。
今日の皆さんのおすがたです。この口からお念仏が出てくださるおすがたです。
私が私がと、私に力が入るお念仏ではありません。
阿弥陀さまが「まかせよ救う」の南無阿弥陀仏のお心おはたらきを私たちにくだされました。
私の方からいったらいただいた信心です。
その信心のすがたがナンマンダブツとお念仏を申す身にさせていただくということです。
聞というは疑うこころがないといいます。疑うこころがないところが信心です。
ただ私たちの生活ぶりは、私が私がという私のはからいを離れることは一つとしてできません。
はからいを離れることができないばかりか、次から次へと出てくる、これを煩悩といいます。
私たちの浄土真宗の仏教は、厳しい学問修行を積んで煩悩を断ち悟りを得るという仏道ではありません。
煩悩一つ断つことが出来ないこの私を阿弥陀さまはすでに見抜かれ、必ず救うとご本願を建てられ
南無阿弥陀仏となって、浄土に生まれさせ悟りの仏にさせるとおはたらきなのです。
南無阿弥陀仏のお心を聞かせていただくことが肝要です。
ただこれだけ聞いたから分かった、理解したということではありません。
私が分かったということでいったら、知識のある方、お勉強のできる方、賢い方が救われるのでしょうか。
知識もない、縁があればどんなことでもしでかすこの私を見てとられての南無阿弥陀仏のお救いです。
そのこと一つ心に入れてこれからもお念仏を申すなかに、お念仏の心を聞かせていただきましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.3.11)
15の春、○×の人生
2018-03-10
昨日は県内の高校入試の合格発表がありました。
「15の春」といいますが、合格した人には春が来て、不合格の人には春が来ないのでしょうか。
いいえ、どんな人にも春は来ます。
合格を○、不合格を×と見る、ものの見方がそこにあります。
私たち人間のものの見方は○か×かで全てを見てしまうところがあります。
私のところに引き寄せていえば、私の思い通りに行けば○で行かなかったら×ということになります。
〇か×のものの見方で人をみることは、そのまま○か×かで人に見られているということです。
誰しも〇に見てほしいと思いますが、それこそ私の思い通りにならないことばかりです。
我が身のことでいうならば、私たちは老病死の苦悩の身を生きているとお釈迦さまは説かれます。
どんな人も、若くありたいけれども日々老いていきます。
ずっと健康でいたいけれども病気になることもあります。
長生きしたいけれども必ずこの命終えていかねばなりません。
このことを○×のものの見方でいうと、最後は×で終わる人生ということになります。
私たちは死んだら終いの空しい人生を一生懸命頑張って生きているのでしょうか。
仏さまのものの見方を聞かせていただきます。
仏さまのものさしはいのちそのものそのまんま引き受けてくれるものさしです。
だからそこには○も×もないのです。
たとえこのたびの入試で不合格になったとしてもみんな生きています。いのちをみんな生きています。
仏さまの願いがかかったかけがえのないいのちをみんな生きています。
このいのちそのまんま引き受けてくださる仏さまがいらっしゃるというなかに私たちは生きていけるのです。
南無阿弥陀仏のご法義に遇わせていただいて本当によかったと思います。
喜ぶ人のすぐそばで涙を流している方がいらっしゃいます。
そのことにも思いを致し、お念仏を申すなかに共々に生きてまいりましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.3.10)
おらぶ仏さま
2018-03-09
お寺のお内陣、お家のお仏壇の中心にご安置する阿弥陀さまのお立ちすがたに、
迷いの凡夫のこの私が救われていくすべての手立てが表れているといいます。
たとえ話でお取り次ぎします。
幼子の手をひいてお母さんが人ごみの中に行ったという想定です。
気づいたら子どもの手が離れ迷子になったということで、お母さんは血眼になって探しやっと向こうに子どもを見つけた。
その時お母さんが三つの行動を即座にするといいます。
順番はありませんが、声を上げます。子どもの名前を呼びます。手を大きく振って呼びます。
「お母さんはここだよ。安心しなさい。こっちにおいで」という思いです。
子どもを呼ぶお母さんですが、子どもは人ごみの中でお母さんに気づかないこともあり、
お母さんの方に行こうと動いたら、人の波に飲み込まれてまた迷って分からなくなってしまうかもしれません。
そこで呼ぶお母さんが呼びながら子どものところに駆け寄り抱きかかえて救うのです。
阿弥陀さまのお救いです。
迷いの中にありながら迷いを迷いと気づかない私に、一方的に「気づいてくれよ」と呼んでくださる。
そのおよび声が南無阿弥陀仏です。声をあらん限りに叫ぶように呼び続けます。
昨日七日日のご縁で、このお話をしてお母さんの三つの行動はなんだと思いますかと尋ねたら
年輩のお母さんが「おらぶ」と言ってくれました。
おらぶ、そうですよね。周りのことは一切構わずあらん限りの声でおらぶんですよね。
喚鐘です。喚は喚ぶということです。
喚鐘の音はカンカンカーンと周囲によく鳴り響きます。聞く人によってはうるさい騒音かもしれません。
毎朝6時半のお寺の喚鐘を床の中で聞いている人もいると思います。聞こうと思わなくても耳に届いていますよね。
南無阿弥陀仏のお喚び声はもうすでに私のところに至り届けられているのです。
気づいてくれよ、目覚めてくれよとね。
目覚めるといって、私たちのこの目ではありません。真実の眼に目覚めてくれよとです。
でも自分のことで精いっぱい、生きることで精いっぱいの私は聞こうとはしません。うるさいと耳をふさぐ人もいます。
そんな私を阿弥陀さまはすでにご存知で、飽きることなく南無阿弥陀仏と喚び詰めに喚び続けていてくださいます。
阿弥陀さまのお喚び声、南無阿弥陀仏が私に聞こえたとき、私の口から南無阿弥陀仏とお念仏が出てくださいます。
おらぶように今も阿弥陀さまは声を限りに私たちを喚んでくださっています。
もったいないことです。有難いことです。
阿弥陀さまのお心おはたらきを聞かせていただきましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.3.9)