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お念仏を申す生活法話

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お念仏の大安心のなかに

2018-04-14
 熊本大分地震から今日で2年が経ちます。
あのときは前震、本震、余震が続き、震度7という大地震が立て続けに起こり
267人の方がお亡くなりになり、今も仮設住宅で2万人以上の方が避難を余儀なくされているという現状です。
 
 私たちの日々の生活です。
天気でいえばいつも穏やかな天気がいいですね。ただ今日明日は春の嵐という予報です。
この天気も晴天ばかりでは生活に支障が出てまいります。
雨も適当に降ってもらわないと、農家の方とか野菜作りをしている方は雨を待ってらっしゃいます。
 
 それぞれの生活、それぞれの思いのなかに私たちの日々の生活があります。
お念仏のなかに私たちは生活をさせていただけるという有難さを思います。
 お念仏を申して自分の都合のいいようになればそれはそれでいいのかもしれませんが、
そんなうまい具合にはいきません。
 
 お念仏を申しても私たちのこの身は老いていきます。
お念仏を申して病むときには病んでいきます。お念仏を申して命終えていかなければなりません。
 
 でもこういう言い方もできます。お念仏を申して老いていける。お念仏を申して病んでいける。
お念仏を申して命終えていけるのです。
 
 お念仏申して生きていけるということの有難さなのです。
私たちが生きる究極の依りどころを生活の中心をちゃんと決めてくださっている有難さです。
 南無阿弥陀仏「お念仏申して来いよ」と喚んでくださるおよび声に、
南無阿弥陀仏「はい」とまかせて生きていける安心です。
 
 南無阿弥陀仏の大安心のなかに、今日どんなことがあるかわかりません。
大きな地震や災害に遭うかもしれませんが、南無阿弥陀仏に安心して今日の一日を生かされて生きてまいりましょう。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.4.14)

お念仏申すなかに生きて往きます

2018-04-13
 耶馬渓の山崩れでまだ行方不明の方がいらっしゃって捜索活動が続けられていますが、
耶馬渓の地名をみたときに、浄土真宗のお寺がありご門徒さんがいらっしゃるのではないかなと思いました。
 
 連絡がありまして、4軒のお家があって一軒は被害を免れましたが、
4軒のお家とも近くのお寺のご門徒であるということです。
 
 3軒のお家6人の方です。
山間の村の昔ながらの日々の生活を思います。
お家の中心に阿弥陀さまのお仏壇があって、朝一番に炊いたお仏飯を仏さまにお供えして一日が始まるという生活です。
 隣近所みんな家族のような生活で、最高齢の90歳のおばあちゃん、そして21歳の娘さんがいました。
 
 寒い冬を越してあたたかい春を迎え穏やかな生活のなかに
このような災難に遭われたということです。
 私たちの日常の生活です。
いつものように朝が来て一日が始まり夜になって一日を終える。
何か当たり前のような日暮しですが、決して当たり前ではないなかに、こういうことも起こるということです。
 
 お念仏申すなかに生活をさせていただきます。
お念仏を申したから申すから善いことがある、自分の思い通りになるということではありません。
思い通りにならないこともたくさんある日々の生活のなかにお念仏申させていただくということです。
 
 お念仏申すなかに私たちはいつでもどこでも阿弥陀さまという仏さまがご一緒なんだと聞かせていただきます。
お念仏申して私の思い通りになるということではありませんが、
阿弥陀さまがいらっしゃると聞かせていただくなかに安心して日々の生活をさせていただけるのです。
 
 このたびの被害に遭われた方もまたお念仏を申すなかに
阿弥陀さまのお浄土に生まれ往くいのちを生かされて生きて往かれたと、我が身の日常に重ねて思います。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.4.13)

水曜学校が始まります

2018-04-12
 昨日は子ども会水曜学校の始業式をしました。7人のお友だちが集まってくれました。
去年の6年生二人が卒業して、今年は一年生が一人入学しました。
 7人のうちご門徒の関係者は一人です。
 
 子どもっていいなと思うのは、大人になると色んなはからいがでてきて、
お寺は門徒でないとお参りできないところと思われて、
どうぞ皆さんどなたでもお参りしてくださいとお誘いしても、中々難しいことかなと思ったりします。
 
 ただ子どもたちは門徒だからとか門徒でないからとかいうことは一切ありません。
友だちが行くから一緒に行くという思い一つです。
 
 お同行という言い方をします。
皆さんも気分的にあまり行きたくないところに一人で行くことは気が進まないものでしょう。
誰かと連れだって「いっしょにいこうえ~」と一緒に行けるところがやっぱり楽しいですね。
 そういうお寺になっていきたいと常々申していることです。
 
 この一年子どもたちが水曜学校に通ってどのように成長してくれるかなと思います。
水曜学校は毎週あります。一週間の同じ曜日同じ時間にみんないっしょに来てほしいと思いますが、
中々通い続けることは難しいようです。
 
 水曜日は学校がお昼までということで水曜学校を始めました。40年ほど前のことです。
その頃は子どもたちの周りの環境ものんびりゆったりしていました。
 
 間もなく水曜日にスポーツ少年団や習い事の塾があったり、育成クラブができたりして
水曜日の午後は子どもたちはかえって忙しくなり、一緒に行こうえという友だちがいなくなったのです。
 
 そういう現実のなかに水曜学校です。
お父さんお母さんの親の理解ということが一番ですね。
水曜学校に行っておいで、お寺に行っておいでと声をかけてもらえるといいなと思います。
 
 塾に行きなさい、こうしなさいああしなさい、こっちの方が子どものためになるというのも、
親だからこその思いです。わからないことはありません。
 
 そうした人人の思いはからいのなかにあって、今日もこうしてお朝事のお勤めができました。
南無阿弥陀仏の仏さまのご縁です。
 阿弥陀さまのご本願のおはからいおはたらきをいただき、皆さんそれぞれのお家から思いを一つにして
ご縁をいただけるということの有難さ尊さをまた思います。
 
  ご一緒に、お念仏申しましょう。 (2018.4.12)

もう降参です、阿弥陀さま

2018-04-11
 私たちは言葉で人に思いを伝えます。
その手段に、手紙や電話があり、今はメールなどのSNSがあります。
 
 言葉を伝えるというより、私の思い、気持ちを伝えるということです。
事務的に文書でものごとを伝えることも含めて、そこは人と人、顔と顔を合わせて言葉を交わすことの大切さを思います。
その時どきの周りの状況、顔の表情や言葉遣いの有様に文言以上のものが伝わり、
その人人の真意がお互いに確認されることにもなります。
 
 今国会が公文書をめぐる問題で連日紛糾しています。
文書に残す。文書がない。文書が出てきた。一方「面会したことがない」「記憶にない」などの言葉が行き交います。
 傍からみれば、どちらかが嘘をついているということですが、
その人人の立場、都合で私たちは生きているんだなということを見事に見せてくれています。
 
 本当のことでも言いたくないこともあるでしょう。ごまかすこともあるかもしれません。
ところがあまりにもそんなことが続くと、またこんなことを言ってる、こんなことを言ってると、
相手にされないようになります。こうなると本当につらい、悲しいですね。
 こんなはずじゃなかったと思い返しても、どうにもならない状況に落ち込むことにもなってしまいます。
 
 私たちの阿弥陀さまです。私たちの阿弥陀さまはずっといつも私たちのことを見てくださっている仏さまです。
私が背中を向けて逃げようともどこまでも追っかけてくる仏さまです。
 親鸞聖人は阿弥陀さまのお心もちを「逃ぐるものを追わえ取るなり」といただいています。
いつも私の前に居ると、私と共に生きてくださってあるというのです。
 
 もう逃げても逃げても逃げようがないというか、もう観念するしかありません。
もう観念します、降参しますと、阿弥陀さまのおはたらきにまかせるのです。
 
 「まかせよ救う」と南無阿弥陀仏のことばの仏さまとなってずっとずっと喚び続けてくださっている阿弥陀さまですが、
私が私がと、まかせられない私がいます。
 そんな私を見捨てることなく、背中を向けようとも逃げようとも、
あきらめず追っかけ追っかけ追っかけて、私のところに来てくださいます。
 そしてついには私の口をこじ開けてお念仏が出てくださいます。
「おまかせします阿弥陀さま」と降参するのが私たちのお念仏です。
ナンマンダブツとお念仏を申して頭が下がります。
 
 人と人という関係では相手によってその時の状況によって頭を下げる私がいます。
私は一体どう思われているのかと、不安に思い苦悩することもしばしばです。
 そういう私を見抜かれてそのまま救うと私のところに来てくださりいつもご一緒くださる南無阿弥陀仏のおはたらきに
そのまままかせて安心して生きて往ける、阿弥陀さまのお救いを頼もしく聞かせていただきます。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.4.11)

手を合わせお礼ができるところ

2018-04-10
 墓じまいということが最近テレビの特集などで話題になっています。
遠方に先祖代々のお墓があって高齢になり中々お参りできないとか、子どもがいなくて今後お墓を守る人がいないとか、
それぞれの家庭の事情でお墓を始末するという方が増えているといいます。
 
 墓じまいをしてお遺骨はというと、永代供養墓とか合同墓、合葬墓に移すといいます。
お墓が無くなるということは、これまでご先祖を偲び手を合わせてきたところが無くなるということです。
 
 昨日ご法事がありました。同じ年に亡くなられたご両親のご法事で子どもさん三人がお勤めされました。
三人ともそれぞれの家庭があり家族をもってらっしゃるということです。
 
 ご一緒にお勤めをして次のようなお話をさせていただきました。
 
 今こうしてお仏壇の前に座ることができたということです。ご一緒にお勤めができました。
日頃なかなか合わない手が合いました。ナンマンダブツとお念仏を申して仏さまにお礼ができました。
 どのこと一つとっても私がということではありません。仏さまがこういう私にしてくださったということです。
その仏さまの大本はご本尊の阿弥陀さまですが、今日のご縁でいいますとお父さんお母さんの仏さまです。
仏さまとなっていつでもどこでも皆さんのところに還って来て共々に生きてくださってある仏さまです。
 
 死んだらお終いじゃないという仏さまの教えです。
人の命は終えますが、南無阿弥陀仏のおはたらき一つで阿弥陀さまのお浄土に生まれて仏さまに成らせていただきます。
 
 だから子どもにとってはいつまでもどこまでもお父さんお母さんの仏さまなのです。
南無阿弥陀仏の大きな大きないのちのつながりのなかに私たちは生かされてあるということです。
 
 ここで大事なことはお仏壇です。お仏壇という手を合わせるところがあるということです。
仏さまがこの私たちのために用意をしてくださったところといただきます。
 お浄土を重ねて思います。お浄土には先に往かれた方々がいってらっしゃいます。
お仏壇に阿弥陀さまに手を合わせることがそのまんまお浄土のお父さんお母さんに手を合わしていることなのです。
 
 私たちの日々の生活をちょっと振り返ってみても本当に忙しい毎日です。
私のことで精いっぱいです。生きることで精いっぱいです。
 そういうなかにあってもいつでもどこでも一刻も私を忘れることなく仏さまがご一緒してくださっています。
お父さんお母さんを思う時、お念仏を申しましょう。
 ナンマンダブツナンマンダブツとお念仏を申すところに、この目には見えないけれども仏さまがいらっしゃいます。
何か自分一人で頑張って生きてるようだけれども、仏さまが大きな支えとなって私と共に生きてくださってあるのです。
 
 これからもお念仏申して日々生かされて生きてまいりましょう、とお取り次ぎさせていただきました。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.4.10)
円光寺
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