十方衆生へ声かけ
2018-03-01
あっという間に3月になりました。明るくなりました。
昨日から強い風が吹いて春の嵐といいますか、季節の変わり目、春になってくるということです。
昨日はコンパルホールで毎月一回の法話会のご縁をいただきました。
円光寺通信にはおでかけ法話会とご案内していますが、お寺から外に出かけて仏さまのご縁をいただくということです。
昨日はいつものメンバーとは違う人が一人来ていました。一目見て誰かなって思いました。
いつもの方ははがきでご案内しますが、1月から大分合同新聞木曜日の夕刊「ラーン&プレイ」のコーナーに
「ようこそ大分まちなか法話会」ということでご案内を無料で掲載させていただいています。
その記事をみてこられたということでした。
誰かなって、失礼ですよね。こちらからご案内したことでしたのに、でも嬉しかったです。
ご縁づくりということを思います。
いろいろ工夫して声かけをしますが、その成果というか、
声かけをして10人のうち100人のうち1000人のうち、大分合同新聞を読んでいる人でいったら何万人のうち、
どれほどの人が案内をみて、実際にやって来られるのか、そしてこれからも続けて来てくださるのか、
何人来られたから善い悪いではありません。これもまたご縁というよりほかありません。
私たちの阿弥陀さまのお寺もそうです。
どなたがお参りされてもいいんですが、いつもの人がいつものようにお参りされます。
有難いことですが、どうして他の人のお参りがないのでしょうか。
どこかに問題があるのです。私のところに問題があるのでないでしょうか。
どこかで壁をつくって、この人は善いよ、この人は悪いよなどと見ているのではないでしょうか。
阿弥陀さまは十方衆生よと呼びかけです。
人間だけではなくて生きとし生けるものすべてに声かけです。
ナンマンダブツとお念仏申して来いよと、ナンマンダブツナンマンダブツという声かけをいただいて
今日もこうしてお朝事のお勤めをさせていただきました。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.3.1)
工夫しましょう
2018-02-28
昨日ある会議で西本願寺の時間のラジオ放送のことが話題になりました。
来年度の予算を組むのに、切迫した財政状況で、多額の経費を要するラジオ放送について、
どれくらいの人がラジオ放送を聴いているのかという話になりました。
ある方(ご門徒さん)は「周りの方に聞くと、知らない人ばかりだった」ということで、
お金を使っても効果のないものは極端に言ったらやめた方がいいという意見でした。
ある方(ご住職さん)は「ある時同じ地域のご門徒でない方に、あんたんとこの本願寺がラジオ放送しよるな、
と声をかけられた」といいます。
日曜日の朝7時に車で外に出る用事があったんでしょうね、ラジオから耳にスーッと入ってきたといいます。
こちらからが聞くのではなくて勝手に聞こえてくるというのです。
ラジオ放送の意味を思います。
ラジオからの発信を受け取る方は不特定多数で、どれくらいの人が聞いているかどうかはわかりませんが、
受信すれば聞こえる、聞こえてくるということです。
成果ということをいいます。
成果があれば続ける、成果がなければやめる。極端に言うと○×方式で、合理的なものの見方で分かりやすいですね。
ところが○×の前にもう一つ、工夫するということが大事だと思います。
知らない方がいるんだったら、何で知らないのか、知らせる工夫をしなければいけないのではないでしょうか。
私たちの阿弥陀さまのお救いです。阿弥陀さまのお救いは成果をいいません。
この仏さまは求める人がいるから救うのではありません。
求めるどころか、背中を向けて逃げ回っている私だからこそ救わずにはおかないとお立ちになられたのです。
阿弥陀さまの救いの目当ては、十方衆生のこの私です。
すべてのいのち、すべての人を救わずにはおかないとお立ちになりました。
一人でも多くの人ではありません。一人も漏らすことなく、みんなを救うのです。
そのみんなのなかに一人私を救うというんです。
ナマンダブナマンダブと声をかけていかれます。
振り向く人がいなくても、横をぷっと向く人がいても、
ナマンダブナマンダブとどこまでも私を追っかけるように声をかけてくださいます。
お寺について成果ということを言われたら、お参りされる人をみても、成果があがっているとはいえません。
私たちのお念仏の法義です。何度も何度も喚び詰めに喚び続けてくださる阿弥陀さまがいらっしゃるおかげで
今日のご縁ができています。皆さんに会うことができました。
そのこと一つこれからのご縁ご縁にまた思って、私にできる精いっぱいのことをさせていただきたいと思います。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.2.28)
これからの仏教は聴く仏教です
2018-02-27
昨日僧侶研修会がありました。お坊さんだけの研修ですが、講師は僧侶ではありません。
京都奈良の少年院、刑務所に勤務され、教育監という受刑者の方と接する職務をされていた方です。
浄土真宗のご門徒で、お寺さんとも深いご縁のある方のお話でした。
お友だちのお坊さんから「これからの仏教は説く仏教より聴く仏教や」と言われたそうです。
説く仏教とはお坊さんが仏教とはこうだよ、浄土真宗はこうだよと、まさにお説法するということです。
そういうかたちが一つ基本ですが、聴く仏教というのは、聴聞の聴くと書きます。
聴診器の聴でこちらから聴いていくということです。
何を聴くのか、その人ひとの悩み苦しみ、思いをひたすら聴くことが大事だと言われます。
今現代の世の中は人と人とのつながりが薄くなったといわれます。
周りに人はたくさんいるけれども、自分の思いを聞いてもらう場所がない、聴いてもらう人がいない。
自らの悩みを愚痴を話すということは中々難しいことです。
だからこそここはお坊さんの出番だと、お寺という場が生きてくると言われました。
お寺は安心できるところです。
今婚活がブームで、海潮寺さんにのぼりが立っていますが、お寺で婚活です。
いろんなところで婚活のパーティがあるそうですが、何か事件に巻き込まれるような不安もあるなかで
お寺だったら大丈夫安心できるといいます。
お坊さんだったら初めて会う方でも、話を聞いてもらえると思われるのではないかというお話でした。
これからのお寺が生きる道がここにあると思いました。
お寺が生きるという以上に、皆さんの思いを聞いていくということは、お寺をあずかる住職のつとめだと思います。
そこでその先生が言われたのは、昨日お話しました、あのカーリングの「そだねー」という話です。
「そだねー」と聞いていく。そうやね、そうだねと、相手の顔を見てひたすら聞いていくことの大切さです。
人に何か言われたら言い返したくなる私たちです。
そうやないこうだと自分の意見を押し付けることさえあります。
すると相手は心を閉ざして、もう話しません。こちらの言うことも聞きません。
まずその人の話をそうやね、そうだねと聞くなかに、今度はその人がお坊さんの話を聞くようになると言われました。
「そだねー、そだねー」。まさに私たちの阿弥陀さまがそうなのです。「そだねー」の仏さまです。
阿弥陀さまは決して阿弥陀さまの方からこうしなさいああしなさいと、
こうしないと救わないよ、善いことをしないと駄目だよと、条件を出したり注文したりする仏さまではありません。
一つの条件注文をつけられたら、私たちはどこかに逃げてしまいます。
いや逃げている私たちですが、阿弥陀さまが追っかけて来るんですね。
「そだねー、そだねー」南無阿弥陀仏、あなたの苦しみ悩みをそのまんま引き受けたから大丈夫だよ安心しなさいと、
私のところに来てくださって私の口からナンマンダブツと今日もお念仏が出てくださいました。
お坊さんだけではなく皆さんも、隣の人の話を聞いて「そだねー」と共々にお念仏に生かされていきたいと
昨日はお坊さんではない方のお話を聞かせていただいて、本当に「そだねー」と思いました。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.2.27)
「そだねー」
2018-02-26
ピョンチャンオリンピックも昨日で終わりました。
最後まで日本選手の活躍でテレビを観ることが多かったのですが、
女子カーリングが初めて銅メダルをとり、話題になっています。
約二時間半の試合です。三位決定戦まで11試合、一日に2試合という日もあって体力的にも大変だったと思いますが、
一つ話題になったのがカーリングの選手がマイクを通して発する「そだねー」という言葉です。
気が早いと思いますが、今年の流行語大賞の有力候補といわれています。
北海道弁で「そだね―」というそうですが、「そうだね」「そうですね」ということですね。
カーリングの試合でどこにどのようなショットをうつのか、みんなで相談確認して「そだねー」。
何人か人が集まって、このことはどうするかと話し合い様々な意見があるなかで、
最終的に「そうだね」とお互いに受け入れ同意する言葉だと思います。
今はSNSで、投稿された記事に「いいね!」という言葉で賛同を表します。
「いいね!」という人ばかりではありません。「わるいね!」という人もあると思います。
「そだねー」そうだねと人と人とがお互い向き合って確認していくことが大切です。
善い悪いを超えた、大きないのちのあたたかいつながりを感じます。
昨日七日日のご縁にお参りして、ご一緒にお勤めをしお話をして、御仏前に向き直り
「ご一緒にお念仏申しましょう」と言いました。すると即座に「はい」と言われ、ご一緒にお念仏申しました。
「ご一緒にお念仏申しましょう」「はい」と。
「そだねー」と重ねて思います。
共々に仏さまのご縁をいただき阿弥陀さまのご法義に遇わせていただきます。
「まかせよ、救う」の南無阿弥陀仏のおはたらきに、「はい」とただ一言です。
「おまかせします、阿弥陀さま」とお念仏申させていただきます。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.2.26)
氷が溶けたら春になる
2018-02-25
朝が大分明るくなってきました。
今日は総代世話人さんにお参りいただいて配りものをしていただきますが、
掲示伝道の言葉を毎月書かせていただいて皆さんにお届けしています。
三月のことばは「光をあびて 氷とけ 私の心に 春が来た」です。
ある時学校の先生が「氷がとけたら何になりますか?」と生徒に質問したそうです。
するとある子が「氷がとけたら春になる」と答えたそうです。
先生が期待していた答えは「氷がとけたら水になる」。確かにそうですよね。
ただ氷がとけるということ春が来たということです。
私たちの阿弥陀さまの智慧の光はお慈悲のおはたらきとなって私たちの心に届いているといわれます。
どんな私の心でしょうか。氷のような冷たく頑なな心です。
その私の心を阿弥陀さまは大きなあたたかいお慈悲の光でとかす、やわらかくしてくださるのです。
光をいっぱいあびるのです。
光をあびるということは、ご縁をいただくということです。仏さまのご縁です。
仏さまのみ教えを聞かせていただくということ、お聴聞です。
南無阿弥陀仏のお心を聞かせていただきます。聞かせていただくなかに私の心に春が来るのです。
私たちの日暮しはどこまでも自分中心の日暮しです。私たちお互いがそうなのです。
ただお互いが私が私がといっていたら、それこそ争いの絶えることはありません。
そういう私たちが、あなたも私もみんな一緒に仏法を聞かせていただきましょうと、ご縁をいただきます。
お念仏を申しましょう。南無阿弥陀仏のお心おはたらきを聞かせていただきましょう。
南無阿弥陀仏の光をいっぱいあびて、春の日の日暮しをさせていただきましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.2.25)