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お念仏を申す生活法話

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仏さまのご縁です

2018-04-19
 昨日はお葬式でした。最近は家族葬という小規模なお葬式が多くなり、弔辞が殆どなくなりました。
お坊さんがお経を読み淡々とお葬式が進行していきます。
 
 昨日のお葬式は弔辞が三つ、詩吟のグループによる弔吟、そして最後にお孫さん4人のお別れの言葉がありました。
最近のお葬式では大変珍しいことですが、それだけ生前に地域をはじめいろんなお世話をしていたという証です。
 
 弔辞は先に往かれた方を偲ぶ縁です。
その人の業績を讃えお礼を申してこれからも私たちを見守ってくださいと申し添えます。
そして最後は決まって「安らかにお眠りください」で終わります。
 
 弔辞でその人となりを聞かせてもらいます。初めて聞くようなお話もあります。
 
 ではお坊さんが読むお経は一体どのように皆さんに受けとめられているのでしょうか。
仏式のお葬式にお坊さんとお経はつきもののようにあるもので、お葬式のBGMのように思われていたり
故人の成仏を願うためにお経を読まれると思っている方が一般的だと思いますが、
お経は仏さまの教えそのものなのです。
 
 仏さまの教えを聞かせていただけるのが、葬儀のご縁なのです。
私たちの日常は仏さまの教えに遇うことにほど遠い生活です。
それほど仏教を聞くことは甚だ難しいものです。
 
 大切な方とお別れするという悲しみのご縁ですが、そのまま仏さまのご縁といただける有難さです。
とはいってもお坊さんが読んでいるお経の意味がそのままわかるものではないでしょうが、
お葬儀のご縁にお参りされた一人一人の思いのなかにお経が入ってくるのです。
 
 日頃こうしてお勤めをさせていただきます。今日もお正信偈さまのお勤めです。
お勤めをする声がそのまま聞こえてきます。阿弥陀さまのお救いの法です。
南無阿弥陀仏のみ教えに遇って必ず浄土に救いとられるという教えです。
 
 仏さまの教えに遇うことは死んでから後のことではありません。
先に往かれた仏さまが南無阿弥陀仏となって私のところに還って来て、
仏法を聞いてくれよ、ナンマンダブツとお念仏を申す身になってくれよとお勧めくださるお勤めなのです。
 
 仏さまのご縁をいただくなかに先に往かれた大切な方とつながってあるということです。
人と人とはお別れをしますが、仏さまと成ってずっとこれからも共々に生きてくださるのです。
 
 お葬儀のご縁は悲しいご縁ですが、これから仏さまのご縁をいただけるという初めのご縁です。
お念仏のなかに日々の日暮しをしてくれよ、大丈夫だよいつも見守っているからねと
仏さまのご縁をこれからもいっぱいいっぱいいただきましょう。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.4.19)

いつもの姿でお浄土参り

2018-04-18
 昨日はIさんのお通夜のご縁でした。
たくさんの方がお参りで、お正信偈さまのお勤めをさせていただきました。
後ろから皆さんの声が聞こえてきます。何とも有難いご縁だなと思います。
 
 お遺骨をご仏前にご安置してのお勤めでした。
火葬する前にIさんがいつもお寺参りに身につけてらっしゃった門徒式章とお念珠を棺のなかに納めました。
いつものお寺参りのお姿です。今日の皆さんのお姿です。
 
 このお寺参りがそのまんま阿弥陀さまのお浄土へのお参りといただいて
私たちはいつか必ずこの命終えていきますが、それは特別なことではなく日常のなかの人として最後のご縁として
ナンマンダブツとお念仏申すそのままにお浄土に生まれ往きて仏さまと成らせていただき
この世に還って来て仏さまとしておはたらきを始めさせていただけると聞かせていただきます。
 
 死んだら終いじゃなかった。人の命は終えるけれども仏さまのいのちとなって
これからもずっと有縁の方々と共々に生き続けてくださるということです。
 
 今日がお葬式、そして明日は初七日のお勤めをします。
もう初七日の当たり日は過ぎていますが、一つ一つお勤めをさせていただきましょうと奥さんと相談しました。
 一つ一つ仏さまのご縁をいただけるという有難さです。
悲しみのご縁です。いろんな思いが残ります。
悔やまれることもたくさんあると思いますが、そういうなかに仏さまのご縁をいただけるということです。
 
 多くの方が門徒式章をつけられてお参りをされていました。
うちのご門徒衆も多かったのですが、式章が身につくというのは中々難しいことで、私のはからいがでます。
こういう時には付けて、こういう時には付けない方がいいとか、いろいろと考えをめぐらします。
 お寺参りのそのままでいいんです。
お浄土参りをさせていただくお同行です。お念仏のお仲間のお葬儀です。
門徒式章をつけてご一緒にお浄土参りの道すがらを歩ませていただきましょう。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.4.18)

これからもずっとご一緒です

2018-04-17
 ご門徒のIさんがお亡くなりになって、今晩がお通夜明日がお葬式というご縁です。
昨日ご遺体が三週間ぶりにご自宅に帰ってみえてお参りをしました。
 
 このお朝事にも毎週決まって土曜日にお参りをされていました。
日曜日に山に登って、次の土曜日のお朝事にお参りでなかったのでどうしたのかなと思っていましたが、
その日の夕方奥さんがお寺にみえられご事情をお聞きしました。
 それから二週間捜索活動があって一昨日の日曜日に山中で見つかったということです。
 
 昨日はご家族の方とご一緒にいつものお正信偈さまのお勤めをさせていただきました。
そのあと少しお話をしました。
 
 必ず命終わるということは我が身のことであります。その終わり方はそれぞれです。
私たちの生活もそれぞれです。
 一人一人、その生活ぶりは違います。
お経さまにはこの世に独り来りて独り去るとあります。
 この世に生まれるということについて自分が選んだことではなく
それこそこの世に放りだされたように私たちは生まれてきたんです。
 そして命終えていく時も独りなんですよね。
ただ私たちの仏教、阿弥陀さまのお救いのご法義をいただきますと、
一人だけれども一人じゃないというご法義なのです。
 いつも私が一緒だよとおはたらきの南無阿弥陀仏の仏さまと共々に生きていけるのです。
ナンマンダブツとお念仏申してこの人の命終えますけれども
そのまんま阿弥陀さまのお浄土に生まれて仏さまとならせていただけるという教えです。
 
 Iさんの仏さま、これからもまた毎週土曜日にこの時間お朝事のご縁にお参りされて
私たちをいよいよ阿弥陀さまのお浄土に導いてくださるおはたらきの仏さまに成ってくださったといただいて
今日明日の仏さまのご縁を皆さんと共々にお勤めさせていただきたいと思います。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.4.17)

ご先祖の仏さまつながり

2018-04-16
 昨日は○○家のご先祖の系図まつりという追悼法要のご縁にお参りしました。
10軒ほどのお家のご縁で、毎年この時期に勤められずっと円光寺の住職がお参りしています。
 
 昨日お参りした座元のお家は鶴崎の法華宗法心寺さんのお檀家のお家でした。
私の方からご本尊の阿弥陀さまをお供してご一緒に浄土真宗のお勤めをしました。
 
 ご先祖の始まりは一つで本家があって次々に分家ができていくわけですから、
どこのお家の宗旨も同じかなと思いますが、長い歴史のなかでいろんなことがあったのでしょう。
 
 先日そこのお家の若いご夫婦がお寺にご案内にみえて初めてお会いしたことです。
法華宗のお仏壇ですが、お参りされた方は浄土真宗円光寺のご門徒ですから、いつものお正信偈のお勤めをしました。
 後ろからお家のご主人の声がよく聞こえるんです。
初めてのお勤めだったと思いますが、すごいなと思ったのは、皆さんが声を出して読むと読めるんですね。
そんなに難しい節回しがあるわけではありません。
一つくだりを覚えたら聖典の字を追っていけばいいわけですが、あとは声が出るかどうかです。
 声が出るんです。周りの方々の声にのせられて声が出てくださるといってもいいかもしれません。
十方世界の諸仏諸菩薩方が阿弥陀さまの仏徳を讃嘆するおはたらきで
私の口からお念仏がこぼれてくださるといただきます。
 
 ご先祖の仏さまのご縁をいただくということです。
私たちの日々の生活のなかでこの系図まつりの意義を思います。
他のお家でも系図まつりがあったと聞いていますが、今は止まったといいます。
最近は近い親戚も日頃のお付き合いが薄くなっています。
さかのぼれば何百年も続く系図まつりの横のつながりは日頃は全くといっていいほどありません。
 
 だからこその系図まつりだと思います。
この地域に共に生きるなかで楽しいこともありますが、苦しいこともあったと思います。
そんな時ご先祖を同じくするご縁でお互いに支え合い助け合ってきたという歴史を思います。
 良い時あれば悪い時もあるというなかで仏さまのご縁をいただくというつながりです。
 
 ご宗旨の違いもありどんなお話をしたものか考えましたが、お仏壇のなかに和顔愛語という言葉がありました。
和やかな表情と優しい言葉です。仏さまのお心です。
 今京都のご本山西本願寺の山門に「和顔愛語」と韓国語や英語といっしょに書かれてあります。
宗派宗派に分かれていますが、元はお釈迦さまです、互いに通じる世界があります。
 お釈迦さまのお心み教えをいただくなかに、皆さんご一緒に阿弥陀さまのお心にふれたご縁になりました。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.4.16)

お念仏のご縁に遇わせていただく

2018-04-15
 昨日は別府別院の報恩講のご縁にお参りさせていただきました。別府別院の報恩講は4月なんです。
4月は別府は温泉まつりで賑わうということで、元々は4月上旬の温泉まつりに合わせて報恩講のお勤めをしていました。
温泉まつりに全国各地から来られる浄土真宗のご縁の方に別院の報恩講に遇ってほしいと考えられたのではと思います。
 
 報恩講の法要でお坊さんたちが普段の黒衣ではなく色衣という衣体をつけてお内陣に六人の僧侶が出勤され
三人の楽人が雅楽を奏でて賑々しくお勤めができました。
 
 ただもったいないと思ったのは、お参りのお同行があまりにも少ないことです。7人の方でした。
お勤めの後ご講師のご法話お取り次ぎがありました。
 お聴聞されるお同行のなかに一人の年輩の女性がいてしきりにメモを取っています。
ご講師が黒板に書く言葉を写しているんですが、書くことに集中して聞き取れないところもあるのか、
途中で「今なんて言いましたか」と聞くんです。
「こういうことです。そのお心はこうです」と応えてくださり、丁寧なお取り次ぎをいただきました。
 
 後で聞きますと、その方は別院の門徒さんではなくたまたま別府に来ていて
お寺の周りを通りかかったら五色の幕がかかっていて報恩講の案内があったと、それでお参りしましたということです。
 
 ご縁ということを思います。仏さまのご縁があったんですね。
ご縁がなかったらお寺に幕が張っていても「何かあるんかなあ」くらいで通り過ぎます。
報恩講ときいて浄土真宗門徒にとって一番大事な親鸞さまの年に一度のご法事のお勤めだと思う、ご縁ですね。
お念仏のご縁です。ご縁をいただいて昨日のご縁に遇えたということなのです。
 
 私たちは浄土真宗門徒といいますが、門徒といって中々ご縁に遇うということは難しいなと思います。
 今日の御文章さまのなかにお参りの皆さんの様子をみるのに、お寺に参るのはいいことだが
「酒飯茶なんどばかりにて皆々退散せり」という厳しいお言葉です。
お寺参りして飲んだり食べたりするばかりで、一番大事なご法義に遇うことが疎かになっているという指摘です。
 そんなことでは本当にもったいないなという蓮如上人の嘆きにもにたお言葉です。
 
 ただ酒飯茶ばかりで帰ってしまう人もお寺にお参りしているのですから、もうすでにご縁に遇っているということです。
その人その人をみると、そこのところが蓮如上人にはもったいなく思われたということではないでしょうか。
 何ともったいないことだと私たちに知らせて、ご法義に遇うてほしいお念仏申す身になってほしいと願われてあるのです。
 
 ご縁をいただくことの難しさですが、今日もこうしてお朝事のお勤めができたことを有難く喜ばせていただきます。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.4.15)
円光寺
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