家族の形態が変わるなかでお仏壇はお墓はこれからどうなるのか?
2018-09-17
家族の形態が大家族から核家族になって大分経ち今は当たり前になっています。
おじいちゃんおばあちゃんの家、お父さんお母さんの家、子どもの家、孫の家と
それぞれの世代で住む家が違ってきています。
近くに子どもがいても子どもの一家は親とは別の家に住んで別々の生活をしているということです。
毎日の食事が違います。近くにいてもずっと会わないこともしばしばです。
そして近年増えてきたのが二つの家族が一つの家に同居するという家族の形態です。
家の玄関に二つの表札が並んであります。夫婦がいてそれぞれの親と一緒に暮らす形です。
そうしたなかで先祖伝来のお仏壇が一つの家に二つあるところが増えてきました。
このお仏壇もいつかは一つになりますが、どんなかたちで誰があとをみることになるのでしょうか。
核家族の場合、母屋といわれる家に次の世代が帰ってきたらいいのでしょうが
生活の拠点がそれぞれの家になってくるとそうともいかず、親の家のお仏壇をそのまま子どもの家に移すことも難しく
お仏壇が小さくなったりお仏壇がなくなったりする問題がでてきます。
このことはお寺にとってもこれからの大きな問題です。
二つのお仏壇が同居するというなかで宗教が違うという問題も起こってきます。これも問題です。
お仏壇をそしてお墓をこれから誰がみるのか、私たちが元気なうちに考えておく大切なことになってまいりました。
60歳を過ぎて70歳前後となりいよいよそうした問題に直面する年頃になりました。
そんなことは今あれこれ考えてもどうしようもない、その時がきたら子どもが考えたらいいでは済まされない大問題です。
ここはお寺の出番でもあることです。
宗教仏教浄土真宗のことを基本から勉強してきた人ってそんなにいません。
なまじっかな知識であったり、何かあったときに考えればいいぐらいなものとしてみてきたことだと思います。
いざその時になってお寺にお参りして聞くということもはばかられ
仏教書を読んだり講演会に行ったりしても、その人人で見解が違うということもあってかえって迷うことにもなります。
直接ご縁のお寺にお参りしてお坊さんに聞いてくれればと思いますが、一般的にお寺とは距離を置きたい存在のようです。
ともあれ人と人とのご縁つながりのなかで仏教も伝わってきました。
お寺という仏さまのご縁の場で人と人お互いに顔と顔を合わせて
ご一緒に仏さまのみ教えに聞かせていただくことです。
お家お家でご相談の内容も違ってきますが、中心は一つです。
その人人に向き合って丁寧に相談させていただけるお寺になっていきたい
いやなっていかなければこれからこのお寺自体がなくなってしまうような危機感も殊更最近思います。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.9.17)

我がいのちのあり方を聞かせていただきます
2018-09-16
昨日は円光寺で大海組の連続研修会の開講式がありました。
昨日を入れて毎月1回13回連続して同じメンバーが大海組内の各お寺さんを回って研修するご縁です。
仏教浄土真宗のお勉強をします。
この連続研修会の特徴は話し合い法座といって班に分かれて10人ほどの方が毎回各テーマについて話し合います。
お寺のご法座といいますと、お坊さんがいてご門徒有縁の方がいて
お坊さんが一方的に話すご法話をご門徒さんはひたすら聞くということですが
さまざまな問いについて話し合いをもってその後まとめのご法話をいただきます。
昨日は初回ということでどんなきっかけ動機でこの連続研修会に参加されましたかというテーマでした。
ご院家さん坊守さんから言われて参加したという方もいれば
仏教のことも浄土真宗のことも本当に知らないままにお寺の役員になって
どう挨拶したらいいのか、また門徒の方から質問されてどう答えたらいいのか
そうした仏事のたしなみとか仏教浄土真宗の基本的なことについてお勉強をしたいという方が多くいました。
そのなかで私の班ではすごい問題意識をもって参加された方が数人おられてお話をされ少しびっくりしました。
私たちと同じ世代、60歳代70歳前後の方々です。
親を亡くすんですね。連れ合いの方ともお別れするなかで、ある方はこうおっしゃいました。
子どもが就職結婚して親としての務めは終わったのかなと思うなかで
ふっとこの人生あと残りの時間をどう生きるのかを考えるようになったいいます。
そういうなかでお父さんお母さんに続いてお別れをしたといいます。
お父さんは治ることが難しい病気で枯れるように亡くなったと
そしてお母さんは寝たっきりになって医者から「胃ろうしないと一週間内に亡くなります」と言われ
胃ろう処置をしてどんなご様子で生きられたかはわかりませんが、3年命が長らえたといいます。
亡くなった時にお母さんを抱えたら重かったというんです。お父さんの時は軽かったといいます。
お父さんは枯れるように亡くなってお母さんは胃ろうです。
その時に本当にこれでよかったのかなと思ったそうです。
一方で他の方のお話です。胃ろうをされた身内の方のお話で
病院に行って意識がなくても姿があるということでよかったというお話でした。
これってすごい問題ですよ。他人事ではなく自分自身が胃ろうとか終末期の医療にあうということです。
そのことを仏さまのみ教えに聞きたいというんです。
いのちのあり方です。わが命のあり方です。
私たちの命は死んだらお終いではない、仏さまに成るいのちを生きているということを
私のこととして聞かせていただくこともこの連続研修会の大きなテーマなのです。
ある女性はこう言いました。まだ死のことは考えたくないと。いやそれも本当のことだと思います。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.9.16)

阿弥陀さまのお手回しをいただきます
2018-09-15
今日の御文章さま「毎月両度の章」のお心をいただきます。
毎月お寺にお参りされる方がいらっしゃるが、その方を見ていると
何のためにお参りをしているのか不審に思うというんです。
いつもただ酒飯茶なんどばかりで皆々退散せりとあります。
皆で寄り合ってお酒を飲みご飯を食べお茶を飲むなど飲み食いだけで帰るのではもったいないと言うんです。
何のためにお寺参りするのかというと、それは自身の往生極楽信心獲得のためだとお示しです。
自身とはその人この私が信心を獲得して阿弥陀さまのお浄土に往生させていただく道を訪ねていく
聞かせていただくことが肝要だとの蓮如上人のお言葉です。
ただこれはご縁ということです。
お寺にお参りしたからお聴聞して信心いただいてお念仏申す身になるかというと
手間ひまがかかるということです。
そのことも阿弥陀さまはご存知で、ご縁いただけよご縁いただけよと
南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と何度も何度も喚びづめに喚んでくださってあるということなのです。
今日の私たちのことです。
ここにこうして御仏前に座ることができた両手合わさってナンマンダブツとお念仏申して
阿弥陀さまにお礼ができたということです。
このような私に仕上げてくださるまでに阿弥陀さまに何度も何度もお手回し
ご催促いただいたことだことだなあといいます。
南無阿弥陀仏の大きな大きなお心おはたらきのご縁つながりのなかにこの私がいるということをまた有難く思います。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.9.15)

一日一番
2018-09-14
今大相撲の秋場所があっていますが、注目の一つが久しぶりに出場した横綱稀勢の里の進退のかかった土俵です。
昨日勝って序盤の5日間五連勝と上々の滑り出しになりました。
この稀勢の里関の取組み後のコメントが決まって「一日一番」と言われます。
この一番に全力で集中するということです。
一番一番一つ一つの積み重ねがいい結果につながればということですが、それはわからないということでもあります。
私たちの日々の生活もそうですね。
一日一番、一日一日を大切に生きていきましょうというのが、仏さまの願いでもあります。
皆さんはこの一日一番ということを日々の生活のなかでどんな時に感じられますか。
稀勢の里関でいうと一日一番の取り組みに集中してということですが、私でいいますとこのお朝事が一日一番です。
ここから今日も一日が始まるというお朝事のご縁でもあります。
皆さんにとってはお仕事のこと家事のこと日々の生活のなかで、今日も一日迎えることができた今日も一日有難うと
一日一番のひとときを過ごしてらっしゃるのではないかと思います。
日々の営みのなかで一日一番のいのちを今生かされて生きていることを
南無阿弥陀仏とお念仏を申すなかにまた教えていただきます。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.9.14)

やるせない親心
2018-09-13
女優Mさんの次男が覚醒剤の容疑で逮捕されました。18歳で初犯そして今38歳で4度目の逮捕ということです。
有名人ということですぐさまテレビで取り上げられ記者会見したりコメントを出したりと大変辛いことだと思います。
ただ過去の事件の報道で「親として子どもの教育が失敗だったんでしょうね」と言われていたのが気になりました。
失敗といって何か他人事のように聞こえますし、子どもが聞いたらどう思いますかね。
自分は失敗作だと親から言われるのです。
親と子どもは同い年といいます。お互いに育っていくのが親子の関係といわれます。
ところが今は子どもを産むことを子どもをつくるといったりして
親が子どもを育てることも何か親の理想の子どもをつくるように思っているのだったら勘違いも甚だしいと思います。
世間の目はあの子は良い子、悪い子という見方でしかありません。
ただ世間がどんな見方をしようとも最後まで子どもを護り通すのが親であり、だからこそ親なのです。
親鸞聖人は御和讃に「仏さまは父のように捨てずして母のように添いたもう」と讃嘆されています。
お念仏の先人は阿弥陀さまを親さまとお慕いしてきました。いつでもどこでも私に寄り添い護ってくださる仏さまです。
ちょうどお父さんお母さんのようにと味わわせていただきます。
良い時だけ護り寄り添うのではありません。世間から石を投げられるような辛い状況にある時にこそ親の出番なのです。
親の言うことを聞くから護り寄り添うのではありません。
親の言うことを聞かない子どもだからこそ厳しい言葉も投げかけるのが親なのです。
私たちの親さま、阿弥陀さまです。
すーっとお立ちの阿弥陀さま、南無阿弥陀仏の仏さまです。
ずっとお立ち通しで南無阿弥陀仏「必ず救うまかせよ」とおはたらきの仏さまに成ってくださいました。
私が背中を向けて逃げまわっても耳をふさいでいても、どこまでも追いかけて喚びづめに喚んでくださる親さまです。
とはいえ親もまた生身の人間、自分中心の心から離れられず、仏さまのようにはできません。
それこそ親子の縁を切ろう、もう知らん放っておこうと思うのも親ですが
縁というのはどこまでもつながってある仏さまのご縁といただきます。
親も子も同じ大きな大きな仏さまのご縁のつながりのなかに生かされて生きてあると
気づかせていただけるのも仏さまのご縁に遇うことです。
やるせない親心、南無阿弥陀仏のお心おはたらきです。
私のところにすでに届けられている南無阿弥陀仏、親心に気づかず聞かずじまいに終わる人生ほど空しいものはないと
「本願力に遇いぬれば空しく過ぐる人ぞなき」と御和讃にまた聞かせていただきます。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.9.13)
