門徒はみんなお念仏の人ですか?
2018-09-27
昨日お寺の会議があっていろんな方の意見を聞くなかで
「私たちは浄土真宗の門徒というが必ずしも念仏者お念仏の人とは言えないのではないか」という声にはっとしました。
阿弥陀さまのご本願のお救いの法はもうすでに私たちのところに届けられているといいますが
そのことに気づかない、そのことを聞かずじまいに終わると
聞くことがないということは信じることもない、お念仏を申すこともないわけです。
今日の御和讃に「十方微塵世界の 念仏の衆生をみそなわし 摂取して捨てざれば 阿弥陀と名づけたてまつる」とあります。 門徒といわれてもお念仏のご縁に遇わなければお念仏の衆生とは言えないし救われないのではないかともいただけます。
ただお念仏を申すことがないその人を阿弥陀さまはそのまま放っておくのかというと
そういう人だからこそこの阿弥陀さまのお救いの法はその人目当てに南無阿弥陀仏とはたらいて
聞いてくれよお念仏申してくれよとまさに喚び通しに喚んでくださる仏さまになってくださったと聞かせていただきます。
南無阿弥陀仏のお喚び声のおはたらきのなかに今日の私たちがあるということです。
お念仏を申す私たちです。
そのこと一つ有難く受けとめさせていただき自分一人の慶びではなく隣の方にも声かけをして
お念仏を申して阿弥陀さまのお浄土に一緒にいこうえと南無阿弥陀仏のご縁をいただきたいと思います。
今朝早くから婦人会の皆さんがみえています。今日は敬老会のご縁です。
お寺の敬老会は仏さまのご縁です。お念仏を申してくれよとご催促の阿弥陀さまのご縁です。
あなたを必ずお念仏を申す身にさせ浄土に迎え取ると南無阿弥陀仏とおはたらきです。
共々に阿弥陀さまのご縁に遇わせていただきましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.9.27)

お勤めの後の楽しみ
2018-09-26
昨日ご法事がありました。マンション住まいのお家で
お仏壇がご安置された一間で私がお勤めをし次の一間にお家の方お二人が座ってご一緒にお勤めをさせていただきました。
ご法事のお勤めが済んでお家の方が「ご院家さんこちらへどうぞ」と皆さんがいる次の間に案内されました。
机にお茶とみつまめが用意されていました。
「ご院家さんが大好物と聞いてつくりました」と言われて、えっと思いました。
大好物? いつのことか忘れておりますが確かにどこかで同じようなものをいただいたと思います。
本当においしそうにいただいたのでしょうね。
それがご院家さんの好物、段々と話が膨らんで大好物になったのでしょう。
精いっぱいのお接待です。きっとご院家さんが喜んでくれるとの思いで用意してくださったのでしょう。有難いことです。
そのことで思い出したのはまだ私が若い頃お盆のお参りのときのことです。
お盆のお参りは各地区ごとに軒から軒へと続いてお参りします。
ある時ある地区でどこにお参りしてもお勤めの後に牛乳がでるんです。
えっと思ってそれとなく聞いたら、新院さん(当時)は牛乳が好きで牛乳を出すと喜んで飲んでくれるということでした。
ちょっと想像してみてください。10軒あったら10軒の殆どのお家でお勤めの後に牛乳がでるんです。
最初の二杯三杯ぐらいはいいですが、お勤めをして声を出すわけですから少々大変になります。
但しここはうまく断わることが中々できません。それで懸命に牛乳をいただいたという思い出です。
有難いんです。有難いんですよね。お勤めをしてくださって、はい終わりはいさよならじゃないんですよね。
お茶を飲みながらまた色んなものをいただきながらそこでいろんな話になるんです。
昨日もいろんな話になりました。
いろいろとお話しするなかで私たちのご法義お念仏のみ教えをご一緒に味わわせていただけるのが仏さまのご縁です。
世間話もそうですが私たちの中心は阿弥陀さまですからね。
阿弥陀さまのご法義の話、日頃の仏事です。仏さまの事のお話ができます。
そうしたご縁をいただいてお念仏のみ教えが次々と代々伝わっていくことをまた有難く思います。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.9.26)

中秋の名月です
2018-09-25
昨日は中秋の名月十五夜ということで、大分の方は雨模様で雲がかかって見えませんでしたが
東京の方では丸くきれいに見えたそうで、昨夜はテレビで今朝の新聞でも大きく写真が出ていました。
月光といいます。月の光です。お正信偈さまには「超日月光」と出てまいります。
阿弥陀さまの摂取の光明のおはたらきは日や月の光も超えるはたらきであるとほめたたえます。
月のはたらきです。月の光で本を読むという話を聞いたことがあります。
電気のない時代にあって月は明るい光を届けてくださるはたらきがあるということです。
月を私たちは眺めていますが、眺めているこの目で見えているということは
その月の光が私のところに届いているということなのです。
私たちの阿弥陀さまの光明のおはたらきは既に私のところに届いてあると聞かせていただきます。
南無阿弥陀仏と届いているというのです。
ナマンダブナマンダブとこの私の口からお念仏が出てくださるということが
もう既に阿弥陀さまの大きな大きな光明の縁に私たちは救い取られてあるということ
そのこと一つまた聞かせていただいて、今日が満月だそうです。
今日は天気予報では晴れるということです。
中秋の名月とまた重ねて満月の月を愛でて阿弥陀さまの大きな大きな光明のおはたらきを味わわせていただきましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.9.25)

お念仏の人のたたずまい
2018-09-24
昨日はお彼岸のお中日のお勤めをさせていただきましたが
お葬式がありまして、その後火葬場から直接お寺にお遺骨をもたれて還骨勤行というお勤めをします。
3時にお彼岸の法要が済んで、4時からのお勤めで昨日はお二人のお参りでした。
本堂にあがってもらい、私はお勤めの準備でお内陣にあがっていましたら、二組の方が納骨堂のお参りにみえました。
まずお一人の方、そしてご夫婦の方でした。
それとなくそのおすがたが目に留まり「あっきれいやな」と小さな感動を覚えました。
本堂の正面から入ってそのまま御仏前に座られます。
お賽銭をお供えしお線香を焚いてすっと手を合わせナマンダブナマンダブとお念仏を申してお礼をされます。
美しいお姿だなと思いました。
日頃からご縁のある方で、いつもの身についたお姿です。
納骨堂にお参りされる方も様々で、なかには御仏前を素通りするとか
本堂の端が開いていたら正面からではなくわざわざ端から入ってそのまま納骨堂に参る方もいらっしゃいます。
いいとか悪いとか言っているのではありません。
そのお姿を見て美しいなあと思い私もそうなりたいなあと思うのではないでしょうか。
皆さんです。お念仏の人です。
お念仏の人は南無阿弥陀仏の仏さまにご縁をいただきお育てをいただいて今のお姿になったのでしょう。
そのお姿を見て周りの方がそのお姿に育てられる。
その人が偉いという話ではなくて、阿弥陀さまを中心に南無阿弥陀仏のご縁をお互いがいただくなかに
ご一緒にお浄土へのお参りをさせていただきましょうとの思い一つに
そのお姿がお念仏申しお礼をさせていただくお姿になるのではないかなと思います。
日々のたしなみです。お念仏の人のたしなみです。
お念仏の人のたたずまいといいます。お念仏申す生活です。
日々の生活のなかで人に見せてやろうということではありません。
そういう思いが少しでもあったら、そのことにとらわれはからって
結局はしんどい思いをすることになってしまいます。
しんどい思いの私をそのまんま抱き取ってくださるおはたらきの仏さまが
南無阿弥陀仏といつでもどこでもご一緒してくださることに安心してお念仏申させていただきます。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.9.24)

お彼岸のお中日です
2018-09-23
お彼岸のお中日です。春秋年二回のお中日です。
太陽が真東から昇って真西に沈む、その真西の方に向かって先人は手を合わせ
ナンマンダブナンマンダブとお念仏を申したといいます。
その真西の方角に阿弥陀さまのお浄土があるとお経さまに聞かれるのです。
この目には見えません。行ったこともありません。そんなお浄土なんてあるわけがないと言われる人さえいます。
ただ私たちは仏さまのみ教えを信じ聞かせていただくなかに、確かに確かに阿弥陀さまのお浄土があって
そのお浄土には先に往かれた方がいらっしゃると聞かせていただきます。
先に往かれた方もお浄土ならば後に残ったこの私たちもまた同じお浄土に生まれさせていただけるのです。
それは私が頑張って私がよいことをしたからではありません。
今日の御文章さまのなかに何度何度もでてきましたが、南無阿弥陀仏の大功徳なのです。
必ず救うまかせよの南無阿弥陀仏の大きな大きなおはたらきのなかに
確かに確かにこの私が往き生まれるお浄土を阿弥陀さまの方でつくってくださったといただいて
今日はお彼岸のお中日のご縁です。
これから皆さんお家に帰ってお仏壇にお参りをして
ご家族の皆さん共々に今日の一日をお念仏申すなかに過ごさせていただきましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.9.23
