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お念仏を申す生活法話

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それぞれの思いを一つに寄せる

2018-04-07
 昨日は坂ノ市里の光国寺さんで布教大会のご縁があってお参りしました。
本堂が満堂の百人を超す多くのご門徒有縁の皆さんがお参りでした。
 
 布教使という浄土真宗阿弥陀さまのお救いのご法義をお話してくださるお坊さんが、
若い方から中堅どころ、超ベテランの方がご法話お取り次ぎしてくださいました。
 ご法話お聴聞されるお同行からナマンダブナマンダブとお念仏がこぼれる有難いご縁になりました。
 
 こういう光景を目の当たりにしますと、昨今ご門徒のお寺離れが言われる中で、
まだまだお寺は浄土真宗は捨てたものではないなと思いました。
 ただ超ベテランのこれまで何十年も全国各地のいろんなお寺で布教されてきた方からみると、
これからが心配だと言われます。
 
 30年前はといいます。私たちの親の世代ですが、30年前だったら今日のような布教大会のお寺のご縁にお参りして
家に帰ると「今日はどんなお話だった」と聞く人がいたと、聞かれるから話すことができたといわれます。
今は核家族になって、帰っても誰もいない、聞く人もいない、話すこともないと。
 
 お寺の大きなご縁はあるけれども、そのご縁が生活という場につながってこない、
つながっていないというのが今これからの時代ではないかなと思いました。
 
 ただ全く切れてしまったわけではありません。つながっていると思います。
昨日多くの人が集まったということの意味です。人数の問題ではありません。
お参りされた一人一人の思いが一つ阿弥陀さまのご尊前に寄せられたことの有難さ尊さです。
 
 この布教大会は「布教大会をしましょう」という思いの方がいて始まったことです。
その思いを隣の方に皆さんに伝えたんですね。
 その方がお坊さんだからということかもしれません。しかしお坊さんだけではこうした会はできません。
ご門徒有縁の皆さんという言い方をしますが、その一人一人の方が思いをもって
自分だけがお参りするのではなく、周りの方々に「いっしょにいこうえ~」と声かけをし誘い合って
昨日の布教大会ができたと思います。
 
 昨日お参りされた方が家に帰っても誰もいないかもしれません。
しかし皆さんの隣にはまだまだ仏法に遇っていない方がたくさんいらっしゃるということです。
そういう方々一人一人に何度も何度も声かけをすることが大事です。
 
 声かけをするということは寄り添っていくということです。
阿弥陀さまのご法義です。阿弥陀さまのお慈悲のお救いのご法義はいつでもどこでも
阿弥陀さまが南無阿弥陀仏となって私のところに来てくださり寄り添ってくださってあるという安心です。
 
 声かけはお坊さん一人のお役目ではありません。皆さんなのです。
皆さんが思いをもって隣の方に「いっしょにいこうえ~」と声かけをしていきましょう。
 
 仏さまのご縁に声かけをしてご一緒することは今この私にできることです。
今私にできることを精いっぱいさせていただきましょう。
 
 明日は花まつりの会をします。布教大会ではありませんが、同じ仏事、阿弥陀さまのご縁です。
お寺は自分には関係ないところ、お話を聞くばかりで退屈な所と勝手に思い込んでいる方もいるかもしれませんが、
明日は花まつりということで皆さんに白像を引っ張ってもらいお寺の周辺をパレードします。
お釈迦さまの誕生仏に甘茶をかけてお釈迦さまのご誕生をお祝いします。
そして初めての試みですが、フルートとクラシックギターのコンサートをします。
 
 今まで全くお寺にご縁のない方、ご門徒でない方にも、どうぞ皆さんの隣の方に「いっしょにいこうえ~」と
声をかけられてご一緒にお参りください。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.4.7)

見るに見かねて、居ても立ってもおられません!

2018-04-06
 昨日は一日中大相撲の京都舞鶴巡業での話題でもちきりでした。
土俵の上で挨拶をしていた主催の市長さんが突然倒れ、女性が土俵に上がって緊急処置をしていたところ
「女性の方は土俵から下りてください」と何度もアナウンスがあったことが波紋を広げています。
 
 このニュースの映像を観た時皆さんはどう思いましたか。
私は何かとても嫌な感じがしました。
 
 女人禁制という大相撲の伝統があるということですが、土俵の上に人が一人ばたっと仰向けに倒れているんです。
男性が5,6人土俵に上がりました。でも何もできなくて、どうしていいかうろたえるような状況が見て取れました。
 その時、すーっと女性が土俵に上がってきて、何もできない男性を押しのけ心臓マッサージを始めました。
そしてもう1人女性も加わって見事な緊急対応でした。すごいなと思いました。
 
 女人禁制とか、誰が上がって良いとか悪いとかいうのではなく、人の命に係わる緊急事態なのです。
その女性は看護師さんだったということですから、事の重大性、一刻を争うということが誰よりも分かっていたんですね。
アナウンスがあった後も緊急処置を続けていました。
 
 その身についた思いがそのまんま行動になって表れたということです。
何も技量をもっていない者が土俵に上がっても意味がありません。みんなポカーンとしているだけです。
 
 阿弥陀さまのご本願のお救いを聞かせていただきます。
 迷いのなかにあって迷いを迷いと気づかず朝から晩まで私が私がと
自分中心の煩悩の火を燃やして生きる私たちを苦悩の重病人と見るに見かねて見抜かれて、
一切の衆生を分け隔てなく必ず救うとご本願を建てられ成就されて阿弥陀さまに成ってくださいました。 
 
 阿弥陀さまは私たちを救うすべての手立てをすでに成就完成されているから、すっ飛んで来られるのです。
手立てがなかったら向こうから眺めているだけでどうしようもありません。
 
 この私を必ず救うという手立てを十劫というはるか遠い昔につくって
今まさに私のところに南無阿弥陀仏と来てくださっているという阿弥陀さまのお救いなのです。
 
 すぐそこに倒れている人がいる、困ってらっしゃる方がいる。
そのことを見た時、座っちゃおれんで立ち上がってそのまま私のところに来てくださるのです。
 
 私たちが生きる社会にはその社会の構成員である私たちが共に生きるためのルールがあります。
条文化された法律であり、道徳や昔からの言い伝えまで
社会の常識というルールがあってこの人間社会は成り立っているともいえますが、
今回のように伝統というルールを守ることだけに固執してしまうと、おかしなことにもなってしまいます。
 
 何を守るかです。一番守るべきものは何かということでもあります。
 
 人一人の命にかかわる緊急事態です。
私が不意に倒れて何もできない状態になった時、
すぐそばに人がいるのにただ見つめるだけということが現実に起こったら、絶望的ですね。
 
 阿弥陀さまのお救いはこの私一人のお救いです。 
すぐさま私のところに駆けつけてくれて「大丈夫。私がいるから大丈夫」とそのまま抱き取り救うてくださる。
南無阿弥陀仏のおはたらきに安心して今こここの私を生きていけます。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.4.6)

プランターのお花に思いを寄せて

2018-04-05
 4月8日はお釈迦さまのお誕生日で、今年はちょうど日曜日になります。
花まつりの会ということで、お寺で行事をしますが、
年度初めの日曜日で良い時候ということもあって、他にもいろんな行事があるということです。
 
 鶴崎の剣八幡神社のお祭り、遠見金毘羅宮のお祭りや三佐の体協の総会も重なって、
「すみません。花まつりにはお参りできません」と言われる方が多くいます。
 
 境内にプランターのお花がいくつも寄せられています。有難いことです。
その当日参加できなくても、プランターのお花というかたちで参加できるということです。
 
 何の行事でも一人でできるものはありません。
皆さんが思いを一つにしてはじめてできる、私たちの花まつりの会です。
 皆さんのお心をプランターという形にしてお寺にはこんでください。
もちろんその日に時間がありましたら、どうぞお誘いあわせ皆さんご一緒にお参りしてください。
 
 お釈迦さまのお誕生日です。
「お釈迦さまおめでとう、そしてありがとう」とお礼をさせていただきましょう。
 
 お釈迦さまが開いてくださった仏教です。
その仏さまのみ教えをいただいて、浄土真宗という仏教を親鸞聖人が開いてくださいました。
 お釈迦さまから2500年、親鸞さまから800年という時空を超えて、
今こここの私に阿弥陀さまのお念仏のみ教えが届けられました。
 
 お念仏を申すなかに4月8日を皆さんそれぞれお迎えしてほしいと思います。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.4.5)

お念仏のご縁つながり

2018-04-04
 昨日は竹田のお寺の坊守さんが2月にご往生されて、お参りさせていただきました。
 
 十年ほど前のこの時期に、坊守と一緒に花まつりの行事にお参りさせていただいたことがあります。
うちのお寺より一回り二回り小さな本堂が満堂になるほどいっぱいの皆さんがお参りでした。
 ご門徒の方ももちろん、近くの福祉施設の入所者の方がマイクロバスでたくさんお参りされていました。
毎年施設の方にご案内して一緒に花まつりの会をして、
灌仏といってお釈迦さまの誕生仏に甘茶をかけたり、梵鐘をついてもらったりしているそうです。
 
 昨日お参りした時、たまたまその福祉施設の方がお参りされてお話を聞かせていただいたことです。
何かのご縁を感じました。
 
 実はそのお寺から円光寺に第13代の住職が入寺されているのです。
160年ほど前に円光寺が大地震に遭って本堂庫裡鐘楼が転覆したという記録がありますが、その時の住職です。
 
 昨日お参りしてそのことについてもご院家さんにお話を聞きたいということもあったのですが、
そういう方がいたということは聞いていましたということです。
 その方についての資料がすぐあるということではありませんが、
こうしたご縁つながりということを本当に感じます。
 
 私たちの日々の生活のなかでこの目に見える直接的なつながりということもありますが、
目に見えないつながりが遠い過去からあって、そしてこれから未来へもつながっていくということです。
 
 未来へというと何か不確かな感じですが、
私たちは南無阿弥陀仏という中心をいただいているご縁つながりという確かさを思います。
 確かに確かにずっとつながってきたし、今もつながっているし、これからもつながっていくという、
大きな大きな安心のなかに今日の一日もあるんだなといただいた昨日のご縁でありました。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.4.4)

二つの過去帳

2018-04-03
 昨日はあげ法事ということで、お寺の本堂でご法事のご縁をいただきました。
神奈川県からお参りされた方で、ご兄妹が大分にいらっしゃるということです。
 
 ご法事のお勤めの後「過去帳をもう一つつくってもらえませんか」というご相談がありました。
神奈川にお仏壇があるんですが、大分にも過去帳をということです。
 
 今は位牌を過去帳にしましょうとご門徒さんに勧めていますが、
位牌にご先祖の霊が宿っているといわれることを聞きます。
 
 私たちの浄土真宗のご本尊は阿弥陀如来さまで、お仏壇の中心にご安置しますが、
一般的にお仏壇はご先祖をおまつりするところで、位牌を安置してお経をあげてもらうことによって
ご先祖を供養するとか慰霊するとか言われているようです。
 
 浄土真宗だけではありません。仏教の各宗派にはご本尊の仏さまがあって
お寺の中心、お仏壇の中心にご安置してお参りさせていただくことが肝心なのです。
 
 お経をあげないとご先祖の霊が迷って出てきて禍をかすということではありません。
だからお命日より早くご法事のお勤めをしないといけない、遅れたら大変なことになるということではありません。
 
 過去帳を二つつくって、その人の代はいいんでしょうが、
その経緯がわからないまま子や孫の代に伝わると、
過去帳が二つあることが不安になり、粗末にできないと迷ってしまいます。
 
 ご先祖は子や孫を迷わせたり困らせたりしません。
今は仏さまとなって私たちを見まもってくださっていると聞かせていただきます。
 いつでもどこでものおはたらきですが、その大きなご縁がご法事のご縁なのです。
 
 過去帳はご先祖の方々のいのちの記録です。
過去帳が大事なのは、ご先祖のいのちがあって私のいのちがあることを思うことなのです。
 
 お家のお仏壇、ご本尊の阿弥陀さまにお礼をしましょう。
そのことがそのまま阿弥陀さまのお浄土に生まれて往かれたご先祖有縁の仏さまにお礼をさせていただくことなのです。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.4.3)
円光寺
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大分県大分市三佐3丁目15番18号
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